第30話 エミール 4-2
資料を見て気付いたこと。名前の中に一人だけこれはと思う人物がいた。
シモン・ジョベール。鉱夫の組合の監視任務を請け負っており、そのうちの何人かと親しい付き合いがあると書かれてあった。職務の垣根を超えて親密な関係になっているようだと。目を光らせているうちに、ふとしたきっかけで敵意が共感に変わることもある。エミール自身にも覚えがないでもない。
色々と便宜を図ったことがあるに違いない。あるいは代価を貰うために友好的な態度を見せていたのかも。
彼は定年により警察を辞めていた。いまだ存命中かは分からないが、過去、警察に勤めていたときの住所は押さえてある。エミールはそこに向かっていた。九区、ボドリューの先端、壁に程近い立地にある青果店の裏。
壁面に化粧煉瓦が貼られている白い邸宅が見えた。芝が好き放題伸びた庭には一対のテーブルと、遠くを眺める孤影。
頭の半分が白くなった男の視線の先を追う──鉱山に向かう労働者の列。
「ジョベールさん?」
男はこちらを見ずに言った。「警官だな? 声のかけ方で分かる」
「聞きたいことがあります」
ゆっくりと椅子を動かして振り向き、はにかむようにジョベールは笑った。「どうぞ。言ってみるといい。家内が他界して、息子が家を飛び出すように軍隊に入ってからは暇でね」
意外な反応だった。てっきり難色を示されるかと思っていたエミールは拍子抜けして尋ねる。「この街で行われている盗掘について、何か詳しい事をご存知ではないですか?」
「もちろん知っているとも。なんだ、ようやく警察は重い腰を上げたのか?」
「どういう意味です?」
「私は何度も報告を上げていたのさ。あれについては、色々と掴んでいたからな。目の敵にしている鉱夫は少なくない。密告してくる者はそれなりにいた」
「そういうものですか? 私がその立場だったら、やっかむ前に仲間に入れてもらいますがね」
ジョベールはしきりに頷く。「君は意欲的な人物だな。それとも、若さゆえの発言か? ばれたら重い罰が下る。誰しもそう思いきった行動には出られないよ。だから甘い汁を吸っている連中をくさす。許せなくなる。で、私は彼らの愚痴を聞いて、仕事の糧にしたわけだ。大抵は握りつぶされたがね」
「それは、何故?」
「君の歳では知らないかもしれないが、昔──まだ連邦になってない頃だが、盗掘などありふれていた。要するに、国家の戦略だったわけだな。敵国の資源を盗んで自国に還元する。州軍がまだ国軍だった時代。まさに血を血で洗う地獄絵図だと私の爺さんが言っていたよ。今でこそ大々的にやってはいないだろうが、まだその名残はあると思うね」
「だから、警察も見逃していた? お上の意向だから?」エミールは言った。
そうだ、と言いかけて、ジョベールは溜息をついた。
「そう思いたいだけかもしれないな。結局、現場を押さえることはできなかった。もっと人員を回してくれていたなら……そう思ったことは多々ある。皆、忙しいことは百も承知していたがね。息子には悪い事をした。酒の勢いもあったが、仕事がうまくいかなかったせいでひどいふるまいをした」
「あなたが掴んだ名前について教えていただいても? 情報源については秘匿を約束します」
「生憎だが、古い話なんで細部が思い出せない。署に私の上げた報告が残っているかもしれないから、そいつを当たってみるといい。もしかすると何かの足掛かりになるかもな」
「そうしてみます。こいつは捜査とは関係ないのですが、どうして労働者達に入れ込むんです?」
初老の男は顔の皺を深くして痛みを堪えるように笑った。芝生の間を這う虫の進路を塞いでいた足を持ち上げる。「哀れだからさ。胸が締め付けられる。君の質問に快く答えたのもそういう理由だ。一つ助言をしておこう。仕事に打ち込んだところで、それが君の人生を救ってくれるとは限らないぞ」
エミールは警察署にとって返し、ジョベールが作成したと思われる報告書を漁った。これは非常に難航した。資料は全てが年代順に並べられていたためだ。誰が何を書いたのかなどには一切頓着されていなかったせいで、彼の在職中の三十年間に作成された資料に関して、報告者の欄を流し見るはめになった。
資料室に出入りする同僚からの奇異の視線が十人分を超えたところでようやく一区切りがついた。体に活を入れるため、肩を回し、腰を捻る。ローランに殴られた脇腹に鋭い痛みが走り、思わず机に手をついて歯を食いしばった。あの野郎と毒づいて、エミールは椅子を引き寄せて紙の束へと立ち向かう。
くらくらするほど感傷的な──しかし職務を逸脱するほどではない──報告書。ジョベールはのっけからこう述べていた。鉱山で精勤する彼らの境遇は悲惨そのものであると。その後に労働環境の劣悪さを示すための数字が並べ立てられている。鉱夫の気管や肺病の罹患率、落盤による年間の事故死の件数、年齢別、職業別の賃金比較。抗議活動が今の規模で済んでいることが僥倖である。そういった言葉で結ばれている。
一部の鉱夫たちは生活のために盗掘に手を染めているとあった。秘匿が徹底しているのか証拠は少なく、決定的な場面を押さえることはできていない。しかし、この地のものと思われる鉱石の流通量と産出量の計算が合わないことから、犯罪の存在は明らかであるとしていた。
ジョベールは坑道内の検査を申し出ていたが、却下されていた。自分が彼の上司でもそうするだろう。速度を重視した滅茶苦茶な作業計画で坑道は入り組んでいるため全容の把握は容易ではなく、しかも警察の調査が行われている間は採掘作業の手が止まらざるを得ない。そうなると、いったい誰がその間の損失を穴埋めするのか。
今まで犯罪の存在が仄めかされていながら取り締まられることがなかった理由──単純な足し引きの問題。見過ごしていてもまだ儲けが出るから。
それでもジョベールの執念は大したものだった。目をつけた相手は執拗に追い回し、何人かを別件の容疑で逮捕している。結局、目当ての犯罪を立証はできなかったようだが。
古い資料だけあって出てくる情報もまた古い。汚職警官や軍人についてちらほら書かれているものの、どれもエミールには馴染みのない名前ばかりだった。頭のどこにも引っかからず、全てが右から左へ素通りしていく。
何かしらの突破口を探して読み進めるが、膨大な量の文字の上で目が滑り、意識が朦朧としてきた。疲労と単調な作業のせいで頭の回転が停止寸前だった。いっそ酒でも入れるかと思いはじめたエミールの目が、ようやく知った名前を見つけてにわかに見開かれた。
マルセル・バルドー。
ジョベールはこれらの報告書を作成するにあたって、情報提供者の名前や簡単な素性について列挙していた。迂闊、とは思わない。恐らくは内容の真実味を補強するためだろう。いくら証拠を集めたところで、上司やそのまた上が納得して首を縦に振らなければ立件できないのだから多少は報告書を分厚くしたくもなる気持ちは理解できる。
バルドーの名はそこにあった。どのような証言だったかまでは記録されていなかったが、何かしら捜査に協力したことは間違いなさそうだ。
エミールは立ち上がり、署で契約購入して保管している過去の新聞をひっくり返した。数年前の記事。市長就任時の取材で、彼の当選を支えた人物としてバルドーの名が上がっている。綴りは同じ。文章の中でさりげなく元鉱夫であることに触れられている。同姓同名の別人でなければこの男だろう。エミールはここの警察署へ着任した際に、市長の代理としてに出席した彼の姿を記憶の底から引っ張り出した。
雰囲気のある大男だった。いい身なり──素朴な色合いをしているが決して安物ではない無地の仕立て。恐らくは洗練された暮らしに違いない。底辺から上流階級へ、大した出世を果たした人物。
いったいどうやって? まっとうな努力では鉱夫という立場から這い上がることはできない。そういう構図になっている。例えあの男が一万人に一人の幸運の持ち主で、新しい鉱脈をその手で掘り当てたのだとしても、それは雇っている人間のものだ。この街で生まれ育ってきたエミールは、搾取の仕組みをよく知っている。
こういう推理は成り立つだろうか。密告者バルドーは犯罪に関わっている同僚をジョベールに売り渡して間接的に排除した。そして、自分がその立場に成り代わって利益を享受した。
市長の補佐官。じきにその地位を継ぐとも見られている。後ろ暗い繋がりは、まだ残っているかもしれない。話を聞いてみる価値はあった。
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