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第1話 エミール 1-1

 エミール 1


 手提げのランプを手にエミールは薄暗い通路を歩いていた。閉鎖された空間に木霊する硬質の足音。そこに混じる耳障りな鼻歌。

 留置場の各房は分厚いコンクリートによって仕切られている。勾留した被疑者同士の接触を防止するためだった。ところが、入り口側の窓が鉄格子になっているせいで、少し大きな声を出せば二つ、三つ先の独房まで容易に会話をすることができる。

 まったくの片手落ち──共謀や勾留した者同士の親交を招くと改善の要望を上げたのは数年前だというのに、それが上に受け入れられる様子は一向になかった。常在している監視員が注意すれば済む話ではあったが、袖の下を握らされ、それを見逃す職員も少なくはない。

 エミールはわざと踵を鳴らして自らの存在を誇示した。格子ごしに拘留された連中の様子を窺う。

 不安に駆られた震える目。反骨心からくる敵意。全てを諦めたような虚ろな眼差し。孤独を邪魔されたことによる舌打ち。賄賂を受け取る人間だと見なされれば愛想を振りまかれることもあるが──エミールを相手にそのような無駄な行動に出るものはいなかった。

 しかし、今日のテッド・ラッセルの反応はそのいずれでもなかった。

 贅肉のついた顔はにやつき、上機嫌であることを喧伝するように下手な歌を口ずさんでいる。薄闇の中でもそれと分かるほど顔が赤くなっているせいで顔につけてやった青あざが余計にくっきりと目立っていた。

 ラッセルの足下には差し入れと思わしき酒瓶が何本も転がっている。エミールはすぐに頭の中で今日の担当である他の三人の名前を割り出した。

 そう長いこと様子を窺っていたわけではなかったが、ラッセルがせわしなく視線を動かしていたせいで目が合う。

「いよう、のっぽ」

 大きな声。大げさな手振りでの挨拶。尊大に振る舞っているが、無様に腹の出ただらしない身なりの中年男がやると滑稽でしかない。立ち去ろうとすると、大声で呼び止められた。

「おい、なに無視してんだよ」

 エミールは一言も発さずに冷たく見下ろす。ラッセルはよだれを拭き、だらしなく笑って立ち上がり、鉄格子を両手で掴んで押し付けるようにして顔を寄せる。

「知りたいだろう? 俺が浮かれてるわけを」

「聞いて欲しいのか?」

「その通り! あんたは神経質そうな顔に違わず気が短いから簡潔に答えてやろう。明日、俺は釈放されるのさ」

 エミールの眉が僅かに動いたことに満足したラッセルが唾を飛ばしながらまくし立てる。

「これでようやくまともな生活に戻れるってもんだ。一月足らずの短い付き合いだったが、あんたには本当に世話になったよ。ここにぶち込んでくれたこともそうだが、俺への差し入れを勝手に捨てたり、取調べ中に随分手荒く扱ってくれたりな。思い出すだけではらわたが煮えくり返ってくるが、今となっては懐かしい気もしてくるから不思議なもんだよな。実際――」

 気を吐くラッセルには取り合わず、エミールは素早く引き返して留置所の出入り口まで戻った。椅子に座って舟を漕いでいた担当者の頭を小突いてランプを押し付けるように手渡す。

 外に出て職員の事務に用いられている第一棟まで足早に歩く。通路で油を売っていた男二人を押し退け、上司の個室のドアを不快に思われない程度の強さで叩いた。

 どうぞ、というくぐもった声。エミールは無遠慮にドアを開けて足を踏み入れる。机と棚で半分近くが占領されたお世辞にも広いとはいえない部屋で、グラニエ警部補は椅子に座って髭をいじりながら雑誌を読んでいた。入ってきたのがエミールであると分かると露骨に渋い顔をする。

「何だ」

「ラッセルを釈放するというのは本当ですか?」

「事実だ」

 少しの間をおいての返答。それがどうかしたのかというような口ぶりを装っている。

「奴は小悪党ですが、悪党は悪党です。無許可の売春の斡旋に賭博場の開催、恐喝、窃盗の元締め、余罪を数え上げればきりがありません」

「どれも疑わしいだけだ、確たる証拠は無い。それは君が一番よく知っているはずだ」

 エミールの眉が僅かに動いた。「売春に関しては証言があるでしょう? 報告書で提出したはずです、ルクレーア、フォンターナ、ミュレの三人分」

「彼女たちだが、証言を取り下げた」

 警部補はエミールの視線から顔を背け、折り畳んだ雑誌を机の上に投げた。

 誰がそう仕向けたか──それは最早どうでもよかった。怒りを吐き出そうと戦慄く唇を噛み締めて堪え、エミールは努めて理性的な声で言った。

「現時点において集めた資料では確かに他の容疑は立証できません。ですが、もう少し時間をいただければその疑いが正しいものだと証明できます。また、実際に私が取調べを行ったところ、それは真実であると──」

 警部補は手を振ってエミールのごりっぱな口上を遮る。「これは決まった話なんだ。副署長の意見を受け入れ、署長が決定を下した。証拠不十分、勾留期間を過ぎたことによる釈放だ」

 エミールはゆっくりと息を吸った。これ以上、警部補に詰め寄らないよう自分の足に言い聞かせる。「それでよろしいのですか?」

「私はその判断をする立場にない。階級がより低い君であれば、なおさらだと思うが」

 エミールは姿勢を正して後ろで手を組み、ことさらに背筋を伸ばした。

「失礼しました」

 部屋をあとにする。職員の個室と仕事部屋とを繋ぐ狭い通路には先ほど押しのけた男たちの姿があった。顔を寄せ合っての陰口。こちらを盗み見てにやにやと笑っている。エミールは一顧だにせず、肩を張って堂々と横を通り過ぎた。角を曲がりきるところで聞こえる舌打ち。

 本音をいえば鬱陶しいことこの上なかったが、彼らの無能に思いを馳せれば溜飲を下げるのは容易だった。この都市に赴任するかたちで里帰りした当初、彼らはたいそう先輩風を吹かせていたが、エミール・モースが数年の後に若くして巡査部長の地位を与えられたにも関わらず、彼らは未だに当時と変わらずヒラのままだ。

 留置場まで戻ってきたエミールは居眠りを咎められて縮こまっていた見張りからランプを奪い取り、やりかけの巡回を再開した。

 大股で歩く。いちいち房の中を確認する気はもはや失せていた。

「やっと戻ってきやがった」ラッセルの声。先ほどのように扉に張り付き、何かの雛のようにくちばしを突き出している。「何か言ったらどうなんだ? それとも、口がきけなくなるほど悔しかったのかい?」

 エミールは無反応を貫いた。押し黙って通路を歩く。その間もげらげらという耳障りな笑い声は続いた。

 足音。笑い声。やがてラッセルの独房の前にさしかかる。

 その瞬間、エミールは格子の隙間から独房の中へと素早く腕を差し込んだ。野次を飛ばすのに夢中で逃げるのが遅れた間抜けなデブの後頭部を捕まえて手前に引き寄せる。脂の浮いた顔が音を立てて格子に押し付けられ、下卑た顔がさらに醜く歪んだ。

 灯りで照らされたラッセルの顔は血が上って真っ赤になっていた。浮き出た脂汗で格子の上をぬるぬると滑る。エミールはそれを無表情で見下ろして言い放った。

「お前がへまをやらかしたらまたすぐに飛んでいって捕まえてやる。そうしたら今度こそ、うっかり殺してやるよ。細心の注意を払うんだな」

 泡になった唾を飛ばしてラッセルが喘ぐ。「殺人鬼エミールめ、逮捕にかこつけて今までに何人殺した?」

「数える必要があるのか?」エミールが更に力を込める。

 ラッセルの顔がいまにも破裂しそうなほど赤黒く膨れ上がった。「報復してやる。まずはお前の女からだ。あの、食堂の。いまさら後悔しても遅いぜ、俺は何でも知ってるんだ。まずはひん剥いて、土下座させて、俺のケツを舐めさせてから──」

 エミールはランプを放り投げ、空いた手でラッセルの顔を掴んで黙らせ、そのまま一息で顎を外した。

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