第31話 エミール 4-3
面会の約束を取り付けようと勢い勇んで市庁に足を運んだところ、本日は休暇で不在だと頭を下げられた。招かれざる客を追い返すための体の良い断り文句だと思ってしつこく粘ってみたが、いつまで経っても姿を見せないため、結局はバルドーの自宅へ向かうことにした。
無駄足を踏まされたエミールは、餓えた野良犬のような足取りで高級な住宅街を進んでいた。あたりに浮浪者はいない。汚水やごみがそこら中に捨てられてもいない。酔っ払いが胃の中のものをぶちまけて倒れてもいない。恐らく背後から物取りが駆け寄ってくることもないのだろう。
静かな邸宅の庭先で、大柄な男がまだ体のできあがっていない少年と遊んでいた。少年が両手を使って不恰好にボールを投げる。大男が笑顔のまま片手でそれを掴む。エミールは胸がむかつくのを感じた。
大股で近づくエミールを見た少年が怯えて父親の脚にすがりついた。大男はそれで気付いたようで、振り返って息子を自分の背中側に隠す。
「バルドーさん?」
大男は頷いた。「君は?」
「警察です」
徽章をジャックに預けていたことを思い出し、エミールは胸に伸ばしかけた手を元の位置に戻した。
「私だけ顔を知られているというのも公平ではないな。失礼だが、名前を聞いても?」
「エミール・モース」
バルドーが光栄だとでも言いたげに右手を差し出した。「君が、あの」
「私のことなんぞ知りはしないと思いますがね」
エミールは息子の方を見た。完全に父親の陰に隠れてしまって顔が見えない。エミールが握手に応じる気がないことを悟ると、バルドーは手を引っ込めた。
「そんなことはない。君の名を聞いて震え上がる悪党は多い」
「それを知っているということは、あなたも悪党?」
バルドーは頬の皺を深くした。休暇を邪魔されたうえに無礼な物言いをされたというのに寛容な態度。
「君の向こう見ずな正義感がこの街の平和に寄与していることは確かだ。尊敬に値するよ」
正義。言うに事を欠いて。エミールは鼻で笑いそうになるのを何とか堪えた。「お休みのところすいませんが、聞きたい事があります」
バルドーが息子に戻るよう告げる。少年は恐る恐る後ずさり、小走りで家の中へ入っていった。息子がひとまずの安全を得た事を確認すると、バルドーは振り返った。
「なんだろうか?」
「あなたはその昔、鉱夫の組合活動に関して警察に情報提供をしましたね?」
「随分昔の話を持ち出してきたな」バルドーは過去を振り返るように遠くを見た。苦いものだったらしく、表情がわずかに翳る。「ああ、確かに。そんなこともあった。それで?」
「どんなことを話したのですか?」
「聞かれた事をそのまま答えたよ。仕事は辛いか、だとか、給料はどれくらいか、だったかな」
「盗掘に手を染めている他の鉱夫の名前を出したり?」エミールはバルドーの表情の変化を見逃すまいと注視した。
変化無し。穏やかなまま。
「どうだったかな。仕事中におかしな事をやっている人物がいるかどうかについては聞かれたような気がする。確か、頻繁に休憩に行くのが二人ほどいて、その名前を教えたんだったかな? すまないね、なにぶんかなり前のことなもので記憶が曖昧なようだ」
「つい最近、そういった話を聞いたことも?」
「ああ。無いね」
やはり動揺は見られない。どういうわけか、気分がざらついて仕方がなかった。エミールは落ち着きを取り戻すために拳を握り固めて唾を飲み込んだ。
「その後も警察にはたびたび情報提供を?」
バルドーは首を振った。「いいや。あれっきりだった。もちろん、今の役職についてからは仕事上で何かと関りがあるが」
「親しくされている方が?」
「私的にという意味であれば、特には。そろそろこれが何の捜査か教えてもらいたいね」
エミールは連邦の名前を出すかどうか迷ったが、警戒されることを懸念して伏せることにした。
「殺人事件です。もしかすると、ですが、盗掘と関りがあるのかと考え、過去の資料を辿ってここに足を運んだというわけです」
バルドーは殺人と聞いて眉をひそめるどころか感心したように、ほう、と言った。
「何か?」
「いや、すまない。今の事件を解決するのに、何十年も前の話を持ち出すものなのかと思っただけだよ。気に障ったならば謝罪する」
エミールは鉄の意思で下手な嘘を見抜かれた羞恥を抑え込む。
「そういったこともままあります。この仕事では」
「興味深い。それで、他に聞きたいことは? すまないが、本当に久しぶりの休暇なんだ」
揺さぶれば何か出てくるかと思ったが、どうにも手応えが無い。まるで油のなかに手を突っ込んでいるような気分だった。これ以上ねばる口実も見つけられず、エミールは質問を切り上げた。
「ご協力感謝します」
「どういたしまして。次は仕事中に来てくれたら、もっと実のある話ができると思うよ」
エミールは自分が読んだ資料の内容を思い返しながら警察署へ向かっていた。前など見ていない。ほとんど勝手に足は動いており、無意識のうちに流れてくる人を避けていた。
調査は空振って次の手は思い浮かばない。このような状態に陥った場合は、大体が天啓があるまで別の作業にとりかかるのがいつものやり方だったが、今は何としても目の前のことに集中しなければならなかった。
見落としがあったか──不明。そもそも答えが見つかるか──不明。それでもまた一から読み直す。仕事で行き詰るなどいつものことだった。この程度で消沈はしない。やり直して駄目だったら、今度はアズール側の警察署に行って資料を全部ひっくり返してやる。奴らは部外者に好き勝手に振舞われて頭の血管が切れるほど殺気立つだろうが、構いはしない。連邦の名前を出せばいい。
頭を切り替えて挑むためにエミールは適当な店のドアを開けた。一杯ひっかけてすぐ店を出るつもりだったが、そこで思いもよらぬ相手に出くわした。
刺青まみれの若い男。
ローランは入店したばかりのエミールを押し退け、外へと飛び出していった。
「おい──」
呼び止めようとすると、ローランは振り返って人差し指を口に当てた。エミールは蝋燭にほの暗く照らされた店内と、歩き去ろうとする小柄な後姿を交互に見比べ、カウンターまで威圧的に歩いて怯える店員の目の前に金を叩き付けてから並べてあった酒瓶の一本を掻っ攫い、店を出てローランの向かっていった方向へと走った。
背中を追いかけていると、どうやらローランは誰かを尾行しているらしいことが分かった。ときおり物陰に隠れるようにしており、そこから前方を覗き見ている。エミールは邪魔しない程度の距離を保ち、ちまちまと酒を飲りながらそれに続く。
結局、もと来た道を戻るはめになり、ローランが住宅地内のどこぞの路地で腰を落ち着けたのを見てから、家屋をぐるりと回り込んで近づいた。
「おい、何をやってる」思わずげっぷが出かけてエミールは腕で口元を塞いだ。
「俺にもくれ」
ローランは少し先にある民家から視線を外さずに指で酒瓶を催促する。エミールは無視してさらに一口飲んだ。
「誰だ? どこのどいつを追ってる?」
「ちょっとした知り合い、とも言えないような奴だな。何でだって顔だな? そいつをくれたら教える」
エミールは舌打ちして酒瓶を投げ渡した。ローランは口の上で逆さにして残っていた半分を一気に呷る。慌てて取り返したときには、ほとんど空になっていた。
「この野郎」
「後で払ってやるから目くじら立てなさんなよ。で、追ってきたのはこの都市に来てすぐのころ、仕事を探して色々やってたときに会った奴でね」
「なんでそんな相手を?」
「昨日死体を見つけただろ? まあ、そいつが気になってな、ちょっと見に行ったんだよ」
エミールが馬鹿かと酒臭い溜息を吐いた。
「上手く誤魔化してやったってのに、なんでそんな真似をする? 怪しまれるだけだろうが」
「そうは言うがな、やっぱり気になるもんなんだよ。で、足を運んで、遠巻きに眺めてた」ローランは自分の額に手でひさしを作って目をすがめ、その時の様子を再現する。
「それで?」
「二、三人ほどの警官が作業場を調べてて、まあまあの人だかりだったよ。だから目立ってたっていうのもあるんだが、どうにも俺と同じようにそいつを眺めてた奴がいたんだ」
「そりゃそうだろう。野次馬がわんさかいたんだろう?」
「まあ聞け。どうにもそいつは物見遊山って感じじゃあなかった。なんと言うか、そうだな、様子を窺っていたというか、何かを確認している風だった。つまり、俺と同じような目で現場を見てるなと思ったわけだ。だからこそ気にかかった」
エミールは自分の額に手をやり、酒の残りを舐めながら考えた。こいつと同じ心境。つまり──
「そいつが犯人だと思った?」
ローランは曖昧な顔つきで首を捻った。「そこまで確信を持ってるわけじゃないんだが、妙だなと思ってここまでつけて来たのさ。確かジョベールって名前で、知ってる顔だったもんで最初は声でもかけようかと──」
エミールの声が上擦った。「ジョベールだと?」
「ああ。知ってるのか?」
「年寄りか? 頭がほとんど白くなった──」
「いいや、若い男だよ。州軍のやつだ。ギャレーの使いで借金取りの手伝いをしたときにちょっとばかし世話になった。ああ、そうそう、思い出した。ラッセルに連れられて集積場に行く途中、夜間の見周りをしてるジョベールに出くわしたのが最初だったかな。そのときは袖の下を握らせてやり過ごしたんだがね。で、そいつが──」
「あの夜、その男が現場にいたのか?」
エミールがローランに迫って肩を握り締めた。ローランは肉に食い込んだエミールの指をゆっくりと外す。
「確かに、そう言えなくもないな」
エミールは今日会って話したばかりのシモン・ジョベールがぽつりと漏らした一言を思い出していた。軍に入った息子。「そいつがあの家のどれかにいる?」
エミールは建ち並ぶ家々を指さした。外観はどれも普通の民家といった風情。
「あれだよ、あのくすんだ黄色の煉瓦造りのやつだ。っと、言ってるうちにまた新しい客だ。ほれ、今、でかい男が入っていっただろう?」
エミールは今度こそ腰を抜かさんばかりにたまげた。ローランが指差した家に入っていったのは、バルドーだった。その立派な体躯は遠目でも見間違えようがない。
鉱山労働者の監視を行っていたシモン・ジョベール。その彼に情報提供した元鉱夫のバルドー。そして、バルドーが訪問したのはシモンと同じジョベール姓の──カレンが殺された夜に現場付近にいた──人物が待つ家。奇妙な符号の一致。
感傷的なシモン。バルドーの境遇に同情してその後も親交があったのかもしれない。それも、家族ぐるみの。カレンの死体。ラッセルの死体。職人の死体。どれも鮮やかな殺し方。州軍に入ったという息子。人殺しの手管を学んだ男。
「おい、どうした?」
エミールの様子がおかしいことに気付いたローランがその胸を小突いた。エミールは咳き込み、押し殺した声で言った。
「そのジョベールが、殺したと思ったんだな?」
「おいおい、とりあえずは落ち着けよ」
「俺はこれ以上ないほど──」
「とてもそんな顔には見えんね。とりあえず、あんたが何を考えてるか口に出してみな」
まるで嗜めるような物言いに苛立ちを覚え、エミールは持っていた空の酒瓶を目の前の民家の石壁に投げつけて割った。ローランからゆっくり離れ、腕を組んで路地をうろついた。
「いま入っていった男はマルセル・バルドー。元鉱夫で、過去の経歴から俺はこいつが盗掘に絡んでるんじゃないかと思って当たってみたんだが、上首尾ってわけにはいかなかった。今からまた署に戻って──」
「バルドー?」今度はローランが頓狂な声を上げた。「都市の重役のくそったれのバルドー?」
「市長の補佐官で、自身も市議会に席を持ってるはずだ。まあ、重役だな。くそったれってのは、何だ?」
「ラッセルのやつが酒の勢いでそうこぼしてたんだよ。死ぬ前の日の話だ」
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