3 鬼ごっこ

「俺は、生きてるのか?」


 意識を取り戻したじんは、自分が生きているのだという事実に驚いていた。黒い霧に飲み込まれるとほぼ同時に意識を消失した。自分はこのまま死ぬのだと、本気でそう思っていた。

 上体を起こし、身体の調子を確かめてみる。手足はちゃんとついているし、目立った外傷も無い。吐き気や寒気などの不調も特には感じられず、体は健康そのものだ。


 一応は無事だと考えてもいいだろう。あくまでも肉体的にはだが。

 

「何なんだ、ここは」


 周囲を見渡し、改めて自身の置かれた状況に困惑する。

 この場所は黒い霧に飲み込まれた境内とは明らかに異なる。現実世界であるのかどうかも怪しいところだ。


 尋のいる場所は、全てが灰色だった。

 周辺の草原も、遠くに見える山肌も、足元に広がる地面や無数に転がっている小石も、見上げた先にある大空でさえも、あらゆる風景から本来あるべき色が抜け落ちている。まるで、古い写真の中に迷い込んでしまったかのようだ。


 灰色なのはどうやら風景だけで、自分の体や身に着けている衣服や時計、靴などには本来あるべき色彩が残されていた。

 異常なのは今いる空間の方に違いないが、灰一色の世界に放り出されると、色味のある自分の方が異質な存在だと錯覚してしまいそうになる。


 ここが現実世界とは思えない。だとすれば、あの黒い霧に飲まれたことで、まったく異なる世界に引き込まれてしまったと考える他ないだろう。

 オカルトなど今までは信じていなかったが、神隠しの噂と境内で襲ってきた黒い霧。この世の光景とは思えぬ灰色の世界を目の当たりした今ならば、不可思議な事象もすんなりと受け入れられるような気がした。

 あの黒い霧が原因だとすれば、境内にいた三人もこの世界に引き込まれた可能性が高い。尋は周囲を180度見回してみるが、視界に写る範囲に人影らしきものは確認できなかった。


「みんなを捜さないと」


 宛てなど無いが、行動を起こさねば何も始まらない。

 覚悟を決めた尋は、周辺を散策してみようと一歩を足を踏み出したが。


稀人まれびとの多い日だ』


 突如として飛び込んできた謎の声。

 それは尋の耳にではなく、頭の中に直接語り掛けてきた。

 男とも女とも判別のつかぬ独特な声の印象もあり、人知を超えた存在を想像させる。


「誰だ?」


 尋は怯まずに声の主に聞き返す。

 持ち前の度胸に加え、度重なる異常事態に少しだけ感覚も麻痺している。


『臆さずに聞き返すとは、なかなか見どころのある少年だ』

「いいから答えろよ。あんたは何者だ?」

『私の正体など、今は些末な問題にすぎぬだろう』

「どういう意味だ?」

『身の安全を考えるべき、ということだ』

「だからどういう」


 いいかけて尋は絶句した。

 瞬きをしたほんの僅かな間に風景が切り替わり、それまでは草原だったはずの風景が、ごつごつとした岩の点在する河原へと転移していたのだ。

 色彩そのものは変わらず、灰色の石が敷き詰められた灰色の河原を、流れの早い灰色の川が流れていた。景色に動きがある分、草原にいた時よりも色彩の異常さが際立っている。


「ありえない。さっきまで草原にいたのに」

『慣れろと言うつもりはないが、この世界を君達の常識で図ることはお勧めしない。いちいち全てに驚いていては、直ぐに命を落とすことになる』

「命を?」

『ほら、さっそくお出ましだ』


 謎の声の不穏なセリフと同時に、尋は背後に強烈な悪寒を感じとった。

 それはまるで、人間の中に宿る根源的恐怖。死に対する拒絶反応のようでもある。

 見たくない。見てしまったら絶対に後悔する。そんな確信を抱きながらも、尋は恐怖と好奇心の入り混じる複雑な感情で、歪な気配を感じる後方へと振り返った。


「何だよ、あいつ」


 反対側の川岸に、灰色の鬼が立っていた。

 筋骨隆々の大柄な体躯に鋭い牙と爪。長髪から覗く目は飢えた獣のように血走り、額には鬼の象徴たる一本の短角が確認できる。


 その異形なる姿を目の当たりにし、尋の頬を冷や汗が伝った。


 これまでで一番現実離れした光景に対する混乱はもちろんだが、それを上回る恐怖の念が尋の心を支配していた。鬼としか形容のしようがないあの怪物は、まさに死そのものだ。

 

 猟奇的な笑みを浮かべた鬼と、目が合ってしまった。


『呆けている暇も、怯えている暇も無いぞ。奴らは稀人を喰らう』


 言われるまでもなく、尋は鬼と距離を取るべく駆け出していた。体中に感じる悪寒が、その言葉が事実であることの何よりの証明だ。


『直ぐさま逃走に入るとは、ますます面白い少年だ。並の稀人なら、恐怖と混乱に身をすくめている間に、頭から喰われているところだ』

「気が散る。話しかけるな!」


 振り向く時間すらも惜しみ、尋は一心不乱に走り続ける。

 水が弾けるような音が背後から聞こえていた。鬼が、川を渡って尋の側へとやってこようとしているのだ。

 間に川という障害物があったのは幸運だった。運動神経抜群の尋の走力があれば、相手の視界から消える程度の距離は稼げるだろう。


『ほう。なかなか身軽だな』


 わずらわしい声に尋は反応を示さない。

 今は少しでも鬼から距離を取りたい。尋は無心で走り続ける。

 体力には自信があるので、そうそう息が切れることはない。


 これはまさに、人生を賭けた鬼ごっこであった。


 ※※※


『少年。もう大丈夫なようだぞ。周りを見て見ろ』


 走るの夢中で気づくのが遅れたが、また風景が変わっていた。

 足を止めた尋は、灰色の木々に覆われた森の中に立っている。

 恐る恐る振り返ってみると、河原も、川を渡ろうとする灰色の鬼の姿も存在しなかった。最初から幻だったのか、空間が歪みワープでもしているのか。追跡を逃れたのは幸いだったが、あまりにも唐突な出来事だったため、逃げ切ったのだという感覚はいまいち薄い。


「あの鬼は、一体何だったんだ?」

『鬼は鬼さ。それ以上でもそれ以下でもない』

「答えになってない」

『この混沌とした世界では、明瞭な答えの方が珍しいと思うがね』


 周辺に鬼らしき姿が無いことを確認すると、尋は倒れ込むように地面に腰を下ろした。体力に自信があるとはいえ、追跡者から逃れるために全力疾走をすれば息も上がる。


『恐怖に潰されるか、恐怖に抗い続けるのか。君はどちらを選ぶのだろうな』

「どういう意味だよ?」


 尋の問い掛けに、謎の声からの反応は返ってはこない。

 その後も数度問い掛けてみるも、まるで電話の通話を断ち切ってしまったかのように、謎の声はプツリと止んでしまった。


「いったい何なんだよあの声は」


 謎は深まるばかりだ。一瞬で風景が切り替わるこの異質な世界では、またいつ鬼と遭遇するか分かったものではない。考え事をしている今この瞬間に、先程の河原へと戻されてしまう可能性だって考えられる。


「誰だ!」


 背後の草陰が不自然に動く気配を感じ、尋は警戒心を露わに身構える。


「……尋か?」

りょう!」


 草陰から飛び出したきたのは異形の鬼などではない。共に不可解な現象に巻き込まれた学友の一人。運動神経抜群の森塚もりづかりょうだ。

 どこかで転倒したのだろうか? 体は所々擦り切れて、衣服はズボンを中心に土汚れが目立つが、しっかりと自分の足で立ち、目に見えた大きな傷は負っていないようである。


「お前と会うのは随分と久しぶりな気がする」

「本当にな。会えて嬉しいぜ、尋」


 互いに話したいことは色々とあったが、まず友人との再会を祝し、強く拳を合わせた。

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