第12話 エミール 2-2

 ラッセル──ラッセル──ラッセル。

 エミールの姿を見て唾を吐き捨てたアズール側の門番を無視して反対の区へ。地図と住所の写しを見比べて目的の建物へ向かった。

 自分たちとは別の州の警官の制服姿──血だまりのような濃紅に、アズール側の住人たちの無遠慮な視線が突き刺さる。声を潜める気すらない嫌味をエミールは無視した。体中から放たれる怒気で誰もが距離をとる。

 パカール14の2。古めかしい臙脂色の集合住宅。内装も年月によるものと思わしき汚れが目立つ。エミールは114の部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。

 暫く待ってみたが誰も出てこない。大家に鍵を開けさせようかと考えたところで、この建物内に当の大家がいるかどうかを調べてきていないことに思い至った。もう一度呼び鈴を鳴らして何度も強くドアを叩く。

「警察だ! いるなら出てこい!」

 ドアに耳を当てて中の様子を窺う。慌ただしい足音。少し後ろに下がったエミールの鼻先を、ドアの縁が勢いよく通り過ぎた。

 化粧を落とした、そばかすの目立つ女が乱れた服装で現れた。エミールは視線をドアの奥にやりながら尋ねる。

「ここは、ルイ・グーノンの家で間違いないか?」

「ええ、そうよ」女がエミールの姿をしげしげと眺める。「何? やばいこと?」

「そいつを調べてる。本人がいるなら呼んでこい。すぐにだ」

 女が開けたときと同じようにドアを閉めた。何やら言い争う声と部屋をひっくり返すような音がした後、またしても勢いよく開いたドアから着替えた女が砲弾のように飛び出していった。

 手荷物を脇に抱えて遠ざかる背中を見送っていると、部屋の方から声をかけられた。

「あんたかい? 疫病神は」

 茶髪、鳶色の目をした男が扉の縁に手をかけて立っていた。飄々とした雰囲気を出そうと努力しているが目じりに苛立ちが滲み出ている。

「グーノン?」

「そうだよ。何だよ、警察だっていうから焦って出てきたら、向こうの方じゃねえか」

 エミールは男の顔面を鷲掴みにして部屋に押し入った。後ろ手で扉を閉め、家具を倒しながら壁に押し付けて手首を捻り上げる。

「テッド・ラッセルの取引相手の一人だな? 奴の居場所に心当たりがあるなら教えろ」

 グーノンが掴まれた首元を指差して目で訴えてきた。エミールが解放すると、備え付けのチェストに倒れ掛かってぜいぜいと喘ぐ。

「そんなもん知らねえよ、奴の自宅にでも行ったらどうだ?」

「とっくに行ってきた。もぬけのからだったがな。つい先日引き払ってたことまで調べたよ。留置場から出てすぐヤサを変えたんだろうな。さあ、さっさと答えろ、奴の寄りそうな場所や別の持ち家をだ」

「正気とは思えないね。ここはあんたの管轄じゃねえんだぜ? 例えば、俺がここから一区画先にある駐在所に駆け込んだら、縄張りすら理解してない馬鹿なお巡りが一体どんな目に遭うと思う?」

「試してみるといい。無事にたどり着けたらお前の勝ちだ」

 エミールは少し体をずらして部屋の出入り口を塞いだ。グーノンは両手を広げて首をふった。

「商売で少しばかり付き合いがあるってだけだ。悪いがあんたのご期待にはこたえられないね。奴がへまをやらかしてカルマン側でとっ捕まったのは知ってたが、出てきたのなんて今しがた知ったよ。あんたに教えられてね」

 嘘を言っているかどうかは分からない。「それじゃあ、お前の他の商売相手の名前を教えろ。横の繋がりから追っていくとしよう」

「飯の種だぜ? そうほいほい教えられるわけがないし、そもそもあんたにそんな権利なんかないはずだ。さあ、さっさと出て行ってくれ。そうしてくれたらこのことはすぐに忘れる。誰にも言わないし、通報もしない」

 エミールは部屋の中を無遠慮に見回した。部屋は他に三つ。それぞれをじっくり見つめると、左奥のドアに視線をやったときにグーノンの体が強張ったのをエミールは見逃さなかった。

 その部屋に向かって突き進もうとするとグーノンがしがみついてきた。

「そこには何もない。ただの寝室だ」

 エミールはグーノンを引きずりながら部屋に入る。確かにそこは寝室だった。二人用のベッド、流麗な形状のランプ、衣装箪笥、クローゼット。

 エミールはシーツをひっくり返し、箪笥を全てあけ、花瓶を逆さまにして中身を絨毯の上にこぼした。ベッドの下に籠があるのを見つける。引っ張り出すと、刃物、金、手帳が入っていた。

「くそっ、やめろ! ふざけるな!」

 暴れるグーノンの後頭部を掴んでベッドに押し付けた。背中の上に膝を置いて拘束し、片手で手帳をぱらぱらとめくる。当たり──ラッセルの名前と、引き払う前の住所。引越し先を知らないというのは本当のようだ。

 他の名前を眺めるうちに知った住所が目に入る。エリオ829。付記された名前はシャルル・ユゴー。姓がそこの家主のものと一致する。他に大物の名前がないことを確認してエミールは手帳を放り投げた。

「邪魔をしたな」

 背中を向けた途端、激昂したグーノンが殴りかかってきた。それを予想していたエミールは振り向きざまの蹴りを先にお見舞いし、開け放ったクローゼットにグーノンを叩きこんでから部屋を後にした。



 建物を出た足でそのままアズールのエリオ829へ。緩やかな坂道を延々上った先にある、街の縁の小高い丘の上にある一画。汗をぬぐって足を踏み入れたのは、煤と土で薄汚れたこの街にあって異質な空間だった。

 まるで薄汚れた下界を睥睨するために造られたような閑静な住宅街に建ち並ぶ建築物はいずれも壮麗で、磨き抜かれた石材と等間隔に配置された窓は古めかしさと格調高さを混ぜ合わせた威圧感を放っている。

 目的の住所に建っていた一軒家に至っては、汚れひとつない白い石塀で囲まれていた。エミールは重厚な門に備え付けらえた紐を引いて使用人を呼び、用件を告げた。

 暫くして現れたのは白髪混じりの背の曲がった男で、歳は五十がらみ。肉体はくたびれているように見えるが、エミールを睨め上げる眼光だけはやけに鋭い。初老の男はおもむろに言い放った。

「本来ならば君のようなごろつきの類など門前払いにするところだが、息子の名前を出したそうだな? シャルルは今朝早くに外出している。さっさと用件を伝えろ」

 そう言ってこの街有数の資産家は値踏みするようにぎょろぎょろと視線を上下させた。

「ご協力感謝します、パトリック・ユゴーさん。今朝のことですが、カルマン側で女性の死体が発見されました。それに何らかの関わりがあると思わしき人物を追っています。名前はテッド・ラッセル。何かご存知ではありませんか?」

「その某とやらはいったいどういう人物だね?」

「呑み屋、売春婦の斡旋と、まあそういった手合いです」

「その不届き者が倅となんの関係がある?」

「シャルルさんとは何か商売上の繋がりがあるのでは、と思いまして。個人的な交友関係かもしれません」

 パトリックは鼻で笑った。「ありえん話だな」

「そうですか? 成功者の父親に反発するどら息子が良からぬ連中とつるんでるってのはよく耳にしますがね。で、音に聞く名士はそんなことなんか十分承知してるでしょうし、それに自分の足元をおろそかにするとも思えない」

 下から睨みつける老人の面構えはこれから食いつく獲物を観察する梟のようだった。感情のこもらない瞳で見下ろすエミールと視線がぶつかる。

「頭の悪い小僧だ。木っ端役人が粋がってどうにかなる相手かどうかよく考えろ」

 エミールは顎をしゃくった。「そっちこそ頭を使え。いま、あんたと俺の間には何がある? 答えは空気だ。金や権力じゃない。助けを呼ぶ? 警察署にいいつける? で、助けは俺が拳を振るうより早く飛んでくるのか?」

 街の名士はぎょろりと目を剥いたあと、門柱に唾を吐き捨てた。「下手くそな脅迫だ。まあいい、何か書くものをよこせ」

 エミールがメモ帳を渡す。初老の男は適当に開いたページに乱雑にペンを走らせた。そこに書き殴られたのはとある住所──オーギュスト36。

「ご協力感謝します」

「二度と来るんじゃあないぞ」



 エミールは赤光を背に区内を下り、繁華街を抜け、住宅の立ち並ぶ地域へ入った。街路の端に突っ立って奇異の視線を向けてくる住民を無視して、地図を片手にオーギュスト36を探しあてる。

 煉瓦造りの一軒家だが色彩は一色、建物の構造も四角四面と味気ない。しかし大きさだけは中々のもので、自分の寮の一室とは比べものにならないほど豪勢な住まいだった。

 呼び鈴を鳴らすべきかどうかを迷いながらドアに手を伸ばし、そこではたと気がついた。鍵穴に不自然な引っかき傷がある。まるで鍵ではないものを突っ込んで弄り回したような。

 エミールは把手に手をかけ、ゆっくりと力を入れてドアを押した。

 開いている。鍵がかかっていない。

 エミールは往来に人の目があることを考えて家の周囲をぐるりとまわった。窓を見つけ、そこから中を覗き込む。

 赤黒い染みが無地の絨毯に禍々しい模様を作っているのが見えた。

 全身がざわついた。急いで玄関に戻り、人気が無くなった瞬間を見計らって押し入り、家の中を慎重に捜索する。

 居間に首を掻き切られた肥満体の男の死体。それ以外は無人。ひとまずの安全を確保したエミールは、恐る恐る被害者の顔を確認する。

 テッド・ラッセル。見間違えようがない。

 エミールは家の中をうろつきながら思案に暮れる。カレンは──ラッセルの後をつけたと店の男は言っていた。だからこそカレンの殺害にラッセルが関係していると踏んでここまで追ってきた。ところが、当の本人がいま目の前で死んでいる。

 状況がまったく理解できない。結論を導き出すための材料が不足している。

 エミールはもう一度、今度はくまなく家の中を調べまわった。荒らされた形跡はなく、物取りの仕業ではないことが分かった。すると殺人が目的になるが、いったい誰がやったのか。商売上、敵は多かったはずだ。怨恨という線が一番濃厚であるように思える。

 しかし、それではカレンの件と無関係になる。エミールは、そうは思いたくはなかった。

 人知れずこの場から立ち去るべきかどうか──万が一、誰かに姿を見られでもしたら大いに面倒なことになる。

 エミールは表に出て近くにいた通行人を捕まえ、自分の制服をつまんで相手に向けて強調した。背後の家を指差して告げる。

「俺はカルマン州の警察官だ。ここに死体があるのを発見した。最寄の駐在所に行って、人を呼んできてくれ」

 つい先ほどまでににやけ面で駄弁っていた若い男どもは慌てふためき、うろたえだした。一向に動き出そうとしないため、エミールは手を叩いて声を張り上げた。

「悪いが一刻を争ってる。少しばかり市民の義務を果たしてくれるだけでいいんだ」

 二人は顔を見合わせ、どちらともなく頷いて小走りに去っていった。エミールは管轄の警官の到着を待たず、その場を後にした。

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