5 心の中の悪魔は囁く

 咲苗さなえとの話し合いを終え、じんは喫茶店を後にした。

 咲苗は片づけておきたい仕事があるからと言い、喫茶店に残りノートパソコンに向かっている。


「今の時間、バス有ったかな」


 腕時計で時刻を確認してみると、午後六時を少し回ったところだった。丁度いい時間のバスがあれば、七時前には帰れるはずだ。


「あれ、尋?」


 喫茶店からバス停の方へと向かって歩いていると、思わぬ人物に背後から声をかけられた。


世里花せりかじゃないか。どうしたんだ、こんなところで?」

真由まゆの家がこの近所だから少し寄ってきたの。退院して家に戻ってからは、まだ顔出せてなかったから」


 瑞原みずはら真由まゆは、毒島ぶすじまの起こした誘拐事件に巻き込まれた世里花の友人だ。怪我は軽く、精神的にも落ち着いていたため、数日前に退院したことは尋も聞いていた。


「真由ちゃんはどんな様子だった?」

「元気そうだったよ。来週からは学校にも行く予定だって」

「そっか、何だか俺も安心したよ」


 あの時、真由を助けた者としては、彼女が前向きに日常に戻りつつあることは素直に喜ばしかった。


「尋は何をしてたの? 放課後は用事があるからって、さっさと帰っちゃったけど」

「ちょっとそこの喫茶店にな」

「喫茶店で優雅な一時を送るような、御洒落な趣味なんてあったっけ?」

「用事だって言ってるだろ。人に会ってたんだよ。さな……霧崎きりさきさんと」


 言いかけて尋は、咲苗の余所行き用の名前を口にした。政府の秘密機関に所属する都合上、事情を知る者以外に対しては、咲苗は霧崎という偽名で通していた。


「霧崎さんのカウンセリング、まだ続いてたんだ」

「そんなに頻繁にじゃないけどな。定期的な確認だよ」


 世里花の知る霧崎――咲苗は、中学一年生の頃にとある事件に巻き込まれた尋のメンタルケアを担当してくれたカウンセラーという認識になっている。事実、それが尋と咲苗の出会いでもあったので、世里花の認識も決して間違いというわけではない。


「あの時のこと、今でも思い出す?」

「いや、今はそんなに。もう四年も前のことだし」

「そうだね。ごめん変なこと聞いて」

「別に気にしてないよ」


 あの事件に囚われているのは世里花も同じだ。何も事情を知らされず、心の整理もつかぬまま四年の月日が経ってしまったのだから。


「これから暇?」

「用事は済んだし、暇は暇だけど」

「どこかでご飯食べていかない? うちの親、今日は帰りが遅くてさ。夕飯は外食で済ませようかと思ってとこなの。一人でも寂しいし、もし良かったら一緒にどう?」

「いいよ。繁華街の方にでも行くか」


 繁華街方面は多くの飲食店が軒を連ねている。今いる住宅街からも、バス停三本分しか離れていないので移動も容易だ。


「丁度バスも来たみたいだな」


 繁華街方面へ向かうバスに、尋と世里花は乗り込んだ。


 ※※※


「新刊は入っているかな」


 契一郎けいいちろうは昨日の地下水道での一件を檜葉ひばに報告し終え、警察署からの帰り道に駅前の書店を訪れていた。

 今日は契一郎の愛読するミステリー小説の新作の発売日だ。入店するなり新刊のコーナーへと向かい、目当ての小説『幻影都市の殺人』を手に取る。この作品は推理作家、陽炎橋かげろうばしえにしによる『都市探偵』シリーズの6作目で、毎回異なった架空の都市を舞台に、奇怪な事件の謎に探偵とその助手が挑んでいく人気のミステリー小説だ。

 『幻影都市の殺人』を買い物カゴに入れ、契一郎は次に文庫本コーナーへと足を踏み入れる。最近はホラー小説がマイブームなので、その辺りを重点的に見ていき、心惹かれるタイトルを探す。


のぼりか?」


 『しゃれこうべの独白』というタイトルの文庫本を手に取った瞬間、唐突に名を呼ばれ、契一郎は振り返る。


「そういう君は、鰐渕わにぶちだね」


 声をかけてきたのは、昼休みに話題に上がっていた鰐渕わにぶち圭吾けいごだった。話題に上がった当日だったこともあり、すぐに顔と名前が一致した。


「学校帰りに書店通いとは、相変わらず優等生だな、幟は」

「僕はただ小説の新刊を買いに来ただけだよ。完全に娯楽目的」


 買い物カゴの中の『幻影都市の殺人』の表紙を指し、契一郎は苦笑する。


「なんだ、てっきり参考書でも買ってるのかと思ったよ」

「僕はあまり参考書は使わないかな。自習は授業の復習がメインだし」

「それだけで優秀な成績を維持するなんて、やっぱり幟は凄いな」


 称賛の言葉とは裏腹に、鰐渕の表情にはあからさまな不快感が浮かんでいた。


「何か君の気に障るようなことを言ったかい?」


 かえでから、鰐渕が自分に嫉妬していたということは聞かされていたが、ここまで露骨に表情に出されると複雑な心境になる。


「素直に感心しているだけさ。幟は僕に無いものをたくさん持っているからね」


 何と返答していいのか迷い、契一郎は沈黙した。今の状況では何を言ったところで、鰐渕にはネガティブに捉えられてしまいそうだ。


「買い物を邪魔をして済まなかったね。僕はこれで失礼するよ」

「待ってくれ、鰐渕」


 呼び止める声には耳も貸さずに、鰐渕は繁華街の方へと消えていった。


 ※※※


「気に入らない、気に入らない、気に入らない」


 繁華街の雑踏の中を、鰐渕は不満を呟きながら歩く。

 小学生のころは神童ともてはやされ、中学でもそれが続くと思っていた。だが現実は、成績が伸び悩み、運動神経も人並みに落ち着いてしまった。それと時を同じくして登場した幟契一郎というスター。まるで自分がいるはずだったポジションを奪われてしまったかのような絶望感を、鰐渕は卒業までの三年間感じ続けていた。

 中学を卒業して別々の高校に進学しても、幟契一郎という男の逸話は嫌でも耳に飛び込んでくる。

 一方的な嫉妬であり逆恨み。そんなことは百も承知だが、どうしても契一郎への呪詛の念を消し去ることが出来ない。契一郎という存在は、鰐渕圭吾という人間にとっては呪いにも等しいのだ。


「……声に出てたか」


 変人だと思われるのは心外なので、鰐渕は「気に入らない」を心の中で呟くことにした。

 蛍川ほたるがわ町にある自宅に向かうためにバス停の方へと歩いて行く。

 ふと、通りかかったファミレスの方へと視線を向けると、そこに偶然、想い人の姿を捉えた。


志藤しどうさん」


 世里花の姿を見掛け、鰐渕の心は高揚した。入店し声をかけてみようとも一瞬考える。

 だが次の瞬間、鰐渕の表情は一気に冷め切った。

 世里花の正面には男子生徒が座っており、二人で食事をしながら楽しそうに談笑していたのだ。


 その男子生徒の顔には鰐渕も見覚えがあった。


深海ふかみ


 忌々し気にその名を呼ぶと、鰐渕は入店するのを止め、ファミレスの前から逃げるように立ち去った。


「気に入らない、気に入らない、気に入らない」


 感情的になり、また言葉に出してしまう。今まであまり気に止めたことのなかった深海尋という男が、今は幟契一郎並みに気に入らない。

 たった数分の間に二人も気に入らない人間を見てしまった。鰐渕の不快感は最高潮に達している。


 そんな精神状態だ。悪魔の考えが浮かぶまでにそこまで時間はかからなかった。


「気に入らないなら消せばいい」


 そうだ、今の自分にはそれが出来るじゃないか。

 鰐渕は不敵に笑う。


「人間を食べさせるのは初めてだけど、きっと気に入るさ」

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