第16話 ローラン 2-3

 店仕舞いの直前に駆け込んだローランによって渡された金をギャレーが満足そうに弄んだ。

「まさか今日中に戻ってくるとは思わなかったよ。いささか額が足りないのが気になるところだが」

 ローランは肩をすくめた。「しょうがないさ、なにせあの野郎は素寒貧だったんだからな。それだけでも回収して来たことを評価してもらいたいもんだ。わざわざ他の金貸しを五件ほど回って借りさせたおかげでこんな時間になっちまった。もちろん、これで完済だなんて向こうには思わせてないよ。それじゃあ俺の仕事の出来を採点してもらおうか」

「使い古された手だが、まあ、悪くない。合格としよう。受け取りたまえ」

 尊大な動作でギャレーが回収した金の一部を差し出した。ローランは額を数えたりはせずに、それを無造作に懐に収める。

「それから、何だったか? 某とかいう職人についても一筆したためておこう」

 ギャレーが机の上に束ねられたまっさらな紙から一枚取って手早く返済に猶予を与える旨の文言を記述した。指輪を外し、印章が刻印された部分を朱肉につけて判にする。これがどの程度の効力を持つのかは知らないが、取り立てに怯える男に多少の安心をもたらしてくれるだろう。

「ありがたく頂戴しておくよ。それで、次は誰を?」

「それはまた今度にしよう。夜も更けてきたことだしな。なに、うってつけの仕事はまだまだある。ああそれと、帰る前に君の連絡先をアンリに伝えておいてくれたまえ。場合によってはこちらから連絡を入れる必要が出てくるかもしれないからな」

 話は終わったとばかりにギャレーは眼鏡をかけなおして書類に目を落とした。ローランはひらひらと手を振って退室し、受付の男に宿泊している軽食堂の名前を告げて店を後にする。

 夜風が吹いて冷たい風が肌を撫でる。外套を引っ張って前を閉じ、街の地理を覚えるつもりで職人街の方角に向けて大通りに沿って歩いた。この時間帯に路地に入るといった、金にならないいざこざを招くような真似はしない。

 生憎と件の研磨職人は留守のようだった。家の戸を叩いても反応がない。扉の隙間から誓約書を差し込もうとして、どうせなら直接渡して恩に着せようと考えて引っ込める。

 暖を取るために適当な店に入る。この街は大抵がそうだが、人の集まる場所はどこも雑然としている。その大衆食堂も同様で、歓声なのか怒号なのか分からないものが料理の湯気と匂いの間を飛び交っている。品性など生まれてこのかた一度も持ち合わせたことがないかのように乱痴気騒ぎに興じる客どもは、誰一人としてローランが新たに店に入ったことなど気に留めようとしない。

 ローランの好みではある。済ました面をしているよりは、とち狂った方がより物事を楽しめる。

 空いた席に座って楽な姿勢をとり、給仕が通りかかるのをのんびりと待つ。すると、テーブルを挟んで向かいに、ひとりの若い──自分よりはやや上だとローランは見積もった──男が勢いよく腰を下ろした。

 赤を基調とした厚手で妙に格式ばった服装。襟元と袖口の部分は色が濃く、ほとんど黒に近い。ポケットのいくつもついた上着の前を留めるボタンには印章が刻まれており、何かの制服の類であることが分かる。

「警察?」

「ああ」

 男は目を細めてこちらを流し見た。ローランは笑みをこぼした。挑発のつもりはなく、目の前の相手に対して妙なおかしさを覚えたためだ。声音も表情も無感情を装っているのに、こちらに用があるという気配を全身から放っていた。他に席が埋まっていたので相席になった、という風ではない。

 走っていたのか、それとも激しい運動をしていたのか、肩を弾ませている。男は大きく深呼吸した。「そういう反応をするってことは、余所者だな?」

「まあな。つい先日やってきてね。今しがた、ここは面白い街だと思ってたところだよ。真っ二つに区切られてることもそうだが──」

「俺はそうは思わない。この街は掃き溜めだ」男がぴしゃりと遮った。「この服はな、こっち側の警官が着るものじゃないんだよ。ここの住人なら、この程度のことはそこいらの小僧でも知ってる」

 ローランは顎をさすった。「ああ担当区域が二つに分かれてるとかなんとか、だったか? ということは、ここはあんたの管轄外ってわけだ。それで?」

「聞きたいことがある」

「好きにするといい。答えるかどうかはまた別だがな」

「カレン・フィレオルを知っているか?」

 ローランはテーブルに腕を乗せて遠くに視線をやった。「いや。心当たりはないな。女の名前か? あんたの女か?」

 赤い制服の男はやや身を乗り出して沼のような昏い目でローランをまっすぐ見据えた。

 ローランは笑った。「そうやって相手を見るだけで嘘か吐いてるかどうか分かるって?」

「ああ、そうだ。だから隠しだてをすると碌な目に遭わないってことを覚えておけ。次、テッド・ラッセルを知っているか?」

「ああ、そっちは知ってるよ」

「どういう関係だ?」

「どういうも何も、知り合いってだけだ。まあ、若輩者として年長者の振る舞いから教訓を得られたら、と思ってるがね」

「今日、そいつの死体が見つかった」

 自分が耳にした言葉の理解が遅れてうまく茶化すことができず、ローランは思わず聞き返した。「なに?」

 ローランが怯んだのを見た男が捲くし立てる。「自分のヤサでくたばってるのを見つけた。さっき言ったフィレオルは昨晩にラッセルの後をつけていたとの証言があって、こっちも今朝方、夜明け前に殺されているのが見つかった。そして昨日の夜、首もとから顔にまで刺青をした若い男がラッセルと一緒にいたと山ほどの目撃証言が上がってる。さあ、気の利いた言い訳をしてみせろ」

 ローランがテーブルから体を離した。横向きに椅子に座り、前かがみになって膝の上に肘を乗せる。「くたばっていたと言ったな? ラッセルは殺されてたのか?」

「演技だとしたら大した役者だ。そうとも、奴は殺されていた。お前がやったんじゃあないか?」

「悪いが心当たりは無い。だが、別に妙だとも思わん。恨みなんぞ腐るほど買ってるだろう、ああいう輩は」

「そこに関してだけは同意してやる。だが、まさかそれで自分への疑いが晴れるなんて思っちゃいないだろうな? 目下のところ最有力の容疑者なんだよ、お前は。致命的な手遅れになる前にさっさと署までついて来くるんだな。昨晩から今まで何をしていたかを洗いざらい吐かせてやる」

 このまま無抵抗で従ったところでまともな扱いを受けられるとは思えない。ローランは首を振った。

「そこまで付き合う義理はないね。あんたもさっき自分で言ってただろう、ここじゃあ俺を引っ張れるような権限なんて無いってな」

 男が沈黙する。体は動きたそうにしている。ローランは両手を広げ、両足を広げ、今度こそ挑発の意図を込めてにやけ面をつくった。

 男が椅子から立ち上がりながらローランに掴みかかろうと腕を伸ばす。ローランはテーブルの支柱を蹴って相手に向けて滑らせ、それを遮る。

 つんのめって前に出た男の頭を目がけてローランは拳を振るった。殴りつけて昏倒させ、そのまま走り去るつもりだった──が、男はとっさに腕を持ち上げてそれを防ぐ。

 殴られてよろめいた赤い制服の警官が別の客にぶつかった。振り返って怒鳴りだした客の顔面を鷲掴みにして黙らせ、警官は無表情のまま昏い目をローランに向ける。

 まともに付き合う必要はない──椅子を蹴倒して逃げ出したローランの背中を目掛けて男が手近にあった皿を、盛り付けてあった料理ごと投げつける。肩越しに振り返ったローランの鼻先を皿が通り抜け、別の客の頭に命中して派手な音を立てて割れた。

 さすがの酔客たちも様子がおかしいことに気付きはじめた。喧騒がどよめきに変わる。

 店の出入り口に殺到しだした他の客たちのせいで逃げ道が塞がれる。ローランは舌打ちをして突き破って逃げるための窓を探した。

 その一瞬の隙に目の前まで詰め寄ってきた警官が身長差を使って右拳を上から振り下ろす。ローランはそれを軽くいなし、相手の右わき腹をしたたかに打ち返した。

 男は後ろにふらついて額に汗を浮かべる。それでもぴくりともしない鉄面皮──筋金入り。

 ローランは男の手が腰に伸びようとしているのを指摘した。「抜くのは止めておけよ。本当に、冗談じゃ済まなくなるぜ」

 男は鞘ごとサーベルを床の上に放り投げ、その上にホルスターに収まったままの拳銃を置く。ローランも肩にかけていた斜革を外し、背負っていたライフルと長剣を足元に落とした。

 二人は無言のままお互いに歩み寄り──同時に動いた。

 客は逃げ惑い、喝采をあげ、店の人間は頭を抱えながら人を呼んだ。

 鋭く長い男の一撃をかいくぐってローランが懐に飛び込んだ。そこに待ち構えていた膝を手で押さえ、そのまま両足を取って引き倒す。馬乗りになろうとしたローランの顔面に向けて、男は辺りに散らばっていた骨付き肉を掴んで振り回す。思わず仰け反ったローランの鼻先を男の革靴が掠って鼻血が出た。

 立ち上がろうとした男にローランは蹴りを見舞う。うまく肩口で受けられ、軸足を刈られて今度はローランが床の上に転がる。床を蹴って素早く後転して起き上がり、男の体当たりを正面から受け止める。

 顔に飛んできた拳をローランは首を捻ってやり過ごす。即座に放った横殴りの一撃を警官は屈んで避ける。至近距離──お互いがお互いの服を掴んで引き寄せ合う。胸に、わき腹に、みぞおちに拳を振るう。防御など一切無し。

 ローランが殴る。警官が殴り返す。ローランが反撃する。警官の体が沈んで膝をつきそうになる。

「お前たち、動くなよ! そのまま手を上げろ!」

 入り口を蹴破って大勢の男たちが店内に流れ込んできた。観戦していた客たちを押し退けて二人を取り囲む。

 男たちの着ている服は鉄面皮のものとまったく同じ意匠──しかし色だけが真逆の青。八方から銃口を向けられては二人も手を止めざるをえなかった。

 赤い服の警官は、くそ、と悪態をついて、骨が折れていないかを確かめるように腹をさすった。「絶対に、逃がさんからな」

 なおも執念深くローランを睨みつける男は複数人の警官によって取り押さえられた。黙ってろエミール、と、そのうちの一人が恫喝するような低い声で呟いた。

 その光景を眺めながら鼻血を拭ったローランも、すぐに別の警官たちによって薄汚れた店の床の上に叩き伏せられた。

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