4 最初の犠牲者

「ここにいるってことは、じんも結局あの黒い霧に?」

「飲み込まれたみたいだな。気が付いたらこの世界にいた」

「何で逃げなかったんだよ。お前まで巻き込まれることは」

「お前たちを放ってはおけない。向こうには世里花せりかを残して来たから、俺達に何かが起こったことは大人にも伝わると思う」

「世里花が無事ってのが、せめてもの救いだな」


 いくら大人とはいえ、このような得体の知れない異空間へと救出の手を伸ばしてくれるだろうか? 考えていることは二人とも同じだったが、これ以上不安感を強めたくないのでお互いに言葉には出さなかった。りょうの言うように、今は世里花だけでも巻き込まれずに済んだことを喜ぶべきだろう。


「俺が到着した時点で、境内はすでに霧に包み込まれていた。一体あそこで何があったんだ?」

「……何もしてない。俺達はただ境内に踏み入っただけだ。最後尾の俺が境内を踏んだ瞬間にどこからともなく黒い霧が出てきて、腰の抜けたはるかが真っ先に飲まれて姿が見えなくなった。続けて宏人ひろと千佳ちかがほぼ同時に。俺も一瞬で囲まれちまって、逃げる間なんてまるで無かった。俺が向こうで最後に見たのは、必死に手を伸ばしてくれたお前の顔だ」

「こっちに飛ばされてからは?」

「ほんの少し前に目覚めて、道なりに進んで来たらお前に出会った」

「鬼は見たか?」

「鬼って何だよ? 桃太郎とかに出てくるあの鬼?」


 反応から察するに、涼はまだ鬼とは遭遇していないようだった。平静を保っていられるのは、目に見えた脅威を体験していないからというのも大きいのだろう。


「もっと、見るからにやばそうな鬼だよ。今はまだ信じられないかもしれないけど、またどこかで遭遇する可能性はある。いざという時は全力疾走で逃げるつもりでいてくれ」

「お前は見たのか?」

「見た。追いつかれたら殺されていたと思う」

「……命懸けの鬼ごっこか、笑えない状況だな」

「黒い霧に飲まれて別世界に飛ばされた時点で、十分笑えないよ」


 実感は伴わずとも、緊張感漂う尋の物言いには大きな説得力がある。涼は終始硬い表情で尋の忠告に聞き入っていた。

 涼は運動神経がいいので、逃走に徹すれば命懸けの鬼ごっこを生き抜ける可能性は高い。後はいざ実際に遭遇した際に恐怖心で固まらないことを祈るばかりだが、こればかりはその時になってみないと分からない。


「頭の中で声は聞こえたか?」

「頭の中に声? 確かに訳の分からない状況だけど、幻聴が聞こえるまでは追い詰められてないぜ」


 質問した時点でその返答は想定していたので尋は素直に頷く。余計な混乱を避けるためにも、無理にこの話題を広げる必要はないだろう。

 あの謎の声は今のところ尋にしか届いていない。普通に考えれば涼の言う通り幻聴の類と考えるべきなのだろうが、あそこまではっきりと、明確な意志を宿した幻聴などあり得るだろうか? 異常な状況においては、不可思議な出来事こそが正常な場合もある。短時間で様々な経験をしたことで、尋は良くも悪くも異常に慣れつつあった。

 

「尋、これからどうする?」

「先ずは宏人たちを捜すべきだと思う。この世界には鬼がうろついている。早く合流しないと手遅れになる」

「合流には賛成するけど、みんな同じこの世界にいるのかな?」

「少なくともお前とはこうやって早い段階で会えた。他のみんなも意外と近くにいるかもしれない……いてほしい」


 あまりにも異常な状況下だ。希望的観測でも口にしなければやっていられない。


「とにかく、先ずは周辺を」

『少年よ。どうやら悲劇は始まったしまったようだぞ』


 沈黙を破った、謎の声による不穏な言葉。

 思わず感情的に声を張り上げた尋と、事情を呑み込めず、突如声を荒げた尋の姿に驚く涼。それぞれ異なる混乱を感じている中、回答は最悪な形でもたされることとなる。


「いやああああああああ――」


 離れた位置から響く少女の絶叫。その声は共に黒い霧に飲み込まれた同級生――富良野ふらの千佳ちかのものと思われた。最悪の事態が頭を過る。


「行かないと!」


 悲鳴の方向へと迷いなく駆け出した尋の後を、涼が慌てて追いかける。

 尋も同年代の中ではかなり足が速い。運動神経抜群の涼とはいえ、出遅れれば尋の背中を見失ってしまう可能性がある。早々に離れ離れにはなりたくない。


「足場が変わってる。転ぶなよ」

「おいおい。まじかよ」


 両者が速度に乗って来たのとほぼ同時に、再びワープらしき現象が発生。それまでは森林の中を駆け抜けていたはずなのに、周辺の風景が何時の間にやら、ゴツゴツした岩の点在する丘陵地きゅうりょうちらしき場所へと変わっていた。すでに三度目である尋は冷静だが、ワープを始めて体験した涼は驚愕に表情を引きつらせている。


「やめ――あ、嫌っ――」


 悲鳴が先程よりも近く、それでいてか細い。

 幸か不幸か、千佳の近くに飛んできたようだ。

 丘陵地の緩やかな斜面を数十メートル駆け下りたところで、少し離れた岩場に二つの人影を発見したが。


「そんな……」

 

 双眸そうぼうで千佳の姿を捉えた尋が、脱力したかのように不意に立ち止まった。


「千佳がいたのか?」


 涼はバランスを崩しそうになりながらも急ブレーキで立ち止まり、尋の視線の先へと視線を向けるが、次の瞬間には驚愕のあまり、涼は腰を抜かしてその場に尻餅をついてしまった。脳の情報処理が追いつかず、尻をついた際の痛みをまるで感じていない。

 岩場の影で、一本角の鬼が千佳の体の前で咀嚼音そしゃくおんを立てていた。景色同様に灰一色の鬼の口から、絶え間なく滴り落ちる真っ赤な鮮血。現状、この世界で色を有しているのは外部から来た、謎の声の言うところの「稀人まれびと」のみだ。


「……千佳を……食ってる?」


 咀嚼を繰り返す鬼の口腔こうくうから、血肉とも臓腑ぞうふとも判別出来ぬ赤い塊が零れ落ちた。やや距離があり完全には状況を把握出来ないが、千佳の体は微かな痙攣けいれんを残すだけで、先程まで聞こえていた悲鳴が完全に途絶えている。悲痛な叫びこそが微かな生存の望みだったというのは、あまりに残酷な現実だ。


「ふざけるな……」


 尋が感情的に声を震わせる。千佳の生存はすでに絶望的かもしれないが、それでも、友人の体がこれ以上惨い扱いをされるを黙って見ているわけにはいかない。

 近くに落ちていた石を拾い上げ、尋は千佳の遺体へかぶりつく鬼目掛けて全力で投擲とうてきしようとした。


「馬鹿、止めておけ!」


 必死の形相で涼が尋の腕を取り投擲を妨害する。

 千佳の身を案じる気持ちは涼とて同じだが、だからといって自分達が危険を冒すことまでは許容出来ない。生存本能が優先したのは、友人の無謀な行為を止めさせることであった。


「けどこのままじゃ千佳が」

「……もう手遅れだ」


 尋とて決して冷静さを失ったわけではない。苦々しく唇を噛みしめながらも残酷な現実を受け止め、脱力した右腕からは投擲しようとした石が零れ落ちた。石が地面へと落下し鈍い音を立てたが、食事に夢中の鬼の耳には届いていなかった。


「……鬼の意識が千佳に向いている間にここを離れよう。全員で帰れないのは悔しいけど、他の奴らも心配だ」


 尋とは目を合わせず、涼は震えた声で捲し立てる。他の友人達を心配しているのはあくまでも建前。鬼という異形の怪物を始めて目の当たりにした今、一刻も早くこの場から去りたいという恐怖心が何よりも強かった。


「……分かった」


 来た道を足早に引き返す涼の背中を追いながらも、尋は何度も後方を振り返り、千佳の遺体をその目に焼き付けていた。凄惨な光景から目を逸らしてはいけない。友人の死を経て芽生えた感情を決して忘れてはいけない。


 尋の中では鬼に対する怒りの念が、恐怖の感情を塗りつぶしつつあった。

 懇願こんがん交じりに止めてきた涼の手前、必死に感情を抑え込んでいるが、本心では今からでも身をひるがえし、鬼に殴り掛かりたくて仕方がなかった。


 ――俺にもっと力があれば。


 異形の怪物に立ち向かえる力があったなら、千佳の命を救えたかもしれない。

 救えなかったとしても、せめて仇を取ってやることは出来たかもしれない。

 どちらも出来ない、あまりにも無力な自分が情けなくて仕方がない。

 鬼という異形の怪物を前に、僅か13歳の少年が出来ることなどたかが知れているが、それを仕方がなかったと割り切れる程、深海ふかみじんという人間は器用ではない。


『力が欲しいか少年?』


 感情を読み取ったのだろうか? 謎の声が唐突に問い掛ける。


「欲しい」


 思考を伴わぬ、感情的な即答だった。


『即答とはますます面白い。鬼に臆せず立ち向かおうとした点も好ましい』


 それまでは無感情な印象だった謎の声の主が、この時ばかりは微かに笑っているような気がした。


『だが、それだけではまだ足りないな」

「何が足りない?」

『人であることを辞める覚悟だよ』

「どういう意味だ?」

『とても大切な話だ。直接顔を合わせて伝えるのが筋だろうな』

「あんたもこの世界にいるのか?」

『魂の残火ざんかに過ぎぬがね。確かに私はまだ存在している』

「どこに行けば会える?」

『答えはもう分かっているのではないかな?』


 不意に尋の脳内に色のついたイメージが流れ込んできた。この世界のどこかを映し出したその風景には、現実世界で神隠しが噂となっていたくだんの神社の境内らしき場所が映し出されていた。


「この世界にもあの神社が?」

『待っているぞ、少年』


 そう言い残し、謎の声は尋の脳内から姿を消した。


「さっきから誰と話しているんだ?」


 不気味さえ故に、後方は振り返らずに涼が問い掛ける。


「分からない。だけど、あいつの言葉だけが俺達の生存の道であることは間違いない」


 尋が涼の前へと躍り出て、速度を上げて涼を先導していく。 

 知らない場所のはずなのに、この方向へ進めば件の神社に辿り着けるという根拠のない自信が芽生えていた。


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