第38話 終幕
エミールは思わず顔をしかめた。部屋中にぶちまけられた赤色が屋内に差し込む夕日と混ざり合って鮮やかなカクテルになっている。血と汚物の臭いのせいでまったく食い気は沸いてこない。つい今しがた目にした家壁の白が、何かたちの悪い幻だったような気さえしてくる酸鼻な光景。
それは見間違えようもなくジョベールの死体だった。ただし、エミールが追っている相手ではなく、シモン・ジョベールの。足取りを追うための手がかりになればと、まずは近親者にあたってみることにしたのだが、思いもよらないものを見つけてしまった。
「またこれか」ローランが笑った。そこら中に飛び散った血痕をよけながら家の中をうろつく。「奴の仕業だと思うか?」
「分からんな。だが──」
エミールは遺体を見た。少し前まで生きていて、会話もした相手──手足に幾筋かの切り傷。そして、腹が掻っ捌かれて臓物がはみ出していた。どちらの傷から先にやったのかは考えるまでもない。腹部の方は致命傷だった。その後にわざわざ手足を切り刻む必要は無い。
シモンの年老いて干からびた肌に真一文字に刻まれた裂傷。断面は荒く、刃渡りの短い凶器で力を込めて引いている。傷口の回りにはいくつもの真っ赤な手形があった。
エミールはシモンの腕を持ち上げた。手のひらにべっとりと血がついている。傷口を塞ごうとしたに違いない。つまり、生きたまま腹を掻っ捌いた。
「少なくとも面識のない相手にこういったことはやらない」
こいつは酷いなとローランが漏らした「だとしたら、何かの恨みってことか。ただの変態趣味の強盗の仕業って可能性は?」
「だとしたらお手上げだ」
エミールは手がかりを探した。部屋には物が散乱している。椅子が倒れ、テーブルかけが床に落ち、その上にあったはずの燭台が遠くの壁際に転がっていた。壁に小さな欠けが見られる。投げたのだろう。抵抗の形跡だ。
「そのまま家の中を調べろ。俺は外を見てくる」
馴れた手つきで家捜しをしているローランに言って、エミールはありとあらゆる場所をくまなく探した。成果は上がらなかった。屋根裏、地下の貯蔵庫、離れの倉庫のいずれにも、誰かが居たという痕跡すら見つからなかった。
「こういうことをやりそうな奴には見えなかったんだがな」
ローランが手をかざして見開かれたままだった死体の目を伏せる。
「他人の腹の底なんぞ誰にも分からない。警官なんぞをやってると嫌と言うほど思い知る。お前だってそうだ」
「俺? 俺がどうした?」
ローランの質問にエミールはそのまま聞き返した。「どうして付いて来た?」
「借りを清算しようってだけさ。つまり、こいつは流儀の話で、恐らくあんたも同じような理由でここにいるんだと思うがね」
エミールは息を吐いて頭を振った。「遺体の具合からまだ遠くには行ってないはずだ。急ぐぞ、追いつけるかもしれない」
「行き先は分かるのか?」
「過去の清算って推測が正しいなら、まだ死体が確認されてない人間がいる。たったいま思い出した」
「なんだ、ここは?」
息を荒げてローランが目の前の古めかしい臙脂色の建物を見上げる。
「ラッセルとつるんでた男が住んでる」
シモン・ジョベールの家を出た二人は都市を南北に縦断する大通りを突っ切り、カルマン州からアズール側へと渡っていた。現在地はパカール14の2にある集合住宅──つい先日締め上げたルイ・グーノンの住居の前だった。
辺りはすっかり暗くなっている。勇んで踏み込もうとするエミールの肩をローランが掴む。「待て、息を整えろ」
エミールは唾を飲み込み、口元を手で拭い建物を見上げる。前に来たときは気にも留めなかったが、外壁には非常階段がついている。
「外側から上れ。俺は中から行く」
「何階だ?」
「5階。一番上だ。部屋番号は114」
「おかしな番号の割り当てだ」
どちらともなく距離をとって二手に分かれた。エミールは正面玄関から建物内中央の狭苦しい階段をそろそろと上った。いつでも銃を抜けるように腰に手をやって足音を殺す。
一階。二階。三階。四階──五階。蝋燭の薄ぼんやりとした光で照らされた踊り場、廊下、どちらにも人影無し。114号の前には既にローランが待機していた。ライフルを肩に、扉のすぐそばの壁にぴったりと体をくっつけている。
視線が合う。エミールも扉を挟んで反対側に陣取り、把手に手をかけ、慎重に回した。
鍵がかかっている。顎でしゃくって合図を送った。
ローランが少し下がり、勢いをつけて扉を蹴破った。そしてすぐさま横に飛ぶ。
銃声。
はじけ飛ぶ木くずの中を弾丸が突っ切っていた。二人はそれぞれの銃で入り口から中に向けて一発撃ち返し、空になった銃を捨てて剣を抜きながら部屋に突入した。
部屋の中は闇一色だった。分かるのは、血の臭いがするということだけ。
エミールの顔のすぐそばで金属同士が打ち合う甲高い音が響いた。「エミール!」ローランの切羽詰まった声に突き動かされるようにエミールは咄嗟に前へ転がった。寸前まで自分の頭のあった場所で空を切る音が鳴る。
エミールは危うく首が落ちかけたことを遅まきながら理解する。相手は二人。
立ち上がろうと床についた手が、何かぬるりとしたもののせいで滑った。倒れかけた体を肘をついて支える。
エミールは転がって上から振り下ろされる凶器を躱した。床に伏せたまま腰から剣を抜き、相手の足を払う。その一撃は後ろへ下がって避けられたが、その隙をついて立ち上がり、剣を構えることに成功する。
背後では剣戟の音。ローランが切り結んでいる。少しずつ闇に目が慣れてくる。正対する相手も剣を握っていた。月光で冷たく光る刃が、滑るようにエミールの首へ。
エミールは突きをサーベルの腹で受け流し、相手の刃の上を滑らせて首を狙う。
右手一本での横払いは屈んでかわされた。がら空きになった左脇腹が狙われる。エミールは空いた左手を使って鞘を握りしめ、盾にする。刃を受け止めこそしたが、あまりの衝撃に左腕の骨に鈍痛が走った。食いしばった歯の隙間から唾が飛沫になって飛んだ。
肩口に振り下ろされる一撃を剣で受け止め、エミールは前に出た。鍔迫り合いの形になり、二本の剣が両者の間でがちがちと震える。刃が薄皮に触れて首に切れ目が入る。
不意に、雨が降った。室内だというのに。それが血だと気付くより先に、相手の注意が逸れたことに意識が向いた。
呆然としたような横顔。エミールはそれを力いっぱい突き飛ばし、よろめいたところを目掛けて剣を斜めに振りぬいた。
噴きあがった生温い液体が、顔といわず体といわず降りかかる。
「そっちも終わったか?」ローランの声。
エミールは安堵し、頷いた。「ああ……明かりを取ってくる」
廊下の燭台から蝋燭を拝借して部屋を照らす。胸をひと突きされたグーノンの死体。首から上が無くなった死体。そして、胸が斜めに切り裂かれた明らかに致命傷の男が一人。
「そいつがジョベールだ。まだ生きちゃあいるようだが」
ローランが舌打ちした。エミールはあふれ出る血を押しとどめようと手で傷口を塞ぎ、死にかけ金髪の男の耳元で怒鳴った。
「おい、お前が一連の事件の犯人だな?」
「ああ、そうだよ」
「シモン・ジョベールの息子だな?」
「ああ。忌々しいことにね」金髪は苦々しい顔になる。「ダニエルだ。話があるなら手短に頼むよ」
見ての通りの有様だからなとダニエルが笑った。
「カレン・フィレオル、テッド・ラッセル、パスカル・グレコ、ティエリ・ギャレー、シモン・ジョベールを殺したな?」
「その通り」
「マルセル・バルドーに頼まれて」
「誰だい、それは?」
エミールは片手で血を止め、もう片手で殴りつけた。ダニエルは喉に引っかかる呼吸をしてにやついた。
「この、グーノンじゃない方の死体は誰だ?」
「軍で知り合ったんだ。信用できる男さ。首尾よく事を終えたら一緒に遠くへ雲隠れするつもりだったんだが──親父を殺すのに余計な手間をかけちまったせいで、このザマだ。そいつには悪い事をしたよ。だが、あれは最低の男だった。仕事にかまけて家庭を顧みず、母の死に目にも間に合わず、葬儀すら中座した」
「お前に殺しをするよう指示した男の名前を出せ!」
「いいかい、お巡りさん? この事件は一から十まで全部俺が企てたんだ。気に入らない連中を殺してすっきりしたかったんだよ」
「フィレオルもか? あの女もお前は楽しんで殺したってわけか?」
ダニエルの薄ら笑いがぴたりと止まった。眉間に深い後悔の皺が刻まれ、震える唇から小さな吐息が漏れる。
「こんな状況だ、白状するよ。あの娘には本当に済まないことをしたと思ってる。だが、姿を見られた以上はどうしてもああするしかなかった」
勝手な物言い──エミールの目の前が白く弾ける。怒りのままに拳を振るう。ダニエルの今際の際の告解は止まらない。
「だが、聞いてくれるかい? こんな俺でも善行をしたんだ。悪党を殺して、小さな頃から受け続けた援助に報いた。母さんの葬式と、墓の面倒を見てもらった恩を返した」
「その金を出した男の名前を言え!」
エミールはダニエルを殴った。半開きの口が何も語らなくなっても殴り続けた。ローランが腕を掴んで止めるまで。
事切れたジョベールの上着の襟を握り締めるエミールの両手がわななく。辺り一帯に、獣のような咆哮が轟いた。
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