第6話 ローラン 1-3

 確かに店主の言った通りだった。目立たないように外套を羽織って人気の多い所を目的もなくうろついていたのだが、日が落ちてくるとがらりと通行人の質が変わった。職人と物売りと掃除婦から、鉱夫とごろつきと兵隊へそっくり入れ替わる。

 木箱を叩き壊したような音。陶器の割れた音。喧騒に罵声らしきものが混じり始める。猥雑な暗い活気がそこら中から噴き上がってくるのを肌で感じる。ローランはその中でもひときわやかましい大衆食堂のドアをくぐった。

 いきなり飛んできた大皿をローランは屈んで躱す。口笛と拍手。ローランは歯を剥いて笑ってみせ、空いた席を探した。

 長椅子の隅に腰掛けて酒を注文する。酔いが回らないようにそれをちびちびと飲りながら、ローランは与太者の目で店内を観察する。

 他より一段高い台座の上で巧みに弓を操って演奏する老人。その隣では、顔を赤くした太鼓腹のおやじが調子っぱずれの間延びした声で歌っている。店の中で一番でかいテーブルでは男どもが集まって懐から今日の稼ぎを取り出しているところだった。呑み屋と思わしき男が小銭をかき集め、紙に何かを書きこんでいる。

 料理を乗せた素焼きの陶器が割れて香辛料まみれの肉が床に落ちた。肩がぶつかっただの何だのと仕事明けの労働者どもが睨み合ってお互いの襟首を掴む。外野は周りをとり囲み、手を叩いて喧嘩をはやし立てる。

 どこもかしこも騒がしい店内──その中で一番目を引いたのは、隅に独りで座っている男だった。

 頭から首にかけてを包帯でぐるぐる巻きにしたその男はエールにちびりと口をつけては顔をしかめ、包帯の上から顎を押さえて苦しそうに呻いていた。テーブルの料理を口に運び、また痛みを堪え、悪態をつき、足元に転がっていたマグを蹴り飛ばしている。

 その男が気にかかったのは怪我のせいでも、みっともない振る舞いのせいでもない。男は自分と同じ目で店内を見回していた。つまり──カモを探している。

 ローランは取っ組み合いを見物する客の間をするりと抜け、包帯男の向かいに腰を下ろした。

「邪魔するが、いいかい?」

 包帯男は不機嫌さを隠そうともしない舌打ちをする。「失せやがれ、小僧」

「まあそう言うなよ」

 ローランは外套を脱いで膝にかけた。露になった刺青を見て男の目が丸くなる。

「その歳で随分と思い切ったもんだな」

 だみ声の包帯男は笑おうとし、またも顔をしかめる。

「ひどい怪我のようだ」

「ああ、まったくむかつくぜ。おかげで飯を食うのにもこの有様だ。お前も他じゃあどうだったかは知らないが、ここではあまりはしゃぎ過ぎない方がいい。そこら中に兵隊がうろついてるし、お巡りの中にもいかれた野郎がいやがる」

「忠告、ありがたく頂いておくよ。俺はローランだ。あんたは?」

「ラッセル。テッド・ラッセル」

 目の前で行われるサイコロ賭博を眺めながらローランは焼いた鳥の足に手を伸ばした。火を通しすぎて肉がパサついている。

「お前はやらねえのか?」

 ラッセルが顎をしゃくった。その先には、出目に一喜一憂して手を叩き、店中に響く声で騒ぎ立てている労働者たちの姿がある。

「ああいうのが好きじゃなくてね」

「そのなりでか」

 出来の悪い冗談だとでも言いたそうにラッセルは鼻で笑った。

「もちろん博打は嫌いじゃない。ただ、他人の用意したサイコロを振るってのが気に食わないのさ。他人に振らせるのも同じだ」

「はっ、まったくだ。自分のタマを自分から握らせるようなもんだからな、そいつは。考えてみりゃ当たり前の話ってやつだが、そこんところを理解してない間抜けがああいう馬鹿をやらかす」

 日の稼ぎを失った男が総取りした胴元に食ってかかり、用心棒に殴り倒される。倒れた男の伸びた腕がテーブルの上に積み上げられた木札の山を掠った。崩れ落ち、散らばる賭け札。そこに他の参加者たちが群がる。主催側がそれを阻止しようと半狂乱で棒切れを振り回し始めた。

「それで、仕事をしたいってことか?」ラッセルが声を潜めて言った。

「ありていに言えば、そういうことになる」

 ローランは頬杖をつきながら目の前の流血沙汰を眺める。四、五人ほどが殴り倒されてから、ようやくラッセルが腰を上げた。

「河岸を変えるぞ」

 よたよたと歩いて給仕のひとりに金を手渡し、店を出る。

 夜風は思いのほか冷たかった。火照った体には気持ちの良いものであるはずだったが、どうにもこの都市に充満する空気自体が淀んでいるように思えてローランは口をもごつかせた。吸い込んだ毒気を体の外に出すように路肩に唾を吐く。

「こっちだ」ラッセルが洟をすすって手招きする。「まあ、あの阿呆どもの気持ちも分かる。自分を早く買い戻したくて気が逸ってるんだろうよ。俺にも覚えがある」

「買い戻す? 奴らは奴隷なのか?」

「似たようなもんだ。大抵は借金のカタだな。そうでなきゃ毎日死ぬような目に遭いながら土を掘り返したりなんかしねえよ。おまけに給金は目玉が飛び出るほど安い。あそこまで使い潰す気満々だといっそ清々しくすらあるぜ。それでむかっ腹が治まるわけじゃねえがな」

 二件目の店には『獅子の鬣』と書かれた看板が出ていた。店の扉を開けると客の声の洪水を全身に浴びた。

「いらっしゃい」

 給仕と思わしき赤毛の娘が二人を出迎える。気の強そうな顔を一瞬だけ強張らせ、やや不自然な、はにかんだような笑顔を浮かべる。

「空いてるところに好きに座ってちょうだい」

 店の中は大いに繁盛しており、さっきの店よりも随分と客層が上品そうに見えた。ここならば落ち着いた話もできそうだ。一階はどこも満員だが、吹き抜けになった二階にはいくつかテーブルに空きが見える。

「上にするか?」

 ラッセルは先ほどの赤毛の給仕の姿を目で追っていた。口元にはいやらしい薄ら笑いを浮かべて。ローランの言葉など聞いていない。ラッセルの肩を叩いて振り向かせる。

「知り合いか?」

「向こうはどうだか知らんが、俺の方はよく知ってるよ。ああ、二階だな?」

 店の隅の螺旋階段を上る。二階は少人数用の卓がそれぞれが衝立で仕切られてあった。そこの壁際を陣取って座る。

「で、いったいどんな仕事を紹介してくれるんだ?」

 ラッセルが上から下へ、右から左へと、値段を見定めるように何度もローランへ視線を走らせる。そのうち椅子の背もたれに倒れかかり、だらしなく出っ張った腹をさすった。

「そう焦るなよ。まずはひと息つこうや」

 それからしばらくは本当に仕事のしの字もなかった。酔ったラッセルが愚痴をこぼすように過去を語る。親に売り飛ばされて鉱夫として連れてこられたこと。労働環境は劣悪で喉がやられたこと。崩落に巻き込まれてすぐ隣で作業をしていた男が跡形もなく潰れたこと。それから一念発起して足抜けをしたこと。

「あんたみたいな人間は多いのか?」

 ローランは酒の注文をしようとして、これから一仕事控えているかもしれないことを考えて思いとどまった。

「腐るほどいる。同じ境遇の人間同士、すぐに意気投合したね。ここは肥溜めで、牛耳ってる連中の頭の中にも糞が詰まってる。さっさと潰れねえか、いやいっそのこと俺たちが掘り返した土砂で土の下に埋めてやろうかってな具合だ。大体はおっちんじまったが、しぶとく生き残ってるやつもいる。そのうちの一人なんか今じゃ都市の重役様だ」

 偉大な友に乾杯。そう声を張り上げ、ラッセルは酒を一気に呷った。喉を蠢かすようにして飲みほし、苦しげな表情で口からげっぷをひねり出す。

「あの野郎、今度会うときは人目の少ない場所にしようなどとぬかしやがった。お高くとまりやがって、くそったれのバルドーめ。淫売の母親が義理の親父をくわえ込んで出来たガキのくせに──」

 独白は続く。ローランはああ、だとか、そうかい、だとか、気のない返事でそれを聞き流していたが、相手はこちらの反応などお構いなしにクソを垂れ流し続ける。

 いい加減うんざりしてきたところで二階に新しい客がやってきた。二人組みの鉱夫。今しがた汚れてきたのだと言わんばかりに泥まみれの風体。

 鉱夫たちは険しい表情でこちらに向かってくる。ラッセルがやかましくしていたせいで因縁でもつけられるのかと身構えそうになったが、彼らはローランたちの横を素通りして別の卓についた。

 そして、通り過ぎる際に片割れがぼそりと呟いた。

 準備ができた。

 ラッセルがよだれを拭き、膝に手をついて立ち上がった。その拍子によろけて倒れそうになる。ローランは脂肪で弛んだ腕を掴んで支えたが、ラッセルはそれを強く振り払う。

「行くぞ」

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