第11話 エミール 2-1

 エミール 2


 警官用の寮として借り上げられた集合住宅内の自室で、夜回りを終えてくたくたになった体を寝台に投げ出してすぐのことだった。

 どこか遠くで慌ただしい足音が聞こえる。それがだんだんと近づいてきている。

 嫌な予感がした。いっそのこと寝てしまってやり過ごそうかと考えたが、疲れすぎていたせいで逆に目がさえてしまっていた。

 予感は的中──足音は部屋の前で止まる。就寝を邪魔した誰かはすぐに強い調子でドアを叩き始める。

 エミールは一向に止む気配のないノックに舌打ちをして被っていた毛布を投げ捨てた。自分がいかに不機嫌であるかを教えてやるために踏み抜かんばかりに床を鳴らして勢いよくドアを開ける。

「死体が出ました」

 開けた先に立っていたフィリップが出し抜けに言った。表情は自分と似たり寄ったり──不機嫌そのもの。

 握り拳をつくって壁を殴ろうとし、何とか思いとどまる。

「クロードは?」

「もう行ってます」

 エミールは言った。「すぐに準備する」



 投げ捨てるように服を脱いで制服に着替え、二人は警察署まで出頭した。まだ朝日も顔を出していないような時間帯だったが、表の静けさとは正反対に署内はやけに騒然としていた。話し声と足音と物音がひっきりなしに行ったり来たりしている。

 怒りをぶつける先を探していると、顔見知りの警部とクロードが並んで立っているのが目に入った。手招きされ、打ち合わせ用の小部屋に連れていかれる。

「すまんな、急に来てもらって」

 ロカール警部は帽子を脱いで押収品の木箱から突き出たサーベルの鞘に引っ掛けた。目の下にくまを作っているせいか、いつもより十は余分に年を取ったように見える。

「死体が出たそうですね? 事件ですか?」

 エミールが三人を代表して訊いた。意図せず声に険が混じる。

「通報した人間によれば、ぶった切られてるらしい。明らかな殺人だ。そいつの捜査を担当してもらいたい」

「なぜ俺達に?」

「他に人がいない」

 あまりにも明快な理由に皮肉を言う気も削がれた。「もちろん知ってますが、夜勤明けを叩き起こすほど切羽詰ってるんですか?」

「連邦政府から査察が来ているのは知っているか?」

 何日か前にそんな話を耳にしたような気がする。自分には関係がないものだと今の今まですっかり忘れていた。

「そういうわけで、いま何か面倒ごとが起きるのは非常にまずい。奴らに付け込む隙を与える訳にはいかない。個人的にはお偉いさんが恥を掻こうが取っ捕まろうがどっちでもいいと思っているが、警察が槍玉に挙げられるのだけは避けたい」

 エミールは何とか断るための言い訳を探した。「大事な時期なのは分かりましたが、そこで我々に任せるんですか? もっと実績のある、年季の入った人員に任せるべきでは?」

 ロカール警部は意表をつかれたのか目を丸くした。「君が冗談を言うとは思わなかった、エミール。もちろん任せっぱなしにするつもりはない。指揮は俺が取る。この件は可能な限り早期の解決を図らなければならず、だからこそ君たちに頼んでるわけだ」

 今このときでなければロカールの台詞に多少は感じ入っていたかもしれないが、拳を握りこんで朦朧とする意識を繋ぎとめるのに精一杯でそれどころではなかった。逃げ道は見つかりそうになく、クロードとフィリップの表情からはすでに諦めが滲み出ていた。

「他にも仕事があるんですが」

「分かってる。そのあたりは免除するようにこちらで手配しておく。すまないが、よろしく頼む」

 ロカールが頭を下げる。エミールは肩をすくめた。

「そこまで下手に出なくてもやりますよ。何せ、俺はガキの頃にあなたに命を救ってもらってる」

「……ご家族のことは申し訳なかった。もう少し早く駆けつけてれば」

「十回は聞きましたよ、その台詞。それで恐らく、俺がこれを言うのも十回目です。殺したのは祖父で、あなたじゃない。それじゃあ、さっさと行ってきます」


 通報を受けた巡回員に先導してもらいながら濃い霧の漂うスクエア通りを北へ。少し先どころか足元すら白一色。この時間帯はいつも雲海を歩いているような錯覚をおぼえる。

「発見者はこの界隈に住み着いている浮浪者です。普段はこの通りの裏側で寝起きしているらしいんですが、小銭を稼いでねぐらに戻ってみると死体が転がっていて仰天したそうです」

「殺された瞬間に出くわしたわけではない?」

「そのようです。肝心な場面は見ていないとのことでした。腰を抜かして、ほうほうのていでいるところを本職が見つけたというわけです。まるで救いの神にでも会ったような顔でしがみつかれましたよ」

 年のいった巡回員が馬鹿丁寧な調子で状況を説明する。エミールは居住まいを正して質問を続けた。

「発見者はいまどこに?」

「ひどく気が動転しておりましたので、同僚に付き添いをさせて留置所に向かわせました。本来であれば家に帰そうかとも思ったのですが、なにぶん住所を持っていなかったので」

「その浮浪者の名前は? 後で話を聞きにいくかもしれません」

「ケリングです」巡回員が通りの真ん中から脇道に指を向けた。「ああ、死体はこの先です。彼の足元にあります」

 目印代わりなのか、別の巡回員が路地の奥まった位置に立っていた。三人はその場を引き継いで男たちを帰らせる。

 霧の奥に薄っすらと見える倒れた人影。エミールは目を凝らして死体を観察する。

 まず見えたのは足だった。その細さと履いた靴から女性であることがわかる。肩口から腰にかけて斜めに大きな傷。背中を大きく切り裂かれ、うつ伏せに倒れていた。フードつきの外套、スカート、コルセット、身につけたものは全てが赤黒く染まっている。

 そして、それらの上に散らばる波打つ赤い髪。

 エミールが表情を強張らせて駆け寄る。赤毛の女の体を表に向けてその顔を確認する。

 カレン・フィレオル──『獅子の鬣』の給仕。自分が世話をしてやったこそ泥。昨日の夕方まで生きて、自分と顔を合わせていたはずの女。

 カレンの瞳にはいつもの勝気な光はなかった。そこにはただ昏く虚ろな洞があるだけだ。

 遅れてやってきたクロードとフィリップも、それが誰の死体であるのかを理解して息を呑んだ。

 エミールは見間違いを期待して死体の上半身を起こし、髪をそっとかきあげて何度も何度もその顔を確認した。人違いではない。カレン以外の誰でもない。

 古傷がずきずきする。遺体をゆっくりと横たえ、エミールは背中の痛みと脂汗が引くまで待ってから立ち上がった。

 何もかもを台無しにされた。自分が手ずから丁寧に丁寧に組み上げようとしていたものが鈍器で木っ端微塵に粉砕された。

 砕けそうになった腰に芯を入れたのは、皮肉にも自分の中を駆け巡る黒いヘドロだ。それが体中に行き渡る。全身に力を滾らせる。

「その……」

 喉の奥から搾り出したようなクロードの声。それを遮ってエミールは一息でまくし立てた。

「長く鋭利な得物──恐らくは剣で、喉もとを一撃で切り裂いている。かなりの腕だ、少なくとも素人じゃない。そしておかしなことに、服装の乱れや指先を見るに争った形跡は無い。つまり、犯人は正面から近づいて殺したことになる。夜分に凶器を持った人間が向かってきたのに、カレン……被害者は逃げなかったということだ。こいつはどう考えてもおかしい。もしかするとだが、犯人は被害者と顔見知りなのかもしれない。だが、そいつはこの状態からでは分からない。遺体は冷え切っているから恐らく殺されたのは深夜になる前だろう。殺害現場はここじゃない。服についた血は乾ききっているが、街路の上には一滴の血も零れていない。どこかから運んできたんだろうな。お前たちは昨晩の被害者の目撃情報をこの辺りで集めろ」

「先輩は、どうするんです?」

 今の所見を手帳に書きとめながらクロードが上目遣いにエミールを見る。

「勤め先に行って、昨晩の様子を聞いてくる」


 早朝の街中を『獅子の鬣』へ。店の表側のドアを何度も殴る。反応なし。裏側に回って同じことを繰り返したが、同じ結果に終わった。

「あの、一体なにごとです?」

 背中からの声に振り向くと、今しがたやってきたと思わしき店の主人と、もう一人の男が怪訝そうな表情でエミールを見ていた。

「俺を覚えているか? カレンをあんたの店に紹介した──」

「ええ、もちろん。警察の方、ですよね。確か……モースさん。カレンからよく話は伺っています」

「そうだ、そのモースだ。昨日、カレンは店に何時ごろまで残っていた?」

 エミールの剣幕に困惑顔で店主が考え込んだ。

「夜、日が落ちてしばらくは働いてましたよ」

「それから、どうした?」

「どうしたも何も、少し気分が悪いっていうんで帰らせましたよ。普段、一生懸命働いてくれてるんで、それくらいはと思いまして。その、話が見えてこないんですが」

「カレンが殺された。恐らくは深夜になるかならないかの時間帯の犯行だ。死体が見つかったのはスクエア通り。様子がおかしかったでも、思い悩んでいたでも何でもいい、思い当たることがあるなら、いま、洗いざらい話せ」

 はじめ、店の主人は何を言っているのか理解できていない様子だったが、やがて顔を青くして膝をついた。

「そんな……まさか……」

 エミールが店主の胸倉を掴んで無理やり起き上がらせる。

「俺の顔を見ろ。これが冗談を言っているような面か?」

 エミールに突き飛ばされてよろめいた店主を連れの男が慌てて肩を支える。

「これといって妙な雰囲気は──彼女は昨日もいつもと同じで」

「厄介ごとに巻き込まれた風でもなかったか?」

 連れの男が割って入る。

「そんな素振りはありませんでしたよ。あんただって知ってるでしょう、毎日店に通ってたんだから」

 エミールの舌打ち。「あんたは?」

「厨房と配膳担当のジョエルだ。彼女はいつも通りだった。ただ……」

「ただ、何だ?」

「昨日の暮れ過ぎに来た客のことを気にしてた。ちょうど同じ日に、あんた自身が彼女に話していたじゃないか。ろくでもない男だから、注意しろって。見かけても近づくなって。界隈じゃそこそこ名前が知られていて、彼女も顔を見たことがあったから──」

「何のことを言ってる?」

「ラッセルとかいう名前の男だよ。それが昨日、刺青の入った男との二人連れで店にやってきたんだ。それで……カレンは、店を早引けして奴らの後をつけてやるって。俺は止めておけって言ったんだ。でも、彼女は聞かなくて……あんたが取り逃がした相手の秘密を掴んで、あんたの鼻を明かしてやるって。はっきりと口にしたことはなかったけど、彼女はあんたに恩を返したがってた。役に立ちたいと思ってたんだ」

 頭を横殴りにされたような衝撃に襲われた。今度は、エミールがよろめく番だった。

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