第3話 エミール 1-3

 元の地点に戻ってきた時にはとうに昼を過ぎていた。三人の体からは汗が湯気になって立ち上って悪臭を撒き散らしている。署に戻って終了の時間を書き込み、臭いの染み付いた鉄帽を脱ぎ捨てて休憩に入った。

 フィリップが汗をぬぐう。「これだから昼の見回りは嫌なんだ」

「当番だ。それに、夜は夜で危ない」

 悪巧みが闇夜に乗じて行われるのはどこも変わらない。先日も州境の民家で盗難騒ぎが起こっており、残っていた痕跡からアズール側の人間が犯人だとエミールはにらんでいた。

 しかし、権限が及ばず足取りを追うことはできなかった。カルマンとアズールでは別々に警察署が存在してそれぞれの区を受け持っており、この二者は縄張り意識からことある毎に角突き合わせている。

 そこを利用された。こういったことは初めてではなく、しょっちゅう起こっている。カルマンとアズールを含めた周辺諸国が連邦化してまだ日が浅く、十数年前までは敵国同士だったこともあり、互いが互いに対してまだ隔意を抱いていることなど誰の目にも明らかだった。

「大体、仕事が多すぎるんですよ」

 こき使いやがってとぼやき、フィリップは通りに面したいつもの店を指差した。人の波をかきわけて街路を横切り、三人は『獅子の鬣』のドアを開ける。

「いらっしゃいませ──ああ、なんだ」

 昼の盛りを過ぎたというのに店内は満員だった。ひと仕事を終えて土と砂利で薄汚れた鉱夫でごった返している。

 空いた席のうち、できるだけ風通しのよい場所を選んで座る。顔なじみであるカレン・フィレオルが灼熱の日差しを思わせる赤毛を波打たせて注文をとりに来た。

「何にするの?」

「いつもの」エミールが言った。

「お任せね」

 注文を書いた紙を置いてカレンが厨房へ向かう。

「さっきの話なんですけど」

 襟元を開けて風を送りながらクロードが言った。

「さっき?」

「ついさっきですよ。仕事が多すぎるってやつです」

「ああ」エミールの視線はカレンの後姿に注がれている。「その分、給料はいいだろう。二重取り、三重取りとはいかないが」

「そうなんですがね」

 都市の管理業務の選択にはある程度の自由が認められており、試験や適性検査に合格しなければならないという条件付きだが、掛け持ちが許可されていた。二つ、三つこなしたからといって二倍、三倍にはならないが、就労時間や成果に応じてそれなりの支払いが約束されている。

「留置所の看守、街の見回り、あとは事件が起こった際の捜査」クロードが指折り数える。「俺たちはこの三つですけど、先輩は他にも何かやってましたっけ?」

「夜中、たまに州境の見張りもやってる」

 二人のため息。感心したようにも馬鹿にしたようにも聞こえる。

 仕事に誇りを持ち心血を注ぐ男。自分が皮肉を込めてそう呼ばれていることをエミールは知っている。それがまったくの誤りであることなど本人が重々承知していたが、誤解を正すつもりはなかった。そこまで他人に情熱を傾けることができない。

 必要以上に職務に入れ込んでいるのは、少なくとも正義感からではなかった。家族を皆殺しにされ、包丁で刺されたあの日から、エミールの中で行き場のない何かが渦巻いていた。黒く、ねばついて、燃えるように熱く、吐き気を催す臭気を放つ何か。その捌け口が必要だった。

「さっきからずっと見てますよね」フィリップのからかい混じりの声。「たしかにいい尻ですがね。先輩の女じゃなかったら俺も声をかけてるくらいには」

「そういうのじゃない」

 エミールが着任してすぐのことだった。区を上げての風紀取り締まり活動が行われ、無許可の売春に対する手入れが行われた。右も左も分からなかったエミールは、ただ言われたままに売春婦の身柄を一時的に拘束し、事情を聴取した。

 担当した相手は若さだけが取り柄といったはすっぱな女で、事情にまるで明るくないエミールから見てもあまり良い労働条件で働いていないことは明らかだった。客を選べず、不潔な部屋で行為におよび、一晩働いて一日過ごせる程度の稼ぎしか手に入らない。エミールは女にそれを伝えた。だから、拘束が解かれた女は街を出るか他の仕事を探すのだろうとなんとなしに考えていた。

 女はその後、すぐに死んだ。酔った客に殴られたせいで負った怪我が原因だった。それ以外に生きる手段を持たなかった女は、数日とおかず別の女衒に唆されて売春婦へと戻っていた。

 通報を受けたエミールは黙々とその死体を処理した。上司はままあることだと慰めたが、とてもそうは思えなかった。どこかに手抜かりがあったに違いなかった。自分に適切な知識があれば他の選択肢を提示できていたはずだった。殴り倒した祖父から目を離さなければ不覚をとることはなかったように。

 気分の晴れない日々が続いた。本来吐き出すべき澱が脳髄にこびりついていった。女に件の客をあてがったごろつきを捕まえても胸のつかえが取れることはなかった。

 それから多少なりとも努力を重ねた結果がカレンだった。失敗を取り戻すための代用品──エミールは窃盗を働いたことにより逮捕されたカレンの世話を焼いた。反抗的な態度をたしなめ、収容所内での模範的な生活態度、賢いやり方について教え込んだ。

 看守に逆らうな。同室の人間には愛想よくしろ──だからといって必要以上にへりくだるな。解決できない問題があったら手を出さずに俺に言え。出所が近づいた頃には同じ事を繰り返さないように苦心して働き口を探してやった。

 カレンが料理を持ってくる。昨晩のあまりものと思わしき煮込みを温めなおしたものと、山ほどの茹でた芋。自分たちのテーブルに運び終えたところで他の客に呼ばれ、そちらへ向かっていく。多少は手馴れた様子で僅かばかりの愛想を振りまいており、少なくとも店側に余計な迷惑はかけていないように見えた。現に苦情も上がってきていない。

 じろじろと眺めていると、カレンが振り向いて気の強そうな目元を細める。

「何?」

「上手くやれているかどうか気になっただけだ」

 それを自分に対してのものだと受け取ったカレンが不機嫌そうに眉根を寄せた。

「よくしてもらってるわ。店の人にも、お客さんにも。それに、あなたにも世話になったと思ってる。だからこんなことは言いたくないんだけど、憐れむのはやめて」

 ふくれっ面で背中を向けたカレンをエミールが呼び止める。「おい」

「……なに?」

「ラッセルって男を見かけても、近寄るな」

「ラッセルって、あの? 女の子に客を紹介したり、盗品を売りさばいてるとかいう?」

「知ってたのか。そいつだ。小太りで、人相が悪い。身なりも素行も碌でもない男で、すぐに分かるはずだ」

「顔も見たことがあるわ。なんで急にそんなことを? 確か、前に捕まえたとか言ってなかった?」

「釈放された。だから──」

「そういうことね。はいはい、分かったわ。気をつければいいんでしょ?」

 カレンが気のない返事を残して店の奥へと引っ込んでいく。それを見送ってからエミールがぼやいた。

「あいつ、ひとの忠告くらいまともに聞けないのか」

「言い方の問題って気がしますがね」フィリップが早速料理に手を伸ばす。

「俺に非があるっていいたいのか?」

 二人は芋を頬張りながら苦笑いした。

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