5 殺人鬼
立ち入り禁止の張り紙がされた申し訳程度の柵を突破し、
悲鳴を頼りに、二棟のマンションの間にある、ブランコと滑り台だけが設置されている簡素な公園へと駆け込む。
そこには、首から血を流す若い女性に馬乗りとなり、再び刃物を振り下ろそうとしている黒いローブを纏った人物の姿があった。
女性にはまだ息がある。今ならまだ救える。
契一郎は迷うことなく、黒いローブの人物目掛けて勢いよく突進。
不意打ち故に回避が間に合わず、黒いローブの人物は衝撃で転倒。契一郎は力技で、黒いローブの人物を女性から引き離すことに成功した。
「大丈夫ですか?」
女性は首を二か所刺されており、恐怖と出血で顔が酷く青ざめている。
幸いにも傷は太い血管を傷つけておらず、病院へ搬送すれば助かる見込みは十分にありそうだ。楓には救急車も要請しておいたので直に到着するだろうが、状況は決して予断を許さない。女性を傷つけた張本人はまだこの場に健在なのだから。
「お前が連続殺人の犯人なのか?」
その場でゆっくりと立ち上がった黒いローブの人物は、沈黙したままゆっくりと首を回した。黒いローブの人物は目深に被ったフードに加え、顔の上半分を覆う白い仮面で素顔を隠している。露出した口元は真一文字に結ばれ、表情を窺い知ることは出来ない。
「十年前の事件と同一犯だって噂が流れているけど、それは真実かい?」
「……」
「無言か。それもいいだろう」
横たわる女性を背後に庇うようにして、契一郎はファイティングポーズを取る。
女性を守り抜くためにも、ローブの人物との戦闘は免れないだろう。武器を持った相手との戦闘は何度も経験してきている。仮に相手が殺人鬼であろうとも、一切の恐怖心はない。
「この場で捕まえて、警察に突き出してあげるよ」
先手必勝で契一郎が右ストレートで殴り掛かる。
ローブの人物はローブのポケットに両手を突っ込んだまま、軽快なバックステップで距離を取った。
――ローブのポケットに刃物を隠し持っているのか?
未だにローブの人物の得物は把握出来ていない。ポケットに隠し持っていると考えるのが無難だが、ローブのポケットには刃物らしき膨らみや、血で濡れた跡のような物が確認出来ないことが気になる。
「飛び道具とは厄介だな」
ローブの人物が、左ポケットに忍ばせていた投擲用のナイフを契一郎目掛けて瞬時に抜き放った。抜群の動体視力で即座に反応し、上半身を微かに逸らせてナイフの軌道から外れるたが、即座に二投目が飛来。回避には成功したが、左頬を掠めて赤い線を引いた。
攻撃はまだ終わらない。あまりにも不可思議な状況がその場に生まれつつあった。
ローブの人物は左ポケットから投擲用のナイフを抜き放つという流れを、まるで無限弾倉の如く何度も何度も繰り返す。
ギリギリのタイミングで直撃を避けつつも、数本は契一郎の体を掠め、確実に切り傷を刻んでいく。
――飛来したナイフの量、どう考えてもポケットの収納量を越えている。
突進が決まった瞬間は、自分一人でも何とか出来ると確信していた。
常人による通常攻撃が有効だった以上、相手はファントムではなく生身の人間ということになるからだ。
しかし現状はどうだ? 無限にナイフが飛び出してくるポケットなど完全に常識の範囲外。この夜光市で超常が発生した以上、それはファントムの関与を疑うしかない。初めてのケースではあるが、例えば本人は普通の人間で、纏ったローブだけが特殊能力を持ったファントム、という可能性も考えられる。
――今の僕に出来る最善は。
ファントムの力が絡んでいるのなら、一人で取り押さえるのは厳しく、逃走を許してしまう可能性もある。ならばせめて、一つでも多く犯人の情報を持ち帰らねばならない。
思考と同時に一つの転機が訪れる。楓の通報で駆け付けたと思われるパトカーのサイレンが聞こえてきたのだ。
黒いローブの人物はその音に反応し、一瞬、硬直する。サイレンに対するある種の不快感。何とも人間くさい隙を見せたものだ。
その隙を、契一郎は決して見逃さない。
男の側頭部目掛けて強烈な回し蹴りを放つ。
我に返ったローブの人物は咄嗟に回避行動を取り後方へ跳んだ。
直撃は避けたが、つま先が白いマスクを僅かに掠めて飛ばした。ひときわ明るい月明かりが差し込み、ローブの人物の素顔が露わになる。
「……どうして、あなたが」
動揺したのは、素顔を目の当たりにした契一郎の方だった。追撃可能な隙を見逃してしまい、冷や汗交じりに生唾を飲み込む。対するローブの人物は何の反応も見せず、冷静に仮面を拾い直し、装着した。
「幟、大丈夫? 直ぐに警察の人も来るから」
契一郎を心配するあまり、楓までもが廃マンションの敷地内に足を踏み入れてしまった。間もなく警察も到着するという安心感が軽率な行動を取らせてしまったのかもしれない。
「馬鹿! 何で来た!」
「えっ?」
黒いローブの人物が楓の方を見て、不敵に笑うのを契一郎は見た。ずっとポケットにしまったままだった右手を抜くような仕草を見せて、ローブの人物は楓の方へと近づいていく。
「逃げろ! 鴇田」
契一郎は傷口から血が流れ出るのも厭わず全力疾走。楓を庇うようにして、両手を広げてローブの人物の間とに割って入った。
「やはりファントム――」
不敵に笑うと同時に、ローブの人物は目にも止まらぬ速さで右手を抜き、契一郎の体目掛けて袈裟切りで振り落とした。ポケットから抜いた瞬間に右手は肉体と刃物が歪に融合した異形の肉切り包丁へと変化、手刀は即座に斬撃と化す。
『お前は力を持たない者だ』
斬られる瞬間、契一郎は連続誘拐事件の際に優典から言われていた言葉を思い返していた。後悔は無いが、結局は優典の危惧した通りの状況へとなってしまった。普通の人間がファントムと対峙することは、大きな危険が伴う。
「幟?」
刀身は契一郎の体を袈裟斬りし、大きな赤色の線を引いた。出血しながら契一郎の体は力なく後方へと倒れていく。
「幟、嘘でしょう? 幟! 幟!」
契一郎の体を抱き留め、楓は驚愕に声を震わせながら、必死に契一郎の名を必死に叫ぶ。
返答はない。
契一郎の体から溢れ出る血液が、抱き留めた楓の衣服にも染みわたっていく。
――私のせいだ。私の……。
契一郎を思ってのこととはいえ、現場へ駆けつけてしまったことを楓は激しく後悔した。
自分を庇うような真似をしなければ、契一郎だってこんな大怪我をすることはなかったかもしれない。せめて警察の到着を待つべきだった。
「……止めて」
未だに脅威は目の前に存在している。異形の右手を抜いたまま、黒いローブの人物は悠然と血塗れの契一郎を見下ろしていた。
もう一撃を受ければ契一郎は確実に命を落す。
「……この人を傷つけないで」
恐怖に呼吸が乱れ、体と声を震わせながらも、楓は果敢にも契一郎を守るようにして覆いかぶさった。この人を死なせるわけにはいかない。今度は自分が守らなくてはいけない。
恐ろしくて犯人の顔を見ることも出来ない。目を伏せて、脅威が去ってくれることを祈ることしか今の楓には出来なかった。
楓の祈りは届いた。
複数台のパトカーのサイレンが廃マンションへと接近。直に多くの警察官がこの場所へ雪崩れ込んでくるだろう。
今の時点で警察と事を荒立てることは本意ではない。長居は無用と判断した黒いローブの人物は、楓に危害を加えずに、闇に溶けるかのようにその場から退散していった。
「幟……死なないで……」
黒いローブの人物の気配が消え、警察関係者たちの足音が聞こえてきたことで、楓は泣き腫らした顔を上げた。
契一郎からの返答は無いが、呼吸はしており、心臓も動き続けている。契一郎の生命力を信じ、楓は必死にその手を握り続けた。
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