第29話 エミール 4-1
エミール 4
資料室のドアが無遠慮に開けられた。エミールは書類に落としていた視線を上げ、薄っすらと隈の出始めた目を入ってきた人物に向ける。
部屋の入り口にいるのはロカール警部だった。気だるさに纏わりつかれたような姿勢で頁をめくるエミールを見て目を丸くする。
「どうしたんだ? 政府の仕事の方はいいのか?」ロカールが自分の目の下を指でなぞった。
「そいつの一環ですよ。別に、ここにいたっておかしくはないでしょう。警察を除籍されたわけじゃあないんですから」
「当然だ。悪いとは言っていない」
この事件には警察が絡んでいる可能性がある。強く否定する材料は無く、そもそもラッセルの釈放が腑に落ちないものだった。それを伝えた際にジャックの出した指示──不正に携わっている警察官を炙り出してそこから辿れ。
エミールは思わず笑った。その理由を訊ねたジャックに対してこうも言った。「警察署に行ってみるといい。目に入る奴ら全員がそうだ。まともにやっていたんじゃ仕事が回らないからな。もちろんあんたの目の前にいる男もそうさ。私腹を肥やしているかどうかの違いはあるがな」
ジャックはにこりともせず、気を取り直すようにかぶりを振って付け加えた。「盗掘に関わっていそうな人間はどれほど居る?」
エミールはしかめっ面で髪をかき上げた。街の中央に近い所が担当範囲の連中、あえて名前を挙げるならそいつらだろう。地理や住民の顔ぶれに詳しくなければ金の流れには絡めない。
「自分の受け持ちじゃないんであまり大した事は分からない。人数に関してもちょっと調べる必要があるな」
「そのあたりを重点的にやってくれないか?」
いやに断定する。エミールはその理由を尋ねた。「何か予感が? それとも、確かな情報でも?」
「何もかもが上手く行ったら種を明かす」
エミールは早朝から警察署に出向いて捜査報告書に目を通していた。過去の事件から中央区を担当している警官の名前を洗い出して書きとめる。
フランク・オーモン。マルコ・バスティア。ギデオン・ベラクール。シモン・ジョベール。トム・ダバディ。ヨアン・クロー。オーバン・フェリクス。
エミールは次に出て来た名前を見て一瞬だけペンを止め、すぐに追加した。レイナルド・ロカール。
「警部、内務調査の記録を閲覧してもいいですか?」
棚の一番上の資料に手を伸ばしていたロカールがやおら振り返った。
「あれは調査課の連中と副署長、それと署長しか読むことができないぞ」
「だから言ったんです。確か、警部はあそこの課長と同期でしたよね」
そして、仲は良好だったと記憶している。出世を続ければいずれはかち合うにしても。ロカールが自分の仕事用に棚から引っ張り出してきた書類綴じを机の上にどさりと置いた。エミールの位置からは裏表紙しか見えない。
「何に使うんだ?」
「仕事ですよ、もちろん」
「どっちのだ? 警察の? それとも政府? 私が言ったことは覚えているか?」
「ええ、ちゃんとね。そいつが私の胸三寸だってことはお分かりでしょう? 別に私のために借りを作ってくれなんて言っちゃいません。その逆、こいつは貸しになります。私の報告次第で」
ロカールの意図──中央政府の人間に取り入って警察に査察の矛先が向かないように誘導すること。ジャックはまったく違うことを求めている。警察から情報を抜き取り、余計なちょっかいを出してこないよう防波堤になることだ。そのために自分を仲間に引き入れた。
両者を上手く使う。自分の中の焦燥を消すために。カレンを殺した犯人に報いを受けさせるために。どちらも内心では渋面を作っているに違いないと考えると笑いがこみ上げてきた。
少し待っていろと苦々しく言い残してロカールは席を外した。エミールは資料を読み進めて名前をさらにいくつか追加する。
「あまり長くは使うなよ」
戻ってきたロカールに手渡された鍵を使って隣室の記録保管所へ。通常は調査課の人間しか使う事ができない場所だった。棚には課が出来てから今までにおける、署に所属した警官たちの身辺や素行に関する情報が所狭しと並べられていた。
手帳に書き込んだ名前と見比べながら背表紙の頭文字を指で追う。途中で自分の名前が見えたが、無視して必要なものだけを取り出し、机の上に並べて順に見ていった。
内務がすんなりと鍵を渡すわけだとエミールはひとり納得した。内容に粗は見当たらない。連中は自分たちの仕事を完璧にこなしている。捜査中に怪しい動きや組織内で苦情が発生すれば、迅速に聴取と身辺調査行い記録を残している。
署の現状を鑑みる限り、これが有効活用されているとは思えない。その理由は身をもって知っている。エミールの空虚な笑いが狭苦しい部屋にこだました。
履歴。逮捕記録。仕事ぶり。賞状の枚数。苦情の件数。家族の有無。婚約者の有無。愛人の有無。毎日の通勤、帰宅経路。常連の店。抱えている情報屋。興味深い情報の数々を頭に叩き込んでエミールは鍵を返しに行った。まだ資料室で作業をしていたロカールの目の前に借りた物を置いて礼を言う。
「ありがとうございました」
頬杖をついて過去の逮捕者の記録を眺めていたロカールが顔を上げた。
「何か有益な情報は見つかったか?」
「ええ、色々と。例えばあなたが職人連中のしでかした不都合を揉み消してやる見返りに、いくらか包んでもらってたなんてことが。あの日、俺の家の近所を通りかかっていたのも──」
顔を紅潮させたロカールに、おもむろに殴りつけられた。エミールはよろめいたが、それだけだった。その昔、家に強盗に入った祖父を殴り殺した丸太のようだと感じた腕は、いまや自分よりもやや細いくらいでしかなかった。
ロカールはばつが悪そうに目をそむけ、殴った手を振った。エミールは何も言わずに背を向けて部屋の入り口まで向かった。
「君の命を救ってやったのが間違いだったという気がしてきたよ」
「そうかもしれませんね」
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