8 囮

 話は数時間前にさかのぼる。

 

 契一郎けいいちろう鰐渕わにぶちに疑いを抱いたのは、昼休みのことであった。


「この服装は……」


 昨日の放課後は別々に行動していたため、尋と敬一郎は情報を共有するために屋上で話し合いを行っていた。

 尋から手渡された対策室の調査報告書内にあった、一連のペット消失事件の容疑者と考えられる男の画像を見て、契一郎は目の色を変える。


「何か気になることでもあるのか?」

「昨日、たまたま鰐渕に会ったんだけど、その時の彼の格好にそっくりだ」


 マスクこそしていなかったが、黒いウインドブレーカーとキャップが、画像のものによく似ている。もちろん、似たような恰好をしている人間などいくらでもいるだろうが、背丈や体つきも鰐渕に近いように思える。


「そうだ、鰐渕だ!」 


 契一郎がその名を口にしたことで、尋の胸のつかえが解消された。


「その様子だと、尋にも引っかかっていたことがあるようだね」

「この画像の男の目つきに見覚えがあったんだけど、全然思い出せなくてさ。でも、お前のおかげでピンと来た。こいつの目つき、鰐渕にそっくりなんだよ」


 図書室に出入りしていた分、尋の方が契一郎よりも鰐渕と接する機会が多かったし、ファントム関係の事件に関する尋の嗅覚は飛びぬけている。その意見は十分参考に値した。


「尋、ペットが消える事案が起こってからどれぐらい経ったか覚えているかい?」

「確か一カ月くらいだったよな。被害件数も二桁に入った」

「そう、もう一カ月だ。ファントムの宿主は、そろそろ退屈してくる頃なんじゃないかな」

「何に対して?」

「単純に餌だけを与えることにさ」

「行動がエスカレートする可能性があるってことか?」

「何せファントムを生み出すような心の闇を持つわけだからね。残忍なことを考えていてもおかしくはないと思うよ」


 ファントムとは人の心の闇に呼応し具現化した怪物。その存在が、宿主の破壊衝動や犯罪欲求といった暗黒面をさらに加速させ、強力なファントムの力を使った犯罪行為へと走らせる。二週間前に、ガスマスクの怪人を使って連続誘拐を行った毒島ぶすじまがいい例だ。


 今回のファントムは巨大な鰐の姿をしている。今は餌やりのために近隣のペットをさらっている状態だが、例えば宿主が鰐のファントムを、自らの欲望のために使おうとしたならば、どういった行為に走るかは想像に難くない。


「そろそろ、人を食べさせてみたいと思っていてもおかしくないよね」

「あまり想像はしたくないが、可能性はあるな」


 決して有り得ない話ではない。軽犯罪から始まり、徐々に感覚が狂っていき、人命に関わる事件に発展したケースはいくらでも存在する。


「尋なら、最初にどういった人間を食べさせる?」

「気味の悪い質問をするなよ……考えたことも無いから分からん」

「まあ、普通はそうだよね」


 想像でも人に危害が及ぶことを避けてしまうあたりが、実に尋らしい。


「流石に最初は、無関係の人間を餌にすることは躊躇うと思うんだよね。となると最初は、殺してやりたい、いなくなってもらいたいと思っている人間に手を出すんじゃないかな」

「私怨が一線を越える後押しになると?」

「そういうこと。そして、ここから先は仮定の話なんだけど……」


 言葉を切り出すのに少し躊躇いがあるらしく、契一郎は一呼吸置いた。


「鰐渕が一連の事件の犯人であるとしたら、彼が真っ先に始末したいと思う人間は、僕なんじゃないかな」

「おいおい、確かに昨日、鰐渕が中学時代にお前に嫉妬してたって話は聞いたけど、流石に話が飛躍し過ぎじゃないか?」

「昨日の様子を見る限り、鰐渕は未だに僕の存在を引きずっているようだった。さらに言うなら、昨日会ってしまったこと自体が、彼の行動に火をつけてしまっている可能性だってある」

「お前にそこまで言わせるとは、よっぽどだな」


 思慮深い契一郎がそう言っているのだ。少なくとも、鰐渕が契一郎に抱いている感情が酷く淀んでいることは間違いないのだろう。


「今はまだ可能性の話だけど、もしも鰐渕が近いうちに僕に接触を図ってきたら、彼が犯人である可能性は一気に高まる。あれだけ僕のことを嫌っている鰐渕が、わざわざ会いには来ないだろうからね」

「鰐渕から接触があったらどうする気だ?」

「口車に乗ってみる」

「まるでおとり捜査だな」


 檜葉ひばが聞いたら、全力で反対するだろうなと尋は思う。


「鰐渕から接触があったら尋にも知らせるから、その時は例の地下水道に先回りしてくれないか? 鰐渕が黒だと確定したら、そこから先はいつも通りさ」


 ファントム絡みの事件の際の明確な役割分担が、二人には存在する。


「俺がファントムを倒し」

「僕が宿主を確保する」


 尋と契一郎は、互いの健闘を祈って拳を合わせた。


 ※※※


「任されたのはいいけど、どうしたものか」


 契一郎が鰐渕と対峙している場所から北へ少し離れた地点で、尋は鰐の姿をしたファントムと向かい合っていた。

 鰐のファントムを契一郎から引き離し、戦いやすい広い空間におびき寄せたところまでは良かったのだが、そこから先は完全にノープランだった。


「あちらさんは、やる気満々だな」


 鰐のファントムは空腹なのか元から気性が荒いのか、今にも襲い掛かってきそうな鋭い目つきで尋を睨み付けている。いつ戦闘が開始されてもおかしくはない状況だ。


 対策室製ペストマスクの暗視機能で視界は確保できているし、回避や攻撃を自由に行えるだけのスペースも存在している。

 状況は決して悪くは無いが、それでも一つだけ不安要素があった。それは、鰐のファントムの体を包み込む、高い防御性能を誇る鎧のような鱗だ。

 契一郎から鰐のファントムを遠ざける際、注意を引き付けるために重い蹴りを一発叩き込んだのだが、鰐は少し怯んだだけで鱗には傷一つついていなかった。 


 尋の体力は優秀だが、あくまでも人の域を出ない。長期戦になれば、常識外の存在であるファントムに分があるのは明らかで、短期決戦をはばむ鎧のような鱗はかなり厄介である。


「やべっ!」


 悩み事をしている暇は許されなかった。鰐のファントムは後ろ足と巨大な尾で水面を叩き加速すると、勢いそのままに大口を開けて噛みかかってきた。

 尋はすれすれのタイミングで倒れ込むようにして右に回避、鰐のファントムは勢いよく床に衝突し、床に溜まっていた水が勢いよく跳ね上がった。

 鰐のファントムの攻撃は終わらない。起き上がると同時に、今度はその巨大な尾を尋へ向けて薙ぐ。

 今度は回避行動が間に合わず、尋の腹へと尾が直撃する。

 その巨体から繰り出された一撃は非常に重く、尋の体は軽々と吹き飛び地下水道の壁面へと衝突。壁面が罅割れ、尋は床に膝を着いた。


「今のは効いたぜ……」


 衝撃で口内を切ったようで、マスクで隠れる口元からは血が滴っていた。幸い骨や内臓は無事なようだが、尾の直撃した腹部と壁に激突した背面に鈍い痛みが走っている。

 今なら殺せると思ったのだろうか、鰐のファントムは間髪入れずに尋の腹部目掛けて突進してきた。


「俺、たぶん美味しくないぜ」


 尋は鰐のファントムに背を向け、壁へと向かって跳躍。壁を蹴った勢いで空中に弧を描き、鰐の後方へと着地した。

 一瞬、尋の姿を見失った鰐のファントムは混乱状態に陥り急停止。動物型ということもあり知能はあまり高く無いようだ。


「さっきの礼だ!」


 尋はその気を逃さずに鰐の尻尾をがっちりとホールド。そのまま鰐のファントムを背負い投げ、床面へと叩き付けた。

 好機を前に攻撃の手は緩めない。腹部を晒しているファントムに飛びかかり、今度は落下の勢いを載せた渾身の拳を叩き込む。


 鱗の無い腹部ならば、重い一撃が入るはずだった。


「こっちも駄目かよ」


 腹部を捉えた尋の拳は、弾力に阻まれ勢いが死んでしまった。腹部は決して無防備なのではなく、鱗とは別の防御手段が備わっていたようだ。

 鰐のファントムは腹部に乗る尋を振り落とそうと、勢いよくローリングをしたが、初動を見切って後方に跳んだため、その攻撃は空振りに終わる。

 鰐は獲物に噛みついたままローリングをすることで相手の体力を奪うという。今回、鰐のファントムは噛みつかずにローリングだけを繰り出してきたわけだが、体の大きさを考えると、それだけでミンチにされてしまいそうだ。


「背面は鱗の鎧、腹部には弾力性か」


 手詰まりとまではいかないが、決め手に欠ける状況だ。他に攻撃が有効そうなのは、防御手段の無さそうな口腔くらいだが、相手の最大の武器であろう牙と顎の中に、自ら飛び込んで行くのは度胸がいる。


「準備不足だったか」


 鰐の防御を突破出来る可能性のある技を尋は持っている。だが、今はその技を使うための条件が揃っていない。

 あの技を使うためには刃物が必要なのだが、普通の高校生として生活している以上、普段から携帯はしていない。


「何か代用出来そうなものは……」


 何か鋭利な物が落ちていないか辺りを見回してみるが、ご都合主義は起こらなかった。尋の頬を冷や汗が伝う。


 ※※※


「鰐渕。余計な怪我をしたくないなら、無駄な抵抗は止した方がいい」


 契一郎が鰐渕に向ける視線は、同窓生に向けるものではなく、犯罪者に対する軽蔑の眼差しだった。一応の事前通告をしたことが、僅かばかりの優しさだろうか。


「くそっ、こんなところで終われるかよ」


 緊張から息遣いの荒くなった鰐渕は、スクールバッグに忍ばせていた果物ナイフを取り出し、手を震わせながらその先端を契一郎へと向けた。


「凶器にしては、しょぼ過ぎないかな?」


 二週間前に毒島を確保した際にはサバイバルナイフを向けられた。それに比べたら危機感はまるで感じない。もっとも、サバイバルナイフの時も大して危機感は感じていなかったが。


「う、うるさい。刺すぞ」

「そんな度胸あるのかい?」


 契一郎には相手を鎮めて事態を収束させようという考えは無い。相手が暴力に訴えてくるなら、こちらはそれを上回る暴力で押さえつけるだけだ。


「僕を馬鹿にするな!」


 逆上した鰐渕は、がむしゃらに果物ナイフを振り回す。素人が刃物を振り回している状況はそれはそれで危険なのだが、契一郎は臆す《おく》ることなく、動作の合間をって鰐渕に近づいていく。


「うわああああ!」

「うるさいよ」


 鰐渕の振り下ろした果物ナイフを涼しい顔でかわすと、契一郎は鰐渕の腹部に右ストレートを叩き込む。喧嘩慣れしていない鰐渕は、その一撃で悶絶もんぜつし膝を折った。


「しばらく寝てなよ」


 もはや抵抗する気力も無いだろうと判断し、鰐渕はその場に捨て置いた。

 通路の先からは絶えず戦闘音が聞こえてきている。尋が放った蹴りもあまり効いていないようだったし、今回は苦戦しているのではと想像がついた。


「使えそうだ」


 殴られた衝撃で鰐渕が手放した果物ナイフを契一郎は拾い上げた。これを尋が使えば、状況を好転させることが出来る。


「相棒らしいことをしないとね」


 尋に果物ナイフを届けるべく、契一郎は危険を顧みず、友の待つ戦場へと向かった。

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