第34話 ローラン 4-2
ローランは溜息をついて磨かれた石床に唾を吐いた。またか、と。
ギャレーの店を訪れたローランが目にしたのは、店の表を任された──確かアンリという名前の──優男の死体だった。受付のテーブルの上に突っ伏し、白かった手袋は真っ赤になって両腕がだらりと前に垂れ下がっている。首の傷からはまだ血が流れており、体に触れてみると体温が残っていた。
店内を見渡す。前に来たときには居たはずの警備の人間がいない。つまり、こうだ。自分がその当番のときに事に及んだ。あるいは、護衛を買収するなり仲間に引き入れるなりした。ローランは急いでギャレーの部屋へと向かった。
執務室はドアが半開きになっていた。開くと、ギャレーの死体が目に入った。割れた窓の近くでうつ伏せになっており、背中を大きく切り裂かれている。ローランは近寄って詳しく調べた。
壁には真新しい爪痕。ギャレーの手を持ち上げてみると、爪の間に壁と同じ色の粉が詰まっている。椅子を蹴倒して窓から逃げようとしたところ、背後から斬られた。そして、殺した人物は窓を割って逃げた。ガラス片が室外へ向けて散らばっている。
部屋は荒らされている。机の引き出し、クローゼット、キャビネットは中の物が散乱して床にぶちまけられていた。これだけは今までと毛色が違う。何かを探した痕跡。
しかし、肝心のものには手付かずだった。
壁に嵌められた小さな金庫。まるで自分の手の届くところになければ安心できないとでもいうように、執務机のすぐ後ろに置かれたそれは、前に見たときと同様そこに鎮座していた。
ローランはそれを引き抜こうとして、どうして下手人がこれを諦めたのか、その理由に気付いた。金庫は壁に固定されておりぴくりともしなかった。
思わず毒づいて壁を殴る。そこで、壁が石材ではなく、一面艶の出るほど磨き上げられた赤樫であることに気付いた。
ローランは舌なめずりし、金庫を押し込むように蹴った。金庫の近くの壁を蹴った。何度も何度も蹴るうちに木片が飛び散り、ワニスが剥げ、金庫と壁とを繋げるために打ちつけられた螺子が少しずつ歪んでいく。
数十回ほど繰り返したところで固定用の板金がねじ切れて吹っ飛んだ。ローランは金庫を引きずり出して外套で包み、肩に担いだ。ギャレーの死体を跨ぎ、空いた窓から外に飛び出す。
店の脇からそのまま入り口とは逆方向へ回り、裏手にある建物の横を素知らぬ顔で通って反対側の通りへ出た。ローランは慌てず、ゆっくりと、人の流れに乗って現場を離れた。幸いにも誰かが嗅ぎつけたような気配は無く、ジャックのホテルにたどり着くまで、誰にも見咎められることはなかった。
ローランが部屋に運び込んだ物を見て、相変わらず数字と取っ組み合いを続けていたジャックは目を丸くした。「なんだい、それは」
「ちょっとね」ローランはがりがりと頬を掻いた。「ひょっとすると……いや、確実に騒ぎになるだろうから、そうなったら一足先にとんずらさせてもらうよ」
「また何かやったのか」
ジャックの批難を無視して部屋の一角を占拠した。金庫を上から横から叩いてみる。鉄板の感触は分厚く、叩き壊すのは骨が折れそうだった。片開きの扉にぶら下がっている拳大の錠前もいやにごつく、いかにも頑丈さに重点を置いて作られたもののように見えた。
ローランは部屋を物色してちょうどいい高さの花台を見つけると、上の花瓶をどかして代わりに金庫を置き、革帯の小物入れから解錠用の七つ道具を取り出して絨毯の上に並べた。
錠前を手に取って横に向け、目をすがめて穴を覗き込む。鍵穴を指で少し回し、圧力をかけて中のピンがずり落ちないように固定し、爪のついた細長い金属の棒を差し込んで一つずつ押し上げていく。五本目を終えたところで弾けるように錠が外れた。
「器用なものだな。どこで覚えたんだ?」ジャックが後から覗き込んでいた。
「鍵屋からだよ。闘犬狂いだったんで、いかさまで嵌めた」
苦い顔をするジャックの視線を背にローランは金庫を開けた。中にあったのは金と、貴金属と、数々の書類。ローランは金目のものには目もくれず、書類を取り出してぱらぱらと流し見た。
書類は古いものから新しいものまで様々で、どれも記載された内容は酷似していた。格子線で区切られた表。だが、横も縦も記載されているのは意味不明な文字の羅列だった。
「見せてくれ」
ローランの表情からおおよそを察したジャックが書類を掻っ攫い、すぐに頷いた。
「暗号だな。これはどういった来歴のものなんだ?」
「どう、っていうのは?」
「持ち主は個人か? それとも企業?」
どう考えても隠し持っていた代物。「個人だな。恐らく」
「だったら、そう複雑な手法ではないだろう。変換表があるにしてもせいぜい一枚だ」
「そういうもんなのかい?」
ジャックは頷いた。「暗号化するにも平文に戻すにも自分でやる必要があるからな。そのうち億劫になってくるのさ」
ジャックが机に戻ってペンを片手に表を読み解く。「恐らくはこうだ。数字と文字を並べて1つの列にし、特定の数だけずらしている。17、だな。それで表の中身は全て数字になるし、頭に0が来ない。ぱっと見て金勘定を表したもののように見えるが……そろそろこれが何なのか教えてもらいたいんだが」
「あんたのリストに載ってた男の持ち物さ。ティエリ・ギャレー」
「覚えている。高利貸しだな?」
ジャックは書類に視線を戻して左の欄、そこに並んだ名前を読めるように戻しながら別の紙に書き連ねる。
「流し見た限りだが、軍の高官の名前がある」詳しい説明を求めるジャックの視線。「どうやらフレッソン産業も含めた各企業との橋渡しのようなことをやっているな」
「そのギャレーってやつは州軍の連中に仕事を斡旋する手配師もやってるらしい」
ジャックは頷いた。「続けてくれ」
「俺がギャレーに最初に会ったとき、借金回収の仕事を回してもらった。急に人手が足りなくなったってことでな。軍人に裏仕事を回す高利貸しがそんなことを言い出した。そこで、ぴんときた」
「……どういう意味だ?」
「大将、あんた、ここに来る途中に賊に襲われたのを忘れたわけじゃないよな? はっきり言って、奴らは素人じゃなかったぜ?」
ローランの言わんとすることを察してジャックは唖然とした。汗の吹き出た頭を抱えて呟く。「信じられない。そこまでするか?」
「俺はやったと思うね。死人に口無しってやつさ。荒野のど真ん中で他に見ている人間なんていない。被害者が全滅さえすれば証拠の隠滅なんて思いのままだ」
「こう言いたいわけか──都市の外で我々を襲撃したのは州軍の兵隊だった。依頼したのが誰かは不明だが、それを斡旋、あるいは仲介したのはギャレー。罠を用意しての待ち伏せ、確実な仕事だった。ところが、思わぬ邪魔が入った。全身刺青の無頼漢」
ジャックはにわかに興奮した様子でそわそわと部屋を歩きまわって鼻息荒くまくし立てる。
「これは使えるぞ。あの戦闘で向こうも多くの人間が死んだ。つまり、ギャレーと取り引きがあって、つい最近死亡、ないしは消息不明になった人間がこのリストの中にいるかもしれないというわけだ。もしそれが証明できれば、政府職員の謀殺を目論んだとして、反逆罪として立件できるかもしれない。軍上層部は下の兵隊連中の暴走だと言い逃れをするだろうが、そうなったらなったで管理能力の不足という形で任を問うことができる。いや、待てよ、そこまで癒着しているならこのリストでギャレーを脅して証言させた方が手っ取り早いか?」
「ギャレーは死んでた。ついさっき殺されたようだな」
ジャックは階段を踏み外したかのようによろめいた。書類を持った手をテーブルについて踏みとどまる。
「気をしっかり持ってくれよ大将。まあそういうわけであんまり長居できそうにないのさ。でだ、その書類にバルドーって名前はあるか? 貸し方でも借り方でもどっちでもいいが」
ジャックが顔を上げた。この数分の間にひどく疲れ、やつれてしまっている。「……バルドー?」
「ああ。マルセル・バルドー。どうだ? ジョベールでもいい」
ジャックはやや呼吸を荒くして、眼球に文字を焼きつけようとでもするかのように何度も何度もギャレーの秘密文書を読み返した。「ジョベールは見当たらないが、バルドーの名前はある。だが、日付はかなり古いぞ。金を借りたようだが、もう何十年も前の話のようで、詳細は書かれていない。なあ、どうしてバルドーなんだ?」
「いや、ちょっとな。今の口ぶりだと、もしかしてどこの誰だか知ってるのか?」
ジャックがあからさまに口ごもったのを見てローランが首を捻る。
「どうした?」
「……この部屋はバルドーの提供だよ。もともと拠点にするはずだった宿がいきなり火事になったからだ」
ローランの動きがぴたりと止まった。口を開きかけようとして──ホテルの廊下から聞こえた荒々しい足音に遮られた。
部屋の扉を乱暴に開け放って現れたのはエミールだった。息を荒げて中を見渡す。「揃ってるなら丁度いい」
彼はローランのそばまで歩み寄ると、握り締めていたくしゃくしゃの紙を押しつけるように突き付け、一点を指し示す。
「これを見ろ。三十年前の坑道の作業計画のうち、人員の名簿と配置場所についての写しだ。バルドーとラッセル、奴らは同じ区画を担当していた。面識があったとしてもおかしくない」
ローランはジャックの方を見た。つられて、エミールもそちらを向いた。ジャックは深呼吸をして、二人を正面から見返した。
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