5 狂気

「お、おい。また風景が」

「大丈夫だ。こっちで合ってる」


 じんを先頭に丘陵地きゅうりょうちけていると、再び周辺の風景が歪み、一瞬で森林と思しき場所へとワープした。

 今だにこの感覚に慣れないりょうは不安気だが、尋は一切動じることなく、決して走力を緩めることはない。

 確信をもって一心不乱に駈ける尋の姿は、吹っ切れたようにも、何かに憑りつかれてしまったかのようにも見える。


「そもそも俺らはどこに向かってるんだ?」

「神社だ」

「神社ってどの神社だよ。まさか、向こうで黒い霧に襲われたあの神社か?」

「それは俺にも分からない」

「……さっきからお前、何か変だぞ」


 速度に慣れてきた涼が尋と肩を並べ、眉をしかめて尋の横顔を伺う。

 友人と共に行動出来ることは素直に心強い。己の恐怖心ゆえに行動を制してしまったが、千佳ちかのために臆せず鬼に立ち向かおうとした尋の姿は勇ましく、心から尊敬できるものだった。


 その一方で尋は出会って以降、何やら突然独り言を発したり、危機的状況にあっても謎の自信を覗かせたり、少々理解に苦しむ行動を見せることもある。尋に対する期待と不安が、涼の中で複雑に絡み合っていた。


「何よりもおかしいのは、この世界そのものだろう。ちょっとぐらい変じゃないと付き合いきれない」


 尋は皮肉交じりに笑うが、図らずもその言葉が最悪の形で現実化してしまうこととなる。

 異常な状況に晒された時、生存本能を覚醒させ全力で生き抜こうとする者もいれば、異常な状況に飲み込まれ、自らもまた異常へと染まってしまう者だっている。


「止めろ……止めてく――」


 不意に耳へと届いた、聞き慣れた声の聞き慣れない弱々しさ。

 並走していた尋と涼は同時に立ち止まり、辺りを見渡す。


「今の声、まさか宏人ひろとか?」

「近いぞ」


 先程の千佳の時よりも圧倒的に近い。距離感から推察するに、宏人は同じ森林内のどこかにいるものだと考えられた。

 声を頼りに尋は木々の間を器用に駆け抜けていく。

 近づいていく間にも、宏人らしき声は懇願と悲鳴とを交互に繰り返している。何者かにしいたげられていることは間違いない。

 鬼との対峙を想像し頬に冷や汗を浮かべながら、尋は声の出所である、木々の開けた一角へと躊躇なく跳び込んで行った。


はるか?」


 目の当たりにした光景は、想定外の衝撃を尋へと与えた。

 うつ伏せに倒れ込み後頭部から激しく出血し悶絶する宏人と、宏人に馬乗りとなり、両手に血塗れの大きな石を握った遥の姿。


 この場に鬼などいない。

 ならば誰が宏人を傷つけたのか、答えは明白だ。


「どうして遥が」


 尋に生じた動揺は、初めてこの世界へ飛ばされた時や、初めて異形の鬼と対峙した時をも上回っている。

 気弱だが心優しく、暴力とは最も縁遠い存在だと思っていた四方木よもぎはるか。そんな彼がどうして、同級生である宏人を傷つけている?

 

 動揺は思考を鈍らせ、行動力を失わせる。


「尋くんか、君が無事で良かったよ」

「止めろ――」


 制止しようと尋が一歩踏み出すも時すでに遅し。

 温かい声色で、心の底から尋の生存を喜ぶ優しい遥は、微笑みを浮かべたまま、渾身の力で宏人の後頭部目掛けて大きな石を叩きつける。

 すでに虫の息だった宏人は、短い断末魔の悲鳴を上げて全身が激しく痙攣。程なくして完全に沈黙した。


「はっ? えっ?」


 遅れてその場へと到着した涼も、親友のあまりにも衝撃的な最期を目撃していた。直ぐには言葉を発せず、現実逃避するかのように、短く疑問符を発することしか出来ないでいる。


「……どうしてお前が宏人を?」


 一縷いちるの望みを託し、尋は沈痛な面持ちで問い掛ける。

 どんな苦し紛れの言い訳でもいい。否定の台詞を遥の口から聞きたいと願う。

 しかし、


「こいつのことが嫌いだから」

「どういう意味だよ!」


 激情に声を張ったのは、目の前で親友を殺された涼であった。


「こいつのせいで千佳ちゃんは僕に振り向いてくれない」

「……そんな理由で宏人を殺したのか?」


 遥の千佳に対する思いにまったく気づいていなかった涼にとって、それは確かに驚きの告白ではあった。しかし、だからといって嫉妬心など同級生を殺害する理由足り得ない。

 あまりの理不尽さにいきどおり、涼は拳を振り上げたが、冷静さを保っている尋が静かにその手を下ろさせた。


 涼の気持ちは理解出来るが、遥の言い分がこれだけで終わりとは思えない。殴るのは全てを聞き終えてからでもいい。


「遥、こっちに来てから何があった?」


 狂気を宿してこそいるが、少なくとも遥の尋への態度は温和な印象のままだ。尋からの質問になら素直に答えてくれるかもしれない。


「……岩場で目覚めて、直ぐに宏人と千佳ちゃんと再会した。信じてもらえないかもしれないけど、その時は殺意なんてまったく抱いていなかったよ。仲間との再会が心の底から嬉しかった……けど安心したのも束の間、僕達の前に化け物が現れた」

「鬼か?」

「確かにあの怪物は鬼としか形容しようがないね……僕達は必死に鬼から逃げ延びようと必死に駈けた。だけどあの辺りは足場が悪くて……」


 三人が再会したという岩場の多い丘陵地。それは恐らく、先程まで尋と涼がいたあの場所のことだろう。無残に食い殺されてしまった千佳のことを考えれば、何が起こったのかはある程度想像がつく。


「千佳ちゃんが転んで、鬼に追いつかれそうになった。僕は宏人に助けなきゃって言ったけど……宏人の奴『放っておけ』って、そのまま走り続けやがった!」


 怒りの感情を爆発させ、遥は爪が食い込む勢いで頭皮を掻きむしった。

 憤怒の形相に、それまでは怒りに震えていた涼も気圧されている。


「千佳ちゃんを見捨てるわけにはいかない。怖かったけど、僕は千佳ちゃんを助けるために引き返そうとしたよ……それなのに、振り返って駈け出そうとした瞬間、突然風景が変わってこの森の中に……訳も分からぬまま、直ぐに、遠くから千佳ちゃんの悲鳴が聞こえてきた」


 ある意味、最悪のタイミングでワープが発生したといえる。助けたい人が目の前にいたはずなのに、一瞬の間に助けることが困難な距離まで飛ばされてしまったのだから。

 その瞬間が遥にとって初めてのワープでもあった。現実感のない、想い人との唐突な今生の別れ。その衝撃は凄まじいものだったはずだ。


 尋と涼は、千佳の悲鳴から程なく森林から丘陵地へと飛ばされた。タイミング的に考えて、遥とは行違うような形となったのだろう。行違わず再会を果たせていたなら、結末はまた変わっていたかもしれない。


「風景が変わる直前、最後に聞いた千佳ちゃんの言葉は何だったと思う? 『助けて宏人』だよ。その宏人は我が身可愛さに一度も振り返らずに走っていた。あまりにも千佳ちゃんが可哀想だろう」

「だから宏人を?」

「……風景が変わると同時に足場も変わってさ。太い木の根に足を引っかけた宏人が派手に転んだ。足を痛めたようでなかなか起き上がれなくてさ。都合のいいことに目の前には手ごろな大きさの石も転がってて」


 遥の瞳は千佳を救えなかった後悔で涙を零し、口元は憎き宏人をこの手で殺せた幸運を噛みしめ、狂気的に笑っていた。


「復讐のつもりで全力で石を振り下ろしてやった。あいつ、最後までどうして僕がこんなことをしているのかまったく分かってなかったみたいで。千佳ちゃんに対する謝罪なんて一言も口にせず、『止めてくれ』だの『助けてくれ』だの、自分を守る言葉ばかり吐きやがって……最期の瞬間は君達も御覧の通りだよ」


 独白を終え、遥は電池が切れたかのように脱力し、その場に膝をついた。

 頭を掻きむしるのを止めた両手の爪には、皮膚片や乾いた血が挟まっている。

 狂気と悲しみに震えた遥の痛々しい姿を目の当たりにし、涼は自然と拳を解いていた。親友を奪われた怒りは未だに冷めやらぬが、遥を凶行に走らせた理由は、肯定は出来なくとも理解は出来る。少なくとも、感情的に殴り飛ばすような真似はもう出来そうにない。


「行かなきゃ」

「おい、遥」


 再起動した遥が機敏な動作で立ち上がり、後方へと振り返った。

 その先は、少し前まで千佳の悲鳴が聞こえていたであろう、丘陵地の方角だ。

 丘陵地へ向かえば再び鬼と遭遇し危険に晒される可能性が高い。宏人を殺めてしまったとはいえ、友人をみすみす危険に飛び込ませるわけにはいかない。


「死んで何も言わなくなった千佳ちゃんなら、僕を受け入れてくれるかもしれない。千佳ちゃんを探さなきゃ」


 遥の表情を覗き込んだ尋は思わず息を飲んだ。

 発言もさることながら、独白を終えて落ち着いたとばかり思っていた遥の表情には、これまで以上に狂気的な笑みが浮かんでいた。血走った両目には目の前の尋や涼の顔はまったく映り込んでいない。

 今の遥かの内にあるのは、例え変わり果てた姿であったとしても、想い人である千佳ともう一度会いたいといういびつな願いだけであった。


「待っててね、千佳ちゃん」


 小柄な体のどこにそんな力が隠されていたのか。遥は体格で勝る尋の制止を軽々と振り切り、丘陵地の方角へと駆けていった。

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