第10話 ジャック 1-3
建物を出たジャックは煉瓦の階段を一歩ずつ下りながら目の前の街路を見下ろして肩を落とす。
自然と、旧友のうらぶれた姿が思い浮かんだ。打ちのめされたような気分だった。寂寥感で息が苦しくなる。
もしかすると──ああなっていたのは自分だったかもしれない。彼と自分との間にどれほどの差があったというのか。お互いに平凡な家庭に生まれた、どこにでもいるような、ありふれた学生だったはずだ。
視界に入る通行人、喧騒が煩わしかった。独りになるために大通りから細い脇道へそれる。
手すりを掴んで坂道を上り、建物の隙間のような路地を異臭をばらまくゴミから目を背けて通り抜ける。濁った水路にかかる橋を渡って、薄暗く狭いトンネルをくぐる。
景色が頭に入ってこない。ジャックはぐちゃぐちゃになった脳を使って、それでも考えた。
仕事を全うする。ベルトランから情報を受け取り、それを切り口にして不正を見つける。悪事を。横領を。薄汚い金を。そして彼を今の環境から救い、家族に安定をもたらす。
ジャックが決心して面を上げると、三人の男たちと目が合った。彼らは道を遮るようにして立っており、何やら視線をこちらの方へ定めてにやついている。ジャックは怪訝に思って振り返ってみたが、背後には誰の姿も無かった。
そこは路地だった。緩やかな勾配をした不揃いの石畳がずっと先まで続く、一見階段のようにすら見える狭苦しい一本道。考え事に集中していたせいで、いつの間にか薄暗く人気のない場所に迷い込んでしまっていた。
状況が飲み込めたジャックは慌てて来た道を引き返そうとしたが、新たに路地に駆け込んできた二人によって後ろを塞がれてしまった。
逃げ道を探す──左右の家壁にはべたべたと張り紙がしてあるだけで窓は見当たらない。家屋と家屋の間には継ぎ目がなく通り抜けられそうな隙間も無い。
どちらに向かうかを一瞬だけ迷い、ジャックは数の少ない方を目掛けて坂を下った。走って勢いをつけ、肩口からぶつかって強行突破を試みる。だが、決死の行動もむなしく、複数人にしがみつかれてあっけなく街路に引き倒された。
顔面が蹴られる。痛みと痺れが眉間を突き抜けた。ジャックは鞄を膝と体の間に挟み込み、背中を丸めて声を張り上げた。
「誰か! 誰か助けてくれ!」
馬乗りになった男から殴られた。硬く大きな拳がジャックの腕越しに顔面へと振るわれる。頭を抱えて頭蓋が街路に打ちつけられないようにするのがジャックにできる精一杯の抵抗だった。
自分の歯で口の中が切れる。腹を殴られて胃液がせり上がってくる。膝を蹴られた痛みでのたうち回る。暴漢の誰かが焦った様子で言った。「おい、エミールだ」
暴力の嵐が止む。暴漢たちが走り去っていく。入れ替わりに誰かが猛然と走ってくる。ジャックではない別の誰かの悲鳴。
痛みに顔をひきつらせながらジャックは少しずつ体を動かした。街路を這って進み、壁に体を押しつけるようにしてなんとか上半身だけ起こす。蹴られた鼻の具合──折れてはいなかったが、しばらく血は止まりそうになかった。鼻血ですっかり上着が赤くなってしまっている。
鼻の下と口元を拭いながら目にした光景は、理解に少し時間を要するものだった。
暴漢が襲われていた。ジャックを取り囲んだうちの一人が、赤い制服を着た男によって、めった打ちにされていた。
制服の男──警官は暴漢の襟首を掴んで壁に叩きつけ、拳を振り下ろした。倒れたところを蹴りつけ、引き起こし、また殴った。逃げ出そうともがいたところを殴った。許しを請おうとしたところを殴った。相手が何かしらの反応をするたびに暴力を振るう。仲間に見捨てられた暴漢は声を出すこともできず、ごぼごぼと自分の血で溺れながらだらりと手足を投げ出して痙攣させる。
「それ以上は……死んでしまうんじゃないか?」
見かねたジャックは思わず声をかける。警官が振り返った。無表情──怒りも興奮も無し。彼は冷たい視線で暴漢とジャックを見比べ、掴んでいたものから手を離した。崩れ落ちる暴漢には目もくれず、ジャックの近くにやってきて上から見下ろす。「手を貸した方がいいか?」
ジャックは痙攣する自分の足を見て言った。「そうしてもらえると助かる」
腕を伸ばす。血塗れの手にがっしりと掴まれ、勢いよく引き上げられた。ジャックは壁と膝に手をついて息を整える。
「歩けるか?」
「大丈夫だ、多分」
ジャックは口の中に溜まった血を痰と一緒に道の端へ吐き捨て、鞄を拾う。
「なら、さっさとここを離れた方がいい」
「そうしたいんだが、その、いいのか? あれはあのままにしておいて」
ジャックがすっかり動かなくなってしまった暴漢を指差すと、赤い制服の男は構わないといった具合に頷いた。
「ここじゃよくある話だ。気にしなくていい」
「君は警官、でいいのだろうか」
「ああ。そういうあんたは余所者だな?」
「今日着いたばかりだ」
「災難というよりは、不用意だな。こんな場所をのこのこ一人で歩くなんぞ、襲ってくれと言っているようなものだ」
「ああ、まったくだ」あまりの情けなさからジャックは溜息をついた。礼がまだだったことを思い出し、頭を下げる。「助けてくれて感謝する。エミール、でよかったか?」
警官の男が注視していなければ分からないほど微かに眉を動かした。
「さっきの連中がそう言っていた」
「そうか。エミール・モースだ」素っ気無い自己紹介。
「ジャック・メルヴィル」
時おり腕を支えてもらいながら、ふらつく足取りでなんとか大通りまで辿り着いた。エミールは手を振り、別れる前に言った。「出来るだけ人通りの多いところを歩け。それと、夜は出歩くな」
道行く人々から血塗れのジャックへ奇異の視線が投げられる。ジャックは鼻を押さえて今晩の宿へと向かった。少し体を休めなければならない。着替えも必要だった。
二人になんと言い繕おうかと考えていると、にわかに通りが騒がしくなってきた。人でごった返している。活気に満ちているのではなく、不穏な空気が漂っている。囁きあう声。翳った表情。ジャックは、すぐ近くにいた男に訊ねた。
「何か、あったんですか?」
男はジャックの有様に面食らった様子だったが、やがておずおずと口を開いた。
「小火騒ぎらしい。少し先だ。カデットっていうホテルで──」
聞き覚えのある名前。滞在中の拠点にするつもりで記帳したホテル。ジャックは血相を変えて人ごみを掻き分けた。立ち上る煙が目に入る。鼻をつく焦げた臭い。
ホテルが見えた。消火作業は終わっているのか火の手は上がっていないが、火災は数部屋を焼き尽くしており五階の北側に面した壁が大きく焼け焦げていた。嫌な汗が体中から噴き出す。ジャックは入り口を塞ぐホテルの従業員を捕まえて振り向かせた。
「522号室に宿泊の予約を入れているメルヴィルだが、状況を聞かせてもらっても?」
ジャックの格好と剣幕に従業員があとずさりしたが、すぐに平静を取り戻し、努めて落ち着いた声で言った。「申し訳ございません、お部屋のほうですが、全焼してしまいました。それから──」
「一緒の部屋に泊まる予定だった二人がいるのだが、彼らは──」
従業員は落ち着かせるように身を乗り出したジャックの両肩に手を置いた。「それから、お連れ様ですが、火災が発生する直前に部屋に入った給仕によりますと、ちょうど部屋でお休み中だったとのことです。確かなことは警察と消防の調査を待たなければなりませんが、消火にあたった隊員の話では、部屋からは二つの焼死体が見つかったと伺っております。このようなことになってしまい──」
周りの音が遠ざかっていく。目の前の何もかもが、自分とはまったく関わりのないどこか遠く離れた場所の出来事のように色を失っていく。
ここに至ってジャックもようやく気が付いた。今日の一連の災難が単なる不幸ではないことに。
抵抗は予想していた。それでも、情報を出し渋るか、隠匿するか、その程度だと高をくくっていた。
ここまでやるか。
ジャックはなおも謝罪を続ける従業員に背を向け、集まった野次馬連中を押し退けて突き進んだ。胸を掻き毟って自分がそこにいることを確かめる。意識を現実に引きとめる。不思議と、不安や恐怖は無かった。清々しいものさえ感じる。相手に手控える気は見られない──なら、こちらも相応のやり方でやってやる。
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