第8話 ジャック 1-1

 ジャック 1


 市庁舎内の来賓者用の待合室。羽毛の詰まった革張りの椅子に座ったジャックは祈るように手を組んでいた。指が内心を反映してせわしなく動く。危うく親指の爪を口に持っていきそうになったが、思いとどまった。部屋には部下の目がある。

 これから市長に対して到着の挨拶を行う予定になっている。それ自体は予定通りだったが、そこから先のことを考えると気分が沈みがちになる。

 連れの──なんとか生き残ってくれた──二人は、そんな年下の上司であるジャックの様子を頼りなさげに眺めている。

 ジャックは己を鼓舞するため、目を瞑って一ヶ月ほど前の出来事を思い浮かべた。決意をもって、この件に関わる事を決めたときのことだ。


 ****


「やあ、奇遇だね」

 それは郵便局で毎月定期的に行っている実家への仕送りを頼んでいる最中のことだった。知った声に呼びかけられたジャックは、宛先を書き込もうとしていたペンを止めて肩越しに振り返った。

 そこにあったのは思わぬ顔。勤め先の上司──国税局次長の薄ら笑い。

「ええ、奇遇、ですね」

「宛先はどちらでしょうか?」

「ああ、すいません」

 郵便局員に急かされたジャックは向き直って実家の住所を書きこんだ。封筒に入れる紙幣の枚数を数え、代金を支払って窓口を離れる。

「少し話せるかい?」

 手続きが終わるまで待っていた次長の言葉にジャックは頷いた。そのためにわざわざこんなところで待ち伏せていたのでしょうとは口にせず、並んで建物を出る。

 郵便局前の広場を通って人気の無い石垣の中の階段を下る。朝は早く、空気は澄んでおり、遠く眼下には翡翠の屋根と白亜の外壁を持つ連邦財務省国税局の庁舎が見える。

 もともと貴賓や外交官をもてなすための社交場だったと耳にしたことがあるが、かつて栄華を誇ったであろう面影は今や職人の技術の粋を尽くしたスタッコ仕上げの外観にしか残っていない。

 この地にあった国が連邦の構成体に成り下がった際に接収され、それ以降は中央政府の所有物の一つとしての扱いを受けている。豪華な内装、高価な調度品はその全てが売り払われ、復興と州政府の運用費に充てられていた。

「それで、話というのは?」

 人気が無くなったのを見計らってジャックから切り出した。正直なところ、次長がどのような用件で出向いてきたのか、皆目見当がつかなかった。仕事でへまをした覚えはない。かといって派手な成果を上げたわけでもない。そして、ジャックは彼と特段親しいわけでもない。

「アズール州とカルマン州の境目にある都市のことは知っているか? 鉱山を囲むようにして発展してきた街なんだが──」

「ええ。その、かなり荒れた土地だったと記憶していますが」

 荒れている理由──明白。二つの州により管理されているから。腹を空かした二人が一つのパイを巡ってどういうやりとりを行うか。相手側より先に鉱山の資源を取りつくそうと、ほとんど無計画と大差ない掘削を繰り返していたはずだ。かつてそれぞれが独立国であった時代、相手側の領土に食い込むように坑道を掘り進め、国をあげての盗掘を行っていたことが露見したこともあるが、過去は過去であり、現状そのようなことはないと地方政府は主張している。

「連邦政府は近々そこに査察団を派遣する予定でいる。それについては知っていたかね?」

「いいえ、初耳です」

 ジャックがさも驚いたように見える顔を努力して作ると、次長は上機嫌で頷いた。

「そうだろうとも。これについては緘口令が敷かれている。近年増加傾向にある犯罪率や、住民同士の衝突、それによって上がらない収益に関して、実態を把握するため把握するために調査を行おう、というのが表向きの理由だ」

 裏の目的について推察する。一番わかりやすい理由──金。

「つまり、政府の予算に関連した話だということですか? 叩いて埃を出し、それを理由に州に対する補助金の削減を行う?」

 次長が歯を剥いた。「そこからさらにもう一歩踏み込む。あの土地自体を接収して、連邦政府の直轄地にできないかと考えている。そうすれば州同士での馬鹿げた諍いは無くなるし、お互いを見張るための州軍の駐留、そのための費用も必要なくなる。さらに、州政府を経由することでしか得られなかった鉱山の生み出す利益も回収できる」

 これ以上ないほどの名案だろうと次長が大きく両手を広げる。確かに、大筋においては今の話に不整合はない。あまりにも希望的観測に過ぎることを除けば。

 ジャックは相手の本気の度合いを確かめるために顔をまじまじと眺めた。頭ひとつ分ほど背の低い猫背の上司は、人を煙に巻くようなおどけ顔で服の襟元を弄り回している。

「まあお察しの通り、今のは何もかもが万事うまくいって、かつ望外の幸せが転がり込んできた場合の話だがね。なにも今回だけで一足飛びにそこまでやろうと本気で考えているわけではない。なにしろ中央政府による行政査察自体がほとんど前例のない行為であるわけだから。ものは試しといった部分があることは否定できない」

「それで、その話を私に持ってきた理由はなんでしょう? 国税局には他にも大勢の職員がいます。次長と出自を同じくする方も多いでしょう」

 相手の態度は呆れるほどあけすけだった。

「縁も縁も無いからだよ。なにせ成功するという確証がないわけだから……今のは控えめな表現だがね。何かしらの後ろ盾があるわけでもなければ局内に影響力持つわけでもない、連邦化のごたごたが続く中での人手不足の折に軍の威光、そのおこぼれに与って採用されただけの、ただの優秀な人材。もし使い捨てる結果になったとしても影響は最小限に抑えられる。もちろん万事上手くいくに越したことはない。数字に強く勤勉な君がこの任に耐えられる能力を有していると見込んだのもある。ああ、それと、荒事の経験があるというのも勘定に入れているね。なにしろ向かう先が先だ」

 ジャックは苦笑いで誤魔化した。元軍人とはいっても後方支援が主な任務であり、訓練でも落ちこぼれすれすれの成績だった。仮にも公職であれば食いっぱぐれもないだろうという浅はかな考えによる入隊だったが、人員削減のおりにあっさりと首を切られた。

「もし目に見える成果が上がったとなれば、君と、それを推薦した私の手柄になる。そうなれば私には次期局長の座が見えてくる」

 ジャックは納得して頷いた。「それで、私には何が?」

「玉突き的な異動の結果、人事部の部長に空きが出る予定になっている。君にはそこに就いてもらうつもりだ。それについて文句を言う人間は出ない」

 人事部──組織においてこれほど分かりやすい立場はそうはない。「就いた後は?」

「好きにしたまえ」

「目に余らないようであれば、多少は地位を利用しても?」

「誰だってそういったものを活用している。むしろそれをしないのは無能だけで、そのような人物は上に立つべきではないね」

 益体も無い持論を右から左に流しながらジャックは口元を手で覆った。いまだ故国は再編の影響から混乱の中にあり、政情は安定しているとは言い難い。伝手がなければ物が手に入らない。口利きがなければ日雇い以外の職につくことは難しい。ジャックが物心ついた頃から国はすでにこの有様で、これまで状況は一向に変わる様子はなかった。

「考え込む必要があるのかね? 君の母君だが、病気がちで入退院を繰り返しているそうじゃないか。女手ひとつで息子を立派に育て上げたせいか、疲れが溜まっていたのかもしれないな」次長がジャックの肩を叩いた。「しかし、自慢の息子だと思っているに違いない。なにせ少ない給料の大部分を仕送りに費やしているんだからな」

 ジャックは強い視線で次長を見下ろした。相手は薄ら笑いのまま白いものが混じる髪を弄り回している。

 正しくは、母を含めた親類への送金だ。ジャックは自分などより才能に溢れながらその日暮らしを繰り返す弟に、自分達兄弟に教育を受けさせるために援助をしてくれた叔母に、そして生活を成り立たせるために無理をして体を壊し、他界した父に思いを馳せた。

 地方政府、対、連邦政府。その尖兵。簡単にはいかないだろう。しかし、危険や困難を避け、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのを待つというのは、少なくとも最善の選択であるようには思えなかった。

 歩きながら、ジャックは手を差し出した。次長は、笑ってその手を握り返した。


 ****


 控えめなノックの後に中年の女性が応接室に顔を出した。

「お待たせしてしまい大変申し訳ございません。ただいまシラクが席を外しているため、代理の補佐官が向かって来ているところです。まもなくこちらに到着いたします」

 ジャックは顔を上げた。「お気になさらないでください。いつの到着になるか細かい日程についてこちらがお伝えできていなかった部分もありますので」

 抜き打ちの形をとって少しでも仕事を有利に運ぶことを目論んでのことだった。ところが、都市手前での予期せぬ災難。出だしから躓いたせいで焦りが募る。

「どうも初めまして」

 秘書と入れ替わるようにして現れたのは思わずたじろいでしまいそうなほどの威圧感を放つ壮年の大男だった。上背自体はジャックとそう変わりはないが、前後左右の体の厚みが倍ほどに違い、何より生気に溢れている。

 ジャックは椅子から立ち上がり、相手の外見に気圧されないように背筋を伸ばした。

「ジャック・メルヴィルです。本日はお忙しいところ時間を割いて頂き、まことにありがとうございます」

「マルセル・バルドーです。こちらこそお待たせしてしまったようで」

 握手を交わすと同時に肩を抱かれる。バルドーの分厚く硬い手の平の感触にジャックは思わずよろけそうになった。

「おっと失礼」ジャックの顔色を見てバルドーが慌てて手を離した。「重ね重ね申し訳ない。なにぶん、鉱夫あがりの不調法者でして。シラクについては──」

 ジャックは咳払いをした。「ええ。市長がご不在であることはお聞きしています。それについては我々の不手際のようなものですので、お気になさらず。監査が終わった際にまたご挨拶に伺うつもりですので、そのときにでもお会いできれば」

「分かりました。そろそろいい時間ですし、食事でもしながら色々とお話を窺いたいのですが」

 バルドーの申し出をジャックは首を振って辞退した。

「いえ、滞在可能な日数も限られていますので。これからすぐにでも与えられた仕事に取り掛かりたいと思います」

「熱心でいらっしゃる」

 見習いたいものだと大きな手を打ち鳴らしてバルドーは男性的な笑みを浮かべた。荒っぽい身振りと腹に響く低い声。洗練、あるいは計算された野性味を漂わせながらバルドーは続けた。

「私としても協力を惜しむつもりはありません。なにやらここに来るまでの災難があったとのこと──もしお困りのようでしたら遠慮なくお申し付けください」

「今はお気持ちだけ頂いておきます。関係各所への連絡はお済みでしょうか?」

「勿論です。公的な機関であれば、あなた方の申し出を拒否することはないでしょう」

 ジャックは微笑を浮かべた。協力に対する積極性について言及しない辺り、実直そうな見た目と違ってこの男も狸だ。

「私的な──営利目的の団体についてはその限りではない?」

「我々はあくまで行政を執り行う存在ですから」

「ええ、もちろん心得ております」

 発掘された鉱物の運搬、精錬、加工、販売というこの街の産業の一連の過程において、どこまでが官でどこからが民かはこれから詳細に調べてみなければ分からないが、調査の必要があるならそれぞれ別々に交渉しなければならないだろう。その際にはせいぜいお上の威光を笠に着ることにしよう。

 バルドーは別れを惜しむようにもう一度ジャックの手を握った。今度は加減をして。

「健闘をお祈りしています。これはまったくの本心からの発言です」

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