第9話 ジャック 1-2

「人を借りるくらいはよかったのでは?」

 やや恨みがましい声でシドが言った。途方に暮れた顔で目の前に積み上げられた書類の山を見ている。

 ジャックを含めた三人は、市庁舎の資料室で財務に関する書類を洗っていた。一口に財務といっても賃借、損益、各種明細と様々な種類がある。それらのうち、過去10年分に限って集めたにも関わらず、その量は膨大なものになった。

「敵方の人間を借りてどうする。証拠の隠蔽の機会を与えるようなものだろう」

「言ってみただけですよ」

 厳しい口調で叱責はしてはみたものの、ジャックも部下の前でなければ頭を掻き毟って大声でわめき散らしたい気分だった。調査に赴かなければならないのはここだけではなく、警察署、鉱業の管理事務所に加え、関連する企業で最大手のいくつかを回る予定になっている。

 都市側が受け入れた日程──もともとの予定からいって厳しい仕事になることは分かっていたが、出だしから人数が半分以下になったのが相当に響いている。もはや馬鹿丁寧に書類を隅から隅まで眺めている余裕などなかった。

「達成すべき目的を再確認しよう」ジャックは革で綴じられた書類をパラパラとめくりながら言った。「我々の上役が求めているのは、ここの自治体に対して都市の管理能力を問うことができるような証拠だ。つまり……市長、駐留している州軍の司令官、あるいはそれに並ぶ資産家、権力者が深く関わっているような失態で、あからさまに言えば汚職が望ましい」

 ここにきて木っ端役人のせこい小遣い稼ぎをあげつらったところで何の意味もない。それに関してはシドとモーティも十二分に理解しているはずだった。この査察はつまるところ連邦政府と地方政府間の権益の奪い合いだ。

 モーティが読み終わった書類を棚に戻した。「嫌疑にかけるにしても、それなりの相手を対象にってことですか」

「そうだ。企業の経営者が鉱業法の違反を知りながら作業をさせていた、といった具合に。そのあたりについては詳しくないので君たちに任せることになるが」

「そう都合よく事が運びますかね。汚職の証拠を掴んだとしても、奴ら、必死で抵抗しそうなものですが。詰問されても返答の引き伸ばしや責任逃れなんかは平気でやるでしょう」

 ジャックは書類を畳んで読み終えた山の方に積んだ。市の運営において購入、使用された備品の一覧で、記載された金額は微々たるものだった。今の目的には使えない。

「それについてだが、実際に責任を問えるかどうかについては特に問題ではないと考えている。考えてもみてくれ。我々が両手に抱えきれないほどの証拠を持って帰ったとしよう。それを使って不正を追及するのは、また別の法律の専門家だ」

 シドとモーティが顔を見合わせる。

「つまり、問題はすぐに私たちの手を離れるということだ。我々は自分の仕事をきっちり果たす。そして報酬をいただく。それ以上でも、それ以下でもない。見知らぬ誰かがその後に骨を折ったとしても知ったことではない。そうじゃないか? 我々は正義感からこの汚れた都市を掃除しに来たわけじゃないはずだ」

 半ば自分の願望混じりの発言であることを自覚していたが、恥を忍んで一席ぶっただけの効果はあった。すっかり萎えてしまっていた二人の顔に──皮肉げではあるものの──気力のようなものが戻ってきていた。

 ジャックは文字を追いすぎてこった首筋を揉んで椅子から立ち上がった。椅子の背もたれにかけていた上着に袖を通す。「ここは君たちに任せる。やはりこの人数では厳しいものがある。補強できないか伝手を当たってみるつもりだ。諸々の雑用を行うにあたって臨時の作業員を雇うのは正当な権利として認められているからね」

「どちらに?」シドが書類に目を落としたまま声を上げた。「こんなところにお知り合いが?」

「新聞社だ。ちょうど顔馴染みがここで働いてる。助力が請えないか聞いてくるよ」

「親しいんですか?」

「ああ。昔はそうだった」

 モーティが笑おうとして喉にひっかかった痰を飲み込んだ。「我々の味方になってくれるといいですね」

 口から突いて出かけた反論をジャックはぎこちない笑みで覆い隠した。「ここでの作業が一段落したら一旦宿に戻っておいてくれ。こっちの用が済んだら後で合流するよ」



 その新聞社は一階部分が黒煉瓦で出来た、半木骨造の建物の一室に居を構えていた。中を覗いたジャックの第一印象──吹き溜まり。

 薄暗い部屋。霧のように立ち込める紫煙。揃いも揃って背中を丸め、机にかじりつくようにして働く男たちは無精髭によれよれの服装と清潔感に欠けている。戸口に立つジャックに視線をやる者。知ったことかとペンを動かし続ける者。とてもまともに読んでいるとは思えない速度で資料をめくる者。

「こちら、ヘラルドでよろしかったでしょうか?」

 ジャックの声に反応して部屋の奥で何かがのそのそと動いた。頭から被っていたシャツを取り払い、並べた椅子のベッドから男が起き上がる。

「本当に来たのか、ジャック」

 その男は顔をしかめて目の前の机の上を漁った。がさがさと紙を掻き分け、指先を掠めた眼鏡を掴んで特徴的な鷲鼻の上に乗せる。

 ジャックは思わずたじろいだ。「ベルトランか?」

「何を驚いてる? まあ……確かに少し様変わりはしたかもな。そっちは少し痩せたか?」ベルトランが眠気を覚ますように目を瞬かせる。「ちゃんと食ってるようには見えないぞ」

 そちらの方がひどい有様だとはジャックは口にできなかった。赤く荒れた肌、こけて影が見える頬に、後ろへなでつけられた髪の隙間から見え隠れする頭皮──暮らしぶりが透けて見える。後期中等教育の学校において誰よりも利発で快活だった少年の面影はそこには無かった。相手から声をかけてもらえなければ、彼がベルトラン・ルーセルだと気付けたかどうか。最後に会ったのは──彼の一家が離散する前。まだ二人とも学生の身分だった。

「立ち話もなんだ、そっちの部屋で待っててくれ」

「それじゃあ、失礼する」

 上着の袖で口元を覆って火事の現場へ突入する気分でジャックは入室した。物と作業机の合間を縫って煙草の煙を突っ切り応接間へと向かう。

 後からベルトランが足を引きずるようにしてやってきた。目の前に腰を下ろして備え付けのテーブルに紅茶の入ったカップを二つ置く。

「悪いな」ジャックが片方を手に取る。

「気にするな、会社の備品だ。それで、仕事でこっちに来たんだって?」

 ジャックは紅茶を口に含んだ。味のしない色のついた白湯。「まあ、そうだ。送っておいた手紙に書いていた通りだよ。いま連邦政府の職員をしてるんだが、その関係でちょっとね」

 鉱山都市と聞いてまずジャックが思い浮かべたのはこの男のことだった。長いこと音信不通だったが、ここに流れ着いて新聞記者をやっているとの連絡を去年の暮れに受け取っていた。

「その仕事だが、色々と噂になっているよ」ベルトランが言った。

「そうなのか?」

「都市の関係者の間じゃあ少し前からこの話でもちきりだ。連邦政府の査察──俺たちを切り裂きに来たってね」

 杜撰な情報管理。嫌な予感がしてジャックの眉間に皺が寄った。

「それで、何を頼みに来たんだ?」

 下から睨み上げるベルトランの眼光に射竦められたジャックは居住まいを正した。「旧交を温めようと思ったのは嘘じゃない。ちょうどいい機会だし──」

「分かってる」ベルトランは首を振った。「もちろん、それだけじゃないってことも。そっちの事情は大分理解できている。手っ取り早くいこうじゃないか」

 ジャックは唾を飲み込んでから身を乗り出した。「ありていに言えば、ここの人間の醜聞が欲しい。それも高い地位にある人物の。噂程度の確度でも構わないが、根も葉もないものは困る」

 ベルトランが目を細めて紅茶を啜る。「それを聞いてどうするかは想像がつくよ」

「それで、どうなんだ? あるのか?」

「もちろん。はっきり言って、その手の話はここでは公然の秘密みたいなもんだ。だが実際に証拠を掴むとなると一苦労だろうな。付け加えるなら、身の安全についても心配しなきゃならなくなる」

「承知の上だ。すぐに貰えるのか?」

「こっちへの見返りは?」ベルトランが眼鏡を外してシャツの裾で拭いた。脂が広がって余計にレンズが曇る。

 ジャックは今回の調査を行うにあたって政府から渡された予算の額を思い浮かべた。不足を感じないどころかあり余っている。皮肉にも査察団の人数が減ってしまったせいで。

 ジャックは荷物鞄を開けて一月は遊んで暮らせる額の入った封筒を差し出した。「とりあえずの手付金だと思ってくれ。順調に事が運んだらになるが、当然、成功報酬も出そう。それから……そう、金ではないものを上乗せすることもできる」

 ベルトランが半分鼻で笑って封筒を手にした。「例えば?」

「例えば、ここよりも実入りのいい職。この仕事が上手くいけば私はそう悪くない役職に就くことができる。そうすれば君に便宜を図ることだって──」

「なるほど。俺はそこまでみすぼらしく見えるか」

「いや、そういうつもりでは」

 ベルトランは首を横に振った。「別に否定しなくてもいいさ。事実そうだってことは自分がよく分かってる。なあ、ここで俺が何をやってると思う?」

 ジャックは首を捻った。「記者じゃないのか?」

「そいつはこう言い換えることもできる。自分が腰まで浸かったどす黒い底なし沼に他の間抜けを引きずり込んで笑いものにする見世物小屋の興行主。もうずっと他人の悪評ばかり追っかけてる。それが真実かどうか関係なしに。何故かって? 楽で、売れるからさ」ベルトランは笑おうとして咳き込んだ。「なんでこうなっちまったのかと考えたことは一度や二度じゃないが、まあ、こんな仕事でも生活できるだけまだマシってもんだな」

 ジャックが口をつぐんでいると、ベルトランが喉をさすって、言った。

「お望みのリストは一両日中には用意できるよ」

「助かる。それと……言い難いんだが、誰か信頼できる人物を借りれないだろうか? どうにも人手が足りそうにないんだ。もちろん君でも構わない」

 ベルトランは仕事部屋の方に向けて顎をしゃくった。「見て分かる通り、うちは零細でね。とてもじゃないがそんな余裕はないよ」

「そうか」ジャックは紅茶を飲み干して立ち上がった。これ以上ここにいるのは耐えられないと胃が悲鳴を上げている。「明日か明後日にまた来る」

 新聞社を出ようとしたジャックの背中に向けてベルトランが言った。「元気にやってるようで安心した。今日は、会えてよかった」

 ジャックは帽子を被って表情を隠し、肩越しに振り返って頷いた。「私もだ」

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