第41話 エミール
エミールは待っていた。朝霧が晴れ、日が上り、人の営みが始まる、その間中ずっと。塀に寄りかかるようにして、立ちつくしていた。
そこが閑静な一等地であることが幸いした。時間帯のせいもあって人通りはほとんどなく、エミールの姿を見咎めた人間は皆無だった。
家の扉が空いた音。塀から顔を出して覗き見た。目的の相手が表へ出てきたところだった。振り返って家へ向けてにこやかに手を振っている。
こちらの位置からでは見えない家族への挨拶。エミールは石畳の上を滑るように近づいた。あまりの体の軽さに驚く。自分の体重がどこかにいってしまったような気分だった。
家のドアを閉め、振り返ったバルドーの表情が穏やかなものから一変した。両手をだらりと下げて目の前で待ち構えていたエミールを見て表情が強張る。
「何か用だろうか」
「聞きたい事がある」
バルドーはさりげなく辺りに視線をやった。何を考えているかエミールには検討がついた。
「こっちは一人だ」
エミールは一歩近づいた。バルドーは反射的に下がろうとして、踏みとどまった。
「聞きたいことというのは?」
「カレン・フィレオルが死んだとき、どう思った?」
バルドーは苦笑して何か誤魔化しの類を言おうとし、エミールの目を見て、再び口をつぐんだ。エミールはさらに近づいた。もうどれほども離れていないどころか、手を伸ばせばお互いに届く位置にいる。
「別にこれで言質を取って引っ張ろうなんて、せこいことは考えちゃいない」
バルドーはしきりに周りを気にしている。エミールは相手を安心させるために、丸腰であることを示すように少し両手を広げた。ようやく踏ん切りがついたようにバルドーが息を呑み、沈痛な面持ちを作った。
「非常に、心苦しく思ったよ」
予想していたものと寸分違わぬ仕草と台詞。お手本のような答え。新聞の一面を切り抜いたような。
バルドーの足元にカレンの死体が見えた。首を切られて血を失い虚ろな目になった青白い顔。
背中が疼く。過去の傷が開いていく。なんとか塞ごうとしていたが、台無しにされた。それをやった男が目の前にいて、自分の努力を今もなお踏みにじり続けている。
バルドーは自分が殴られたことが理解出来ていない様子だった。エミールも、相手の足が絡まったのを見て、初めて自分がそれをやったことに気付いた。
エミールは衝動に突き動かされるまま拳を握り固めた。よろめきながら服にしがみついてきたバルドーの両手を振り払ってこめかみを殴った。
巨漢が膝を折る。頭を守るために腕を上げる。エミールはその上から殴り続けた。右手で。左手で。這いつくばって逃げるバルドーの髪を掴んで引き寄せた。赤ん坊のように体を丸めたバルドーを殴り続ける。
皮が剥け、肉が削げ、二人の血が混ざり合ってだんだんと赤く染まっていく自分の両手を見ながら、結局はこうなったかとエミールは他人事のように考えていた。
後ろで扉の開く音。甲高い悲鳴。異音を聞きつけた家族に違いない。薄靄のかかった頭はそう考えている。腕はがむしゃらに動いている。
バルドーの顔はいまや見る影も無いほど変形していた。目が眼窩の奥に沈んでいる。耳が半分千切れている。鼻が平たくなっている。それでもまだ動いている。エミールは拳を振り下ろす。
背中から脳天にかけて鈍痛が突き抜けた。エミールは思わず仰け反り、肩越しに振り返った。ついこのあいだ目にした気の弱そうな少年が、半泣きの顔ですぐ後ろに立っていた。
バルドーの息子。手には果物用のナイフ。
エミールはその少年の行為を賞賛した。勇気と、武器を手にした利発さを褒め称えた。まったく、自分とは大違いじゃないか。
前に引っ張られてつんのめる。組み敷いていた血まみれのバルドーが、エミールの制服を握り締めていた。目で息子に何かを訴えかけている。
声無き唇の動き──逃げろ。
父親の振る舞い。立派な。絵に描いたような。腹にむかつきが溜まり、力が沸いてくる。
エミールはその空いた口に拳を捻じ込んだ。折れたバルドーの歯が手に食い込み、引き抜くときに飛んだ。
刺され続ける背中が焼かれたように熱い。骨の突き出た拳には感覚が無い。血の飛沫。肉のひしゃげる音。まだ自分は腕を動かしている。
既に視界は霞んでいておぼろげだった。
時間の感覚が無くなっていく。記憶が途切れ途切れになる。自分が何者か分からなくなっていく。それでも、何もかもが暗転していくなかで、はっきりと見えるものがあった。
祖父の姿。エミールは祖父を組み敷いて殴っていた。よぼよぼの老人を、逞しく成長した青年が殴り殺していた。
そこではっきりと自分が何をやっているかを思い出したエミールは、心の底から安堵した。これで父を助けられる。家族を取り戻せる。全てがやり直せる。
やがて、エミール・モースは、その身を焦がす何もかもから開放された。
nobody @unkman
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