第2話 エミール 1-2

 機嫌の悪さを隠そうともせずエミールは音を立てて大部屋に戻った。仕切りに区切られた自分の席に座り、やりかけていた仕事を再開する。

 手がけている事件の整理。隔壁近くで発生した窃盗二件、強盗一件、暴行三件。いずれも悪徳の蔓延るこの街ではありふれたものだった。現場付近での聞き込みが必要であるため誰か適当な部下にやらせようかと考えたが、既に何件もの仕事を押し付けていることを思い出して溜息をついた。

 人手も時間も慢性的に不足している。事件の発生した所在地を確認し、空いた時間で立ち寄れるようにと頭の隅にとどめておく。

 頭痛の種はいつでも降って沸いてくる。重要なものか、よほどの余禄にあずかれるものでもない限り、通報を受けても通り一遍の捜査を行って塩漬けにするのがここのお定まりになっていた。

 赴任したときにはどんなに正義感に溢れている人物であっても、無数の仕事に忙殺されるうちにこの慣例に染まるのが常であり、エミールのような例外はごく少数だった。

 次いで部下から上げられる日常業務の報告書に目を通し、査定に用いるため、その出来栄えについて手帳に書きつけていく。

 苦悶の時間。他人の仕事などに興味はないし、それに自分が評価を下すというのも気分が悪い。給与の代償として仕方なくこなした。

 加飾が過ぎる。不可。結論が不明。不可。意味が通じる。可。簡潔で分かりやすいが、やや説明不足。良。

 不意に部屋の柱時計が鳴った。警邏の時間であることを教える合図──これも仕事だと頭を切り替え、せっかく走り出したペンを放り投げて腰を上げた。

「行くぞ」

 自分の席で頭を掻きながら書類と格闘していたクロードと法務資格の教本を読んでいたフィリップに声をかける。連れ立って保管庫へと向かい、備品係から拳銃とサーベル、鉄帽を受け取って身支度を済ませ、外に出る。

 都市における警察業務の内容は──それが忠実に履行されているかはともかく──多岐に渡った。治安維持。法規の指導。犯罪の防止と摘発。見回りもそのうちのひとつだった。人員不足から大抵の警察官が各作業を兼任している。

 カルマン側の警察署は街の中央付近に位置している。つまり鉱山にほど近く、敷地を出ればすぐそこに屹立している巨大な壁が目に入る。

 坑道の内外で何かしら問題が発生するたびに増築されてきた侵入者を排除する石壁は、その都度使用されてきた壁材の違いから、まだら模様を形成していた。余所者はこれを壁画のようだとも表現することもあれば、汚らしい染みだと言い放つこともある。

 ここで長く過ごしてきたエミールの感想はどちらでもなかった。これは、この街の縮図なのだと考えていた。


 連邦を構成するアズールとカルマン、二つの州によってこの街は中央から分断されている。中央には都市を象徴する鉱山が存在し、円周状の強固な壁がそれをぐるりと取り囲んでいる。その周りには鉱業によって発展してきた街並みがあり、さらに外へ向かうと街を取り囲むように二つの州軍による駐屯地が点在しているといった状況だった。

 二区は関係こそ隔絶しているわけではなかったが、それぞれの州の意向を反映しているため独自性が非常に強く、控えめな表現を用いるならば、剣呑な関係にあった。

 連邦。州。軍。そして住民。それらの利害関係がこの街の状況を複雑にしている。


「今日は一段と虫の居所が悪そうっすね」両手を頭の後ろで組んだクロードが言った

「俺のことか?」前を歩くエミールが振り返らずに声を上げる。

 三人は壁から少し離れた通りを巡回していた。日差しが強く、鉄帽を留める紐が汗を吸い込んでいる。痒くてしかたない。

「他にいないでしょう。何かあったんです?」

「ラッセルが釈放されるそうだ」

 それは半ばなりゆきによるものだったが、テッド・ラッセルの不法な営業を突き止めたのはこの三人だった。無許可で客を取っている売春婦がいるとの苦情が同業者から上がったのを受け、区中の商売女をすべてひっくり返す勢いで聞き込みを行い、客の斡旋を行った人物を一人ずつ辿った結果、元締めまで行き着いた。

 暫しの沈黙。フィリップが諦めきれない様子で呟いた。「理由はなんです?」

「さあな。署長に聞いてくれ」

「真面目に聞いてるんですよ、こっちは」

「俺も冗談で言ったわけじゃない」

 手を回して脅すか買収するかで証言を取り下げさせたのだ。利害の一致する別の犯罪者か、あるいはそいつから金を受け取った警察内部の人間か──他の誰かがそれを行った。少なくとも本人にその器量は無いし、機会もなかったはずだ。

 だが、分からないことがある。そうまでして救ってやるほどの価値があの男にあるとは思えないということだ。テッド・ラッセルはどう考えてもただの雑魚でしかなく、エミールが調べた限りでは警察内部に働きかけられるような有力な伝手など持っていないはずだった。

「どうせ金がらみですよ」

 クロードがぼやく。エミールはそうかもな、と上の空で答えた。

 警邏を続ける途中、やけに騒がしい一団と出くわした。市庁舎を取り囲むように長蛇の列をなし、文字の書かれた立て板、棒に括りつけられた横断幕を手に何やらがなり立てている。

 不当な搾取。優遇措置の取り止め。補助金の増額を。

 一見して彼らの怒りは市の職員たちに、その背後にいるはずの市長に向けられているように見える。記者たちがその様子を書きとめ、エミールと同じ制服を着た警察官がそれを辟易した様子で眺めていた。治安維持のためか、ちらほらと州軍の連中の姿もあった。

「今日は何の抗議だ」エミールが言った。

「ええと」クロードが目を細めて立て板の文字を読む。「ああ……いつものですよ。うち──カルマン区の石工の労働組合によるアズール区への抗議運動です。飽きもせずよくやるもんです」

「それで収入を得ているんだからな、やつらは。繰り返しもするだろうさ」

 いったいこの人間たちのどれほどが普段まっとうに働いているのだろうかとエミールは訝しんだ。恐らくは半分もいまい。

 声を張り上げてただただ要求を繰り返す組合員たち。彼らの姿が祖父のものとだぶる。

 正真正銘のクズ。一攫千金を求めてこの国境線上──現在の州境──に存在している鉱山都市にやってきた身の程知らずの小悪党。


 様々な悪事に手を染めていたと、父が苦々しく語っていた。窃盗。強盗。盗掘。殺人。組合に雇われての抗議行動もそのひとつだった。立て板を掲げ、がなり声でわめき散らし、火掻き棒で都市の職員や企業の警備員の頭を割る。時にはその逆側に回り、組合員を叩きのめして収入を得ていたこともあったらしい。

 全ては金のために。

 そんな男が税金の控除を目的として適当な女を捕まえた。それが祖母。そうしてできた子供が父だった。

 恐らく祖父を反面教師にしたであろう父は、立派な男だった。真面目で、誠実で、責任感が強く、嘘など唾棄すべきものだと考えていた。誰からも頼られ、慕われ、公私で一目を置かれていた。

 そんな尊敬すべき父も、酒に逃げることがあった。たびたび家族を脅して金をせびりに来る祖父の存在に頭を悩まされていたせいだ。とうに縁を切ったというのに、相手は亡者のように延々とまとわりついてきていた。

 ある日、家業の手伝いで使い走りをやっていたエミールが、得意先である銀細工の小売店から戻ってきたときのことだった。

 自宅の中に祖父の姿を見つけた。白いものが混じる乱れた髪。血走った目。やせ細った体。半狂乱になって家捜しをしていた。金目のものを探していた。

 その足元に、大量の血を流す父の姿。

 エミールは激昂して祖父に飛びかかった。子供だったとはいえ、相手は老人にさしかかった男であり、殴り倒すのは難しくなかった。

 慌てて父の容態を確認する。腹を刃物で刺されていた。そこからとめどなく血が溢れてくる。急いで医者を呼んでくるべきだったが、混乱していたエミールはとにかく血を止めようと傷口を手で押さえた。どこかにいるはずの母と祖母の名前を呼んだ。

 背中に何かが突き刺さる感触。

 祖父が起き上がり、背後に立っていた。手には包丁──先端がエミールの体の中に入り込んでいる。

 激痛が走った。全身から力が抜け、父親の上に折り重なるように倒れた。

 祖父はまた家の中を荒らし始めた。クローゼットから服を引っ張り出す。棚の中身を掻き出す。チェストから引き出しを全て抜く。やがて権利書と金を見つけた祖父が、よだれを垂らしていやらしい笑いを浮かべた。

 不意にドアが蹴破られ、貴様、という声がした。どかどかという足音。土足で家の中に上がった乱入者は丸太のような腕で祖父の顔面をぶっ叩いた。

 壁に叩きつけられた祖父がやたらめったらに包丁を振り回す。男は自分の腕が切り刻まれるのをものともせずその手首をつかむと、骨が折れるほど強く握りつぶして、鼻がひしゃげるほど強く祖父の顔面に頭突きを見舞った。

 男の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。壁で挟んで何度も祖父を殴る。やがて相手がぴくりともしなくなると、男は我に返ってエミールへと駆け寄ってきた。大丈夫か──心配そうな声。

 その男は付近を巡回中の警官だった。どうにも家の様子がおかしいことに気づいて塀越しに中を眺めたところ、血を流して倒れている二人を発見して飛び込んだとのことだった。

 おかげでエミールは一命を取りとめた。

 父は発見が遅れたことにより血を流しすぎて死んだ。

 祖父は殴られたときの怪我がもとになって留置所の中で死んだ。

 警官は、子供を救ったと一躍英雄になった。

 この一件で、エミールは一つの教訓を得た。

 しかるべき立場の人間が、相手を選び、正しい手順を踏めば、誰かを殺してもお咎めなしだということを。

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