第36話 ジャック 4-2

 口の中の渇きを覚えたジャックは作業の合間に飲むつもりで淹れた、ぬるくなった紅茶で舌を湿らせた。

「そんな人物だが、不用意にも警察へ不審を抱いているようなことを漏らしていた。ここの管理体制に関してはそうとう腹に据えかねている部分があるのかもしれないと感じたね。伝え聞くところによると一笑に伏すことはできないと思うが、どうだろうか?」

 エミールが壁際から離れてチェストの前に立った。背を向け、台の部分を強く握り締めている。ジャックはそれを肯定の返事と受け取った。

 こちらに背を向けたままエミールが口を開いた。「殺される直前、ラッセルは不自然な釈放をされた。俺が捕まえて、いつもなら立件できるはずの証拠を集めてたっていうのに、急遽証言が取り下げられたせいで。多分、バルドーにならそれができる。やつは昔から個人的に警察内に伝手があるうえに、ここの警官はお世辞にも口が固いとは言えない。金を積んで情報を手に入れ、介入するくらい朝飯前のはずだ」

「伝手というのは?」ジャックが訊いた。

「警察は鉱夫の労働組合の動向を監視するために見張らせていた。三十年前、奴はまだほんの子供だった。読んだ人間の哀れを誘うためにその当時の警官がバルドーに白羽の矢を立て、接触し、報告書内に名前を出している」

 バルドー。あらゆる場所で彼の名前が出てくるというのに、今のところ彼に直接繋がる線はどこにも見当たらない。殺人、密輸、それらの共謀や教唆、いずれの証拠もまだ見つかっていない。それを重々承知しているのか、振り返ったエミールは急かすようにジャックの方へと詰め寄る。

「それで、この後はどう動く? バルドーを徹底的に攻めればいいのか?」

 ここからが肝心な部分──ジャックの心臓が鳴る。これから起こることに備えるため呼吸を整えてから首を振った。

「いいや、調査はここで手仕舞いだ。私はこれから数日のうちに引き上げる予定だ」

 エミールが肩を怒らせて両足を僅かに広げ、踏ん張った。その場に力ずくで自分を押しとどめるように。

「不服なのは分かる。だが単純な話だ。連邦の目的は彼ではなく、そもそも今の会話自体ほとんどが推測、言ってみればただの与太話に過ぎない」

 ジャックはローランが盗んできたものをエミールにつきつけた。

「ギャレーの店から手に入れた裏帳簿だ。ここにフレッソン産業の名前がある。もちろん知っているだろう、君が教えてくれたのだから。街の出資者から集められた金がその会社を経由して軍に回っている。多分、密輸の資金源になっているはずだ。これに加えて襲撃の件で何人かの首を差し出すよう軍と取り引きをするつもりでいる」

 エミールが帳簿を振り払った。薄汚い裏商売の証拠がくるぶしまで埋まる絨毯の上に散らばる。

「奴の台本通りに踊る気か」

「それで目的が達成できるのなら」

「パスカル・グレコ」

 エミールが出し抜けに言った。人名だろうが、聞き覚えのなかったジャックは率直に聞き返した。「誰だ?」

「宝石の研磨職人。三人目の被害者だ。鉱山まわりについて聞き込むついでに、名前を調べた。もう記事にも載ってる」

 エミールが懐から折り畳まれた新聞紙を取り出して投げ捨てた。

「殺された理由に検討がつかなかったんだが、口封じなら納得がいく。こいつは長いことラッセルと組んでいたらしい。そうしているうちにバルドーについて何かしら知ったのか──もしかすると直接の面識があったのかもしれない」

「そうか」

「盗掘されたものと知っていながら磨いたってことは犯罪の幇助に他ならない。末路としちゃ、妥当なところだろうよ。ギャレーも似たようなもんだ。だがな、最初の被害者は違う。真っ当に生きようとしていた」

「知り合いだったのか?」

 エミールの沈黙──何より雄弁な答え。ジャックは俯いて首を振った。

「彼女だが、恐らく見てはいけないものを見てしまったのではないか? これほど念入りに始末をつけようとしていたんだ、ラッセルの動向の監視する意味も込めて、首尾よくやり遂げるかどうか確認するために誰かに見張らせていたのだろうと思う。不幸にもその人物に見つかってしまい、懸念要素として判断され、そして処理された。心からお悔やみを──」

 ジャックはエミールに襟首を捕まれた。そのまま部屋の隅に運ばれ、壁に押しつけられる。背中を強く打って息がつまり、釘に紐で引っ掛けられていた壁の絵が床の上に落ちて額縁が割れた。荒い息がかかるほど近くにエミールの鉄面皮──ヒビが入ってるように見える。崩れかけた部分から漏れ出る暗い炎でジャックは自分の肺が焼かれているような気分になった。

「あんたは分かっているのか?」エミールの唇が戦慄く。

「何がだ?」

「あんたは自分で言ったな、この事件は査察が原因で引き起こされたと。つまり、あんたのせいだ。金だか地位だか知らないが、あんたの目が欲に眩んだせいで女がひとり死んだ。考えの足りない馬鹿な女だったが、こんなくだらない企みに巻き込まれるいわれは無かった」

 ジャックは長いこと沈んでいた水の中から顔を出したように喘いだ。結局、直前まで考えていた言い訳は、どれも言葉の形にはならなかった。

「ああ、その通りだ。認めるよ。私の功名心が無実の人間を殺したことを。だが、私は今回の仕事をどうしても成功裏に終えなければならなかった。なんとしても」

 ジャックは覚悟を決めて体の力を抜いた。どうか殺される前に止めてくれと心の中でローランに頼んだ。

 顔を引きつらせて裁きの瞬間を待つ。エミールの両腕は動かない。締め上げも殴りもしない。ただ、震えている。

 ローランが割って入った。エミールの腕を掴み、ゆっくりとジャックから引き剥がす。

「例え大将がこの仕事を引き受けなくても、どうせ別の誰かが代わりにやってきて同じような結末を招いたと思うね。あんただって、分かってるだろう?

 押し退けられたエミールは外が見える窓までふらふらと歩き、両拳を握り締めて二度、三度と窓枠に叩きつける。ローランがジャックを壁から引き剥がして片目をつむった。

「ところで大将、数日でここを引き払う予定ってことだが、その間はもちろん好きにして構わないんだろう?」

 ジャックは絞められた襟から抜け出るように首を動かした。「交渉の結果次第だが、上手くいけば一日、二日で済んでしまうかもしれない。それでもいいのなら──」

「決まりだな。俺たちは残りの時間を使って大将の威光を笠に着てバルドーに繋がる証拠を探す。で、警察やら軍やらに横槍は入れさせない」

「……君たちがそれで構わないのであれば。積極的に手伝うことはできないが」

「それで十分さ。なに、当てはある」

 ローランが歯を見せて笑った。エミールがはっとなって振り返る。「ジョベールか」

「そうだ。奴をとっ捕まえて吐かせりゃいい」

「その名前ならついさっきも聞いたが、誰なんだ?」

 ジャックが尋ねる。エミールはばつが悪そうにこちらを横目で見ながら説明した。

「バルドーと繋がりのある兵隊だ。今は誰も住んでいる人間がいない借家で、奴とこそこそと密会しているのをこいつと二人で目撃した。さっき言った警察との繋がりの延長で……多分、個人的に親交がある。バルドーが裏で糸を引いていたとして、下手人は別の信用できる誰かにやらせる必要があるはずだ。俺はその男が手を下したんじゃないかと睨んでる」

 ジャックは乱れた上着を直した。「だったら、急いだ方がいいかもしれない。私がその人物の立場なら、とっとと逃げだす準備をしてるはずだろうからな」

 エミールは最後に景色を一瞥してから窓際から離れた。ローランは伸びをし、「ひとつ聞きたいんだが」と言った。

「なんだ?」

「バルドーってのは、なんでこんな真似をする? ここまでやるからには大層な目的があるんだろう?」

 ジャックは喉の調子を確かめるように咳払いし、この部屋で交わしたバルドーとの会話を思い返した。

「この街を良くしたいと言っていた。あるいは、この都市で生活するうちに受けた仕打ちに対する意趣返しのようなものかもしれない」

 ローランは見るからに高価そうな絨毯の上に唾を吐き捨てた。エミールは床に落ちた絵を踏みつけ、柱時計を叩き割った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る