第20話 エミール 3-1
エミール 3
エミールの耳にぼそぼそとした呟きが届いた。同僚の──名前が思い出せない誰かが、通りすがり際に叩いた陰口。普段なら威嚇のひとつもしてやるところだったが、とてもではないが今はそんな気分にはなれなかった。
アズール側の警察署の取調べ室で百回胸焼けしても足りないほどの嫌味と罵倒を浴びせられたあと、自分の署へ報告に戻ったエミールを待っていたのはロカール警部の深い失望の溜息だった。
「君をこの事件の担当から外す。少し頭を冷やしておけ」
それを聞いた瞬間、怒りが表皮を突き破って外に出るような感覚を味わった。自制ができたのはまったくの偶然で、あの小僧にしこたま殴られてできた怪我が脳天に響かなければ、恐らくその場で彼の仕事机をひっくり返していたに違いなかった。
心にもない謝罪と守る気のない宣誓にまみれた顛末書の提出を終えて自席に戻ったエミールは、別に担当している窃盗事件の報告書に取り掛かった。
被害者宅に出向いておざなりな態度で聞き流した恨み言を思い出しながら憶測で膨れ上がらせる。現場の痕跡が少ないことから恐らくは家の構造に知悉しており、住人の居ない時間帯を見計らったことを鑑みるに、犯人は近しい人物であると考えられる。
現場検証無し。身辺調査無し。水増しされた事件報告。どうせ誰も気づきはしない。裏を取る暇や熱意など持ち合わせていない。自分を除いては。
警邏のふりをして署を出る途中、クロードに出くわした。ロカール警部から既に通達があったらしく、気まずそうな顔を背けて無言で横を通り過ぎようとする。
エミールはそれを塀と木陰の間に引っ張り込んだ。「調査の進展具合を教えろ」
「言えませんよ、漏らすなって言われてるんです」
「そうだろうとも。だから早く言え。人に見られるぞ」
「規則なんですってば」
エミールは樹の幹を殴りつけた。樹皮が剥げ、一枚二枚と葉が落ちる。
「何が規則だ。お前が小銭をせびってる密造酒を作ってるガキどもをまとめて引っ張ってやってもいいんだぞ」
脅されたクロードがわなわなと唇を震わせる。エミールは言った。
「情報交換だ、お前が損を被る話じゃない。俺が直接あたった刺青男の方だが、どうやらラッセルが死んだことを知らなかったらしい。表面上はとぼけちゃいたが、その話をしたら相当に面食らってたよ。あれを見る限りではかなりの確率でシロだが、状況は奴がこれ以上ないほどクロだと言ってる。また直接当たってみる他ないだろう」
今度は穏便に。今はどこにいるのか──留置所にいるとしても、また向こうの警察に顔を出すのはいかにも具合が悪い。
「そっちは? カレンの身の回りに関して調べたんだろう?」
「故郷に妹がいるんです。あいつにはちゃんとした学校に通わせてやりたい。いま、ここを辞めさせられるわけにはいかないんです」
クロードが俯き、殴られることを覚悟して歯を食いしばる。エミールは唸り声を上げ、二度、三度、壁を殴った。剥けた手の皮を引き千切って捨て、踵を返す。
「次こそ本当にクビになっちまいますよ」
「そうかもな」
エミールは記憶を頼りにカレンの住処へと足を運んだ。ありふれた平屋の共同住宅。だが、何やら様子がおかしい。今はもう空き部屋であるはずのカレンの部屋の周りに人だかりができている。
はじめは故人を悼んでいるのかと思ったが、どうにも雰囲気が違った。立て付けの悪いドアを、紫の肩かけを羽織った老婦人が弱々しく叩いている。「ちょっと、いらっしゃらないの?」
エミールが近づいて声をかける。「何事です?」
目を細めて振り向いた老婦人は、制服を見てエミールが警官だと分かると愛想のいい笑顔をつくった。「いえね、こちらの部屋の方に用がありまして。ええ、大したことではないんですのよ」
人だかりから否定の声が上がる。「大したことないってことは無いだろう。警察がいるなら話がはやい、開けちまってもいいんじゃないか?」
「事情が飲み込めないのですが?」
エミールが尋ねると、老婦人は言い淀んだ。そわそわした態度。
「その、ここにお住まいの方々の部屋から物がなくなったのよ。他の部屋の住人が犯人なんじゃないかと言いだす人がいましてね、それで、一応なんですが、全員に話を聞いてみましょうかということでね」
「あなたは?」
老婦人はエミールの視線から身を守るように肩かけを引き合わせた。
「私はここの管理人をしているボナよ」
「なるほど」
カレンが死んだのは二日前だ。関係者には連絡が行われるし、住んでいる部屋の管理人ともなればその対象から漏れるとは考えられない。いくらここの官憲の仕事が雑だといっても、その程度の通達が疎かになるだろうか。それに、エミールはそれを担当したはずのクロードとフィリップのことを知っている。子供の使いのような仕事で手抜かりをするような無能ではない。
建物の裏に回る。各部屋の窓ははめ殺しになっているため、こちらから侵入する事はできないようになっていた。表に戻り、今度はドアの具合を確かめる。いずれもこじ開けられた形跡は無し。つまり、本当に誰かが侵入したのであれば、表から堂々と鍵を開けて入ったことになる。
エミールはおおよそを察した。考えようによっては好都合でもある。
「管理人であれば鍵はお持ちでしょう? 開けていただいて構いませんよ。不法侵入を罪に問うようなことはしませんから」
老婦人は周囲にせっつかれて渋々とカレンの部屋の鍵を開けた。
エミールが率先して部屋に入る。中には安物の家具とベッド。片付けられていて、荒れてはいなかった。質素な生活──それ以外には何も感想は浮かばない。厄介事の気配はしない。
恐らくはあの店の給仕が言った通りなのだろう。カレンは自分から危険に首を突っ込んで、巻き込まれて、殺された。自業自得──だが、エミールの衝動は治まらない。路地裏に転がった死体を思い浮かべるたびに古傷が疼き、呼吸が乱れる。
「盗られたものはいったいなんです?」
部屋の外から様々な声。
「装飾品だ。銀細工の首飾り。まあ、そう大した価値のあるものじゃないんだが、記念の品なんだ」
「仕事道具だよ。測量に使う機器でね。小型で精密なもので、あれがないと困るんだ」
「小銭入れよ。まだいくらか入ってたのに」憤慨した女の声。
つまり、いずれもかさばらないもの。年を食った女でも持ち運べるような。
エミールは部屋の隅々を調べ、着替えとコップに挿してある一輪の花以外には何も無いことを確認して振り返り、念を押すように言った。
「盗られたものは見当たりませんね」
老婦人は、ええ、そうね、と何度も細かく頷いた。
「もう他の部屋は全て調べられたんですか?」
「ええ、はい。そうよ。住人の方々の部屋はこれで全員分調べましたよ。多分どこかのこそ泥が──」
「管理人室は?」
「なんですって?」
「あなたの部屋ですよ、ボナ」エミールは外に出て辺りを見回した。「どちらにあるんです? この近く? それとも離れた場所に?」
人だかりのうち何人かが向かいの小さな建物を指差した。大股でそちらに向かうエミールの制服に老婦人が爪を立てる。
「あなた、あなたねえ、私が盗ったとでもおっしゃりたいの? こんな哀れな老人を疑う前に不届きな泥棒を探したらどうなの?」
入り口ドアのノブを回す。鍵はかかっていなかった。老婦人を引きずるようにしてエミールは無断で家に押し入り家捜しをした。箪笥、クローゼット、寝台の下、時計の中、絨毯の下──色が違う床板が見つかる。叩くと、空洞の音がした。
弱々しい殴打を繰り返す老婦人を片手で押し退け、床の隙間に爪を引っ掛けた。色の違う板は簡単に外れ、奥から貴金属の類が見つかる。
「盗られたのはこれらで間違いありませんか?」
大きな声でエミールが外に呼びかけた。成り行きを見守っていた住人たちがどたどたと入ってくる。ああ、これだ、間違いない──各々が隠し場所から自分のものを拾い上げ、犯人へと怒りの目を向ける。
老婦人としては外部の物取りの仕業にしたかったのかもしれないが、あまりにも頻発する被害に、内部の犯行ではないかと不審に思った住民が現れた。そこで、不在のカレンに罪を擦り付けるために一芝居をうった。顛末としてはそんなところだろう。どの部屋の住民がどの時間帯に不在かなど向かいからいつでも見れるのだから、いとも容易く盗めたに違いない。
住民たちは怒りのままボナの家を荒らす。行き過ぎた窃盗行為のつけ。青ざめて泣き叫ぶ老婦人の横を通り過ぎて外に出たエミールを、拍手が出迎えた。怪訝に思ってそちらを振り返る。
知った顔が二つ。だが、思いもよらない取り合わせ。
拍手をしていたのは、先日、質の悪い労働者たちに袋叩きにされていた男だった。確か──ジャック・メルヴィル。
「いや、すまない。鮮やかな手並みだったもので、つい」
「大したことじゃない。似たような事件を扱ったことがあるだけだ」
「ちょうどよかった、君に会うために警察署に向かっているところだったんだよ」
「生憎と俺の方はあんたに用事なんか無いが」エミールはジャックの背後を鋭く睨みつけた。そこには昨晩取り逃がした刺青の男が腕を組んで立っている。「そっちには色々と聞きたいことがある」
「では、どこかゆっくりと話せる場所に案内をしてくれないか?」
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