2 ガスマスクの怪人
放課後になり、
世里花が
「世里花ちゃん。真由さんの家まではここからどれくらいだい?」
「児童公園前の通りを、真っ直ぐ一キロくらいかな」
「思ったよりも近いね。まずはここから真由さんの家の近くまで歩いてみようか」
契一郎の提案に頷くと、真由の家の場所を知る世里花が先頭に立ち、尋と契一郎が後に続く。
市民体育館から三百メートル程進んだところで、右手に児童公園が見えて来た。多種多様な遊具を備え、住宅地や小学校からも近いという立地から、普段はかなりの賑わいを見せているのだが、午後五時という子供達の活気に満ち溢れていてもおかしくない時間帯にも関わらず、公園内は静寂に支配されている。
「流石に、今の時期は誰も寄りつかないか」
尋は眉を顰めて入り口付近の立て看板を
公園に人が寄り付かない理由は、半月前に深夜の公園内で発生した殺人事件の影響だ。被害者は全身を刃物でズタズタに切り刻まれたうえに、腹部に杭を打ち込まれるという異常な状態で死亡しており、現場は文字通りの血の海となっていたという。犯人は未だに捕まっておらず、近隣住民に大きな不安を与えている。
「世里花ちゃん。真由さんは殺人事件の後もこの通りを利用していたかい?」
殺人事件について思うところがあったらしく、契一郎は歩みを止めて公園内を注視した。
「気味悪がってはいたけど、帰りが遅い時以外は変わらずこの道を使ってたと思うよ。この通りは人通りも多くて、遅い時間でもなければそうそう危ないことは無いから」
世里花の言うように児童公園前は人通りが多い。車の往来も激しく、街灯も多めに設置されている。真由が世里花と別れたのは午後六時くらいとのことだが、それなりに人通りはあっただろうし、帰宅ラッシュで車通りも多かったはずだ。そういう意味では、この通りは誘拐には不向きに思える。
ただし、ある一点の死角を除いてだが。
「真由さんは、この公園で姿を消した可能性があるね。流石に自分から足は踏み入れないだろうけど、例えば不意を突かれて連れ込まれたとか」
「確かに、奥まった場所は通りからは死角だし、何よりも殺人事件の影響で誰もがこの公園を避けてる。悪意を持った人間にはおあつらえ向きの場所だな」
契一郎と尋の興味は公園の方へ向けられていたが、世里花だけは少々及び腰だった。
「公園に入るの?」
「怖いか?」
「……正直怖いです」
当然の反応だなと尋は頷く。一部には興味本位で事件現場を見たがる人間もいるだろうが、世里花のように殺人事件のあった場所には近づきたくないと考える方が、思考としては正常だろう。
「世里花は入口で待ってろ。俺と契一郎が様子を見てくるから」
「気を付けてね」
心細そうな世里花に見送られ、尋と契一郎は児童公園へと足を踏み入れた。
「薄暗くなってきたな。悪い意味で雰囲気は抜群だ」
「尋が言うと説得力があるね」
そんな軽口を叩き合いながら公園の中心部、水飲み場や公衆トイレ、休憩用のベンチなどが設置されている一角へとやってきた。
外灯が点灯し始め、世界は
「何か落ちているね」
契一郎が、水飲み場近くで何かを発見した。手に取ってみるとそれは、フリルのついた女性もののハンドタオルだった。
「まだ新しいみたいだな」
「真由さんのかな」
汚れがほとんどついておらず、最近誰かが落としたものではないかと推測された。公園利用者がほとんどいない今の時期だ。これが
「とにかく世里花ちゃんに見せてみようよ」
「そうだな。暗くなってきたし、一度戻るか」
あまり世里花を一人で待たせておくのも申し訳ないので、二人は来た道を引き返そうとするが、
「あっ、いたいた二人とも」
公園の入り口の方から、世里花が手を振りながら歩いてくるのが見えた。距離があるので声は少し遠い。
「なんだ、結局来たのか」
「よくよく考えたら、一人で待ってる方がよっぽど怖いもの」
「まあ、それもそう――」
言いかけて尋の顔に冷や汗が浮かぶ。世里花の後方の樹の影から顔を覗かせる、白いパーカーのフードを深々と被った男と目が合ってしまった。明確な悪意を表すかのように、男の表情には不敵な笑みが浮かんでいる。危険だと、尋は瞬間的に悟った。
「あれは」
契一郎も男の存在に気が付いた。しかし、後方なこともあり、男の一番近くにいる世里花自身がまだその存在に気づいていない。
「走れ、世里花!」
パーカー男よりも先に世里花の元へ辿り着けるかは分からないが、ただ棒立ちしているわけにはいかない。尋は世里花に向かって駈け出した。
尋の叫びに異常事態を悟り、世里花が恐る恐る振り返る。そこには薄気味悪い笑みを浮かべて一歩ずつ近づいてくるパーカー男の姿があった。
「来ないで……」
「いいから走れ!」
世里花は
「大丈夫か、世里花」
「怖かったよ……」
パーカー男の足取りは不気味な程にゆったりとしており、尋と世里花が接触する方が先だった。
間近で尋の顔を見て感極まった世里花は、安堵の涙を浮かべて尋の胸に顔を埋めた。
――しかし、この状況はどうしたものか。
世里花を保護できたことは幸いだったが、パーカー男はいまだに歩みを止めず、一歩ずつ尋達の方へ近づいてくる。
相手が何者かは分からないが、高校生とはいえこちらは男が二人だ。数の不利を理由に撤退してくれるのではと期待していたのだが、どうやらその気はないらしい。裏を返せば相手が二人でもどうにかな出来る自信があるということになる。
凶器の類を隠し持っているのか、あるいは仲間がどこかに潜んでいるのか。
隙を見せぬように男を注視しつつ、尋は世里花を背に庇いながら後方へと下がる。
「出番だ!」
「尋、右だ!」
パーカー男と契一郎の叫びが交差した瞬間。尋の右側の樹の間から、二メートルは超えようかという巨躯の人型が姿を現した。
ミリタリー調の黒いロングコートに黒いベレー帽。それらだけならまだファッションと言い切ることも出来たかもしれないが、何よりも目を引いたの顔を全体を覆うガスマスクの存在感だ。
ここは有毒ガスの充満する危険地帯でもなければミリタリーゲームの世界でもない。公園という日常的な場所において、ガスマスク姿の大男は異質としか言いようがない。
「おいおい、レイヤーさんのおでましか」
あまり動じないタイプの尋でさえも、その威圧感に嫌な汗を滲ませていた。華奢な女子高生である世里花の感じている威圧感はそれ以上だろう。不安を隠しきれない様子で、
「邪魔者をやれ」
パーカー男の指示で、ガスマスクの男がロボットのような規則正しい歩幅で尋達へと迫る。指示を出しているところを見ると、主導権はパーカー男にあるようだ。
「僕を忘れてもらっては困るよ」
頼もしい言葉とともに契一郎が間に割って入り、正面からガスマスク男に向かい合った。
「かっこいいね。契一郎」
友人の頼もしさに、非常事態ながらも尋の表情に笑みが浮かぶ。
契一郎は口先だけの男ではない。喧嘩事となればこの界隈の高校生ではトップクラス実力を持つ強者だ。尋も腕っ節には自信のあるほうだが、契一郎にタイマン勝負で勝てるかどうかは怪しいところだ。
「お前の相手は僕だ」
契一郎は問答無用でガスマスクの男の腹部に右の拳を打ち込む。
重い一撃が決まったはず、だった。
「そんな……」
驚愕に目を見開いたのは、契一郎の方だった。
「当たった感触がまるでしない」
言い得て妙な感覚だった。確実に攻撃が当たったと脳が知覚しているのに、肝心の拳にはその感触が存在しない。
今だって相手の腹部に拳が接触しているはずなのに、まるで虚空に拳を投げ出しているような、そんな気味の悪い感覚だけが拳を支配している。
「契一郎、危ない!」
ガスマスクの男が大きく薙いだ右腕が契一郎の左側頭部を襲う。
決してかわせない一撃ではなかったが、動揺が回避行動を遅らせた。
衝撃を弱めようと咄嗟に左腕で防いだが、ガスマスクの男の一撃は凄まじく、契一郎の体は砂場まで吹き飛ばされた。
「おい、大丈夫か!」
「契一郎君!」
尋と世里花が契一郎の下へと駆け寄る。幸いなことに契一郎はすぐさま上体を起こし、二人に健在ぶりをアピールして見せた。
「流石に驚いたよ」
軽口を叩いてはいるが、契一郎が左腕をしきりに気にしていることを尋は見逃さなかった。
「腕は大丈夫なのか?」
「動くから大丈夫だよ」
契一郎は左手でグーとパーを交互に作る。確かに動いてはいるようだ。
「あいつへの攻撃、当たった感触がしなかったんだな?」
「うん。あの奇怪な風貌だし、悪い予感はしていたんだけどね」
これらは初めての経験では無い。突然のことで多少動揺してしまったが、そういう相手だと分かればまた対応は変わってくる。
「あれは人間じゃないね」
「なら、俺の出番だな」
「そういうことだね。バトンタッチ」
契一郎の右手が、尋の右手を軽快に鳴らす。
「パーカー野郎は任せるぞ」
「任されたよ」
尋はガスマスクの男と、契一郎はパーカー男とそれぞれ向き合う。
しかし、この場にはまだ世里花がいる。彼女を庇いながらの戦闘は現実的ではないので、まずは彼女をこの場から遠ざける必要がある。
「世里花。俺達が足止めするからお前は助けを呼んで来てくれ」
「でも、二人を残しては」
「俺達のことを思うなら、少しでも早く助けを呼んでここに戻ってきてくれ。頼めるな」
「分かった!」
世里花は力強く頷く。尋はその背中を優しく押して、送り出してやった。
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