9 仮面の下

『ここまで来れば大丈夫かな』


 毒島ぶすじまのアジトから六棟分建物の壁をぶち抜き、天井が一部崩落した廃工場まで、レイブンはマッドガッサーを追いやった。

 レイブンが右耳付近のスイッチを押すと、それまで機械的に変声させていた音声が、人間味のある生体的なものへと変わる。


「正体を隠すのも一苦労だぜ」


 その声は深海ふかみじんのものだった。

 時に人前でも戦闘を行わななければならない尋にとって、今身に着けている黒いマスクは必需品だ。


 からすくちばしにも似た特徴的なデザインで素顔を隠し、内蔵された小型の変声機で声を変え、音声からの個人の特定も防ぐ。そういった正体を秘匿するための機能に加え、暗闇での視界を確保する暗視スコープや、小さな物音すらも拾う高い集音性。その他にも多種多様な機能を備える戦闘や斥候にも適したハイテク仕様で、怪奇事象対策室が尋を補助するために開発したアイテムの一つだ。


「さっさと終わらせようか、都市伝説の怪物さんよ」


 挑発的に指先で相手を呼び寄せるような仕草をみせると、マッドガッサーは有無を言わさずに殴りかかって来た。毒島の心の闇に呼応したファントムだけあって直情的なのかもしれない。


 しかし油断は禁物。巨体に似合わぬ俊敏さと怪力は十分驚異的だ。

 

 尋はマッドガッサーの左ストレートを上半身を逸らせることで回避、カウンターで右の拳を叩き込むが、それを予期していたマッドガッサーの右手に受け止められ、万力のような力で握りしめられる。


「馬鹿力め」


 力比べでは部が悪いため、尋は自由の効く足でマッドガッサーの足を払い、体勢を崩しにかかる。マッドガッサーは僅かにバランスを崩して右膝を着いたが、それでも尋の手を握る力を緩めない。


 次の瞬間、マッドガッサーが反撃に転じた。

 マッドガッサーは尋の拳を握る右腕一本の力で尋の体を軽々と持ち上げ、タオルでも振るかのように回転で勢いをつけ、尋の体を古びた鉄骨の散乱する一角へと放り投げた。受け身を取ることもままならず、尋の体は轟音と共に鉄骨の山に沈む。


「今のは効いたぜ」


 片膝立ちになり、血の混じる唾を吐き出す。幸い致命傷には至らなかったが、体の節々に鈍い痛みが走る。

 尋が顔を上げると、目と鼻の先までマッドガッサーが迫っており、背中に背負った噴霧器ふんむきのような機械を構え、噴出口を尋に向けた。


「お得意の催眠ガスか?」


 ガスマスクの下に表情が存在しているのかは定かでは無いが、尋の問いに対してマッドガッサーは笑っているような気がした。

 昨日の咲苗さなえとの会話が脳裏に蘇る。マッドガッサーは毒ガスを使う可能性があると。噴霧器から謎の気体が放出され、辺りに充満していく。


 たまたまマッドガッサーの足元を歩いてた二匹のねずみが気体に包まれた瞬間、痙攣けいれんを伴ってもだえ死んだ。毒ガスの威力は火を見るよりも明らかだった。


 その威力に驚愕する間も許されず、死の気体が尋の体を包み込む。


 ガスに包まれた尋の体は脱力し、床へと力なく倒れ込む。

 やがてガスが晴れてくると、マッドガッサーは尋の体を見下ろし、生死の確認のために右足で蹴り飛ばそうと足を引く。


「何てな」


 尋が素早く身を翻したため、蹴りは不発に終わる。

 その隙を見逃さず、尋はハイキックでマッドガッサーを蹴り飛ばした。不意打ちは成功だ。

 大きくノックバックしたマッドガッサーは言葉こそ発しないが、動揺しているようで動きがどこかぎこちない。「何故生きている?」とでも言いたげだ。


「このマスクは高性能でな。俺に毒ガスは効かない」


 昨日、咲苗から送られてきたマニュアルを読み、防毒機能の使い方は頭に叩き込んできた。この機能が無ければ恐らく鼠と同じ運命を辿っていたことだろう。


 マッドガッサーの判断は早かった。ガスが効かないと分かった以上は噴霧器などただの重りに過ぎない。噴霧器を投げ捨てて軽量化を図る。本格的に格闘戦へと移行するつもりのようだ。


「第二ラウンドといこうぜ、ファントム!」


 鼓舞するかのように叫び、尋は高々と跳躍。落下の勢いを乗せた踵落としを繰り出す。対するマッドガッサーも回避行動は一切取らず、渾身のアッパーでそれを迎え撃つ。

 尋の踵とマッドガッサーの拳が激しく衝突。凄まじい衝撃波が発生し、周辺には土煙が舞い、元より老朽化の進んでいた建物内の窓ガラスは粉々に砕け落ちる。

 そんな周囲の激動とは対照的に、インパクトの中心点である二つの影には大きな変化が無い。

 振り下ろされた尋の踵をマッドガッサーの拳が受け止めるようような形で硬直し、まるで時間そのものが停止しているようだ。


 刹那、均衡は崩れた。


 マッドガッサーの体が一瞬よろめいたかと思うと、そのままその巨体は仰向けで倒れ込んだ。

 尋の踵落としを真っ向から受けた拳からは、多量の血液が溢れ出ている。ただし、その血は赤色ではなく、ファントム特有の絵の具にも似た青色であり、ファントムという存在の異質さを表していた。


「お前の負けだ」


 マッドガッサーの真上に陣取ると尋は勢いよく右腕を引き、渾身の力を込めた一撃をマッドガッサーの頭部目掛けて振り下ろした。


「闇に還れ。怪物」


 その一撃によりマッドガッサーの頭部は完全に粉砕。衝撃で地面がクレーターのようにくぼみ、周辺へひび割れが伝わった。


 尋は右手についた返り血を無造作に払うと、今しがた自分が仕留めた怪物の末路をその目に焼き付けていた。マッドガッサーの亡骸を貪り喰うかの如く、何処からともなく発生した黒い影が群がり、影に触れた箇所から体が消滅していく。


 何度となく目にしてきたファントムの最期、この光景を尋達は「闇に還る」と呼んでいる。


 やがてマッドガッサーに群がっていた黒い影は地面に溶けるように自然消滅し、後にはマッドガッサーの体は一片さえも残されてはいなかった。


 マスクに搭載されている周辺環境を感知するシステムには、危険を知らせる表示は出ていない。マッドガッサーの使用していた噴霧器も本体と同時に消滅したので、その瞬間にガスも無力化されたのだろう。

 廃工場の外に出ると、マスクを外して思いっきり深呼吸をした。今回の相手が毒ガスを扱う怪人だったこともあり、いつもよりも空気が美味しく感じられた。


「こんな顔じゃ、どっちが怪物か分からないよな」


 地面に散乱するガラス片に写る自分の顔を見て、尋は切なげに呟く。

 その顔は獲物を求める獣のように血走り、目の周辺には血管が浮き出ていた。ファントムと対峙すると闘争本能が高ぶり、尋の意志を介さずに顔が凶悪化してしまう。

 マスクで顔を隠すのは正体を秘匿するためだけでは無く、鬼の形相と化した顔を人目に触れさせないようにする意味も持っている。昨日、世里花せりかを現場から遠ざけたのは、彼女の安全を確保する以外にそういった理由もあったのだ。


「治まってきたか」


 尋の顔からまずは浮き出た血管が引き、血走った眼も軽い充血程度の赤みまで戻ってきた。顔の豹変は基本的に、ファントムを倒してから数分程度で元に戻る。

 パトカーのサイレンも近づいてきていた。間もなく誘拐された女性達も保護され、拘束しておいた毒島も逮捕される。その後は怪奇事象対策室と警察上層部の連携により、今回の事件をファントムが絡まない形で処理することになるだろう。


「それにしても痛い」


 節々の痛みに顔を顰めながら、尋は廃工場を後にした。


 ※※※


「お巡りさん、こっちです」


 パトカーの姿を捉えた真由が大きく手を振る。これまでは気丈に振る舞っていたが、不安から一気に解放され、その顔は今にも泣き出しそうだ。


瑞原みずはら真由まゆさんだね。無事で良かった」


 車両から降りた檜葉ひばは即座に真由の下へと駆け寄り、別の車両からも続々と捜査関係者達が姿を現す。


「他の人達は?」

「この倉庫の中です。私だけじゃ、拘束を解いてあげられなくて」

「二班、直ぐに保護に迎え」


 檜葉がすぐさま指示を飛ばし、数名の警察官が倉庫の中へと立ち入る。


「犯人は?」

「倉庫の中で縛られてます」

「縛られて?」

「レイブンが助けてくれました」


 レイブンの名を聞き、事情を知る側の人間である檜葉は直ぐに尋の仕業であると理解した。マッドガッサーの主である毒島を無力化したということは、今は戦闘中なのかあるいはすでに全てが終わった後なのか。尋の安否を含めて気にはなったが、今は警察官としての仕事を全うしなければならない。


「ありがとう。俺はこれから犯人の確保に向かうから、君は他の女性達と一緒に救急車で病院に向かいなさい。よく頑張ったね」


 檜葉は優しく微笑むと、緊張の糸が切れた真由は大粒の涙を浮かべて泣き崩れた。

 死への恐怖から解放された安堵感。元の日常へと帰れるという幸福感。様々な感情が涙となって瞳から零れ落ちる。


「彼女を頼む」


 婦警に真由を託し、檜葉は数名の捜査官を伴って毒島の確保へと向かった。


「毒島、もう逃げられんぞ!」


 檜葉の先導で毒島が拘束されている場所へと向かうが、毒島の姿はどこにもない。


「檜葉さんこれを」


 捜査官の一人が見つけたのは鋭利な刃物で切断された跡のある古びたロープ。この状況から導き出される結論は一つだった。


「逃げたのか!」


 怒りに任せて檜葉は地面を蹴り飛ばすが、感情的になってばかりもいられない。


「まだ遠くには行っていないはずだ。毒島を捜すぞ」


 ※※※


「僕をこけにしやがって」


 出血が止まってもまだ痛みの残る鼻を抑えながら、毒島は廃工場地帯の東の出入り口を目指して歩いていた。

 手に持っているのはサバイバルナイフ。もしもの場合に備えて護身用に携帯していもので、ロープの拘束を解く際にも使用した。


「マッドガッサーは死んだみたいだけど、僕はまだ諦めないぞ。これから何回も、何十回だって女の子達をさらってやる」


 自分の血で染まった歯を覗かせて毒島は笑う。


「警察も馬鹿だな」


 幼少期から何度も訪れているこの一帯には土地勘がある。地図にも載っていない細かい道を使用すれば、警察に悟られずに逃走することも簡単だった。


「次はどうやって誘拐すればいいかな」


 今回の反省を踏まえつつ、毒島は次なる娯楽に思考を巡らせる。どうやって脅す? どうやってさらう? どうやって殺す?


「次ってのは何時だい?」


 毒島の妄想に割って入る男の声。機械的な声でこそ無かったが、先程のマスクの男なのではと毒島は思わず身構える。


「昨日はどうも」

「お前は」


 反対側から歩いてきたのは、尋の相棒ことのぼり契一郎けいいちろうその人であった。口調こそ丁寧なものであったが、その表情は流水の如く冷たい。


「悪いけど、この先は通さないよ」


 毒島が逃走するならこのルートを使うだろうと考えて待機していたのだが、その読みが見事に当たったようだ。


「お前一人くらいなら!」


 毒島はサバイバルナイフを振るった。その太刀筋には一貫性は無く、ただ無造作に振り回しているだけだ。


「僕に勝てるとでも?」


 ナイフの扱いに慣れた強者が相手ならばともかく、身を守るためだけに凶器を持った素人に遅れを取るほど契一郎は甘くはない。


「ここで捕まってたまるかよ」

「愚かだね」


 契一郎は憐れむように呟いた。


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