第32話 私からのエピローグ
隣で寝ているお兄ちゃんを起こさないように私はそっとベッドから起きる。
大学を卒業した私は今日から社会人だ。この日、入社式である。それでもお兄ちゃんと添い遂げているわけだから、実家住まいの私はお母さんと一緒に家事もこなさなくてはならない。だからお兄ちゃんより早起きだ。
しかし裸で気持ち良さそうに寝ているお兄ちゃんが憎たらしい。1人しか経験はないけどさすがに私でもわかる。この人の性欲は正に猿かと思うほど旺盛だ。入社式だと言っているのに昨晩もなかなか寝かせてくれず、股関節が痛い。
まぁ、いい。私は大好きなお兄ちゃんのために張り切って朝ごはんを作ろう。私も裸だったので下着を着けてシャツを着て、パンツスーツを穿いた。
1階に下りて洗面所で顔を洗うと、一体となったLDKのキッチンに身を寄せた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう」
お母さんと朝の挨拶を交わして私はエプロンを着ける。せっかくのスーツを汚したら門出の日が台無しだ。
因みにスーツがスカートでない理由はお兄ちゃんにある。他の男から厭らしい目で見られるのは我慢ならないからだとか。
学生時代は私の方が鬱陶しいほど構っていたのに、今ではお兄ちゃんが何かと口うるさい。鬱陶しいとは思うけどそれはお兄ちゃんの独占欲だし、とにかく私を大事にしてくれるから嫌な気はしない。
「どう? 亜澄」
「うん、美味しい」
お母さんから渡された小皿でお味噌汁の味見をしてみるととても美味しかった。お母さんと一緒に料理をする私だからその腕は日々上がっている自負がある。しかしまだお母さんの味には到底及ばない。まだまだ修行が足りないようだ。
朝食ができると次はお兄ちゃんを起こす作業である。これがまた骨が折れる。お兄ちゃんはなかなか起きないのだ。
私たちの関係に恋人という肩書が加わる前は、私が色んなことをしてお兄ちゃんがバッと起きた。今にして思えばわかるが、当時童貞のお兄ちゃんには刺激が強かったのだろう。しかし今はそれも慣れてしまってなかなか効果を発揮しない。
とりあえず寝室に戻った私はお兄ちゃんのスマートフォンと寝室にあるパソコンをチェックする。うん、今日も問題なし。もう何年にも及ぶ日課だ。そしてその日課は他にもあって続く。
私はベッドに膝から上がってお兄ちゃんの寝顔を覗き込んだ。ヤバい、やっぱり可愛いや。こればかりはいつ見ても、何年見てきても飽きることはなく、胸が締め付けられる。この時こそ私はお兄ちゃんのことが大好きだと思える瞬間だ。
そして日課に続くのがお兄ちゃんを起こす作業。これに移行しようとすると私の気は重くなる。
「お兄ちゃん、起きて?」
「んん……」
「朝だよ?」
「んん……」
お兄ちゃんは頭から掛け布団を被って顔を隠してしまった。まったく憎たらしい。私は股関節が痛い中、朝ごはんを作って痛みの原因を作ったお兄ちゃんを起こしに来ているというのに。
「お兄ちゃん! 仕事遅れるよ?」
「……」
強く言ったのにとうとう返事もしなくなった。ムカつくぜ。私は一度ベッドから離れて助走を取ると、勢い良くベッドに舞い戻った。そう、読んで字の如く舞った。
「ていっ!」
「ぐはっ!」
「うぅ……」
お兄ちゃんは悶絶して体がくノ字に折れた。その時の反動で上体が起きかけたが、すぐに後頭部が枕に収まる。しかし目は開けた。一方私は、やはり股関節が痛くて唸る。しかしそれでも表情を整えた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう。……って言うか、もっと普通の起こし方をしろよ? 俺の鳩尾にダイブする必要までないだろ?」
「その必要性を感じるほどお兄ちゃんが起きなかったのが悪い」
「……」
返す言葉もないようだ。ふふふ、お兄ちゃんが選んだパンツスーツが裏目に出たね。これがスカートだったらお兄ちゃんを跨げないから無理だったよ。むしろ無理してやっていたら、両ひざが鳩尾に食い込むからこのくらいでは済まない。
この後お兄ちゃんはのそのそと起きて、顔を洗って食卓に着いた。私の正面には私の両親だ。
「はい、あなた、あ~ん」
「あ~ん。美味い!」
「うふふ。そのだし巻き卵、亜澄が味付けしたのよ?」
「ほう! また腕を上げたな、亜澄」
「えっへん!」
私は豊かな胸を張って得意げになった。そして手元のだし巻き卵を箸で一口大に切るとお兄ちゃんに向ける。
「はい、お兄ちゃん、あ~ん」
「あ~ん。あ、本当だ。美味い」
「ドヤッ!」
お兄ちゃんに褒められるとやっぱり一番嬉しい。この喜びが欲しくて私はお兄ちゃんに尽くしてしまう。それこそベッドの上でも、あんなことやこんなことを求められても、恥ずかしいけど応じちゃう。
そんな毎朝の楽しい食事はやがて終えて、私はお兄ちゃんと一緒に家を出た。
私もお兄ちゃんも市内で就職を決めて、お互いに市バスと地下鉄で通勤だ。私はこの日が最初の出社であるが、これからはお兄ちゃんとこうして途中まで一緒に通勤できるのかと思うと心が弾む。
しかし通勤時間帯の地下鉄は満員だ。学生時代は1限目からの授業でもこれほどではなかった。正にすし詰めである。するとお兄ちゃんが私の肩を抱き寄せた。
キュン。
なんだよ、もう。そういうのはいつまで経ってもキュンキュンするから。お兄ちゃんに抱かれながら私は満員電車の中で守られている。お兄ちゃんの大きな胸が温かい。
「そうだ、亜澄?」
「ん?」
お兄ちゃんが思い出したように呼ぶので、私はお兄ちゃんの胸に頬ずりをしながら少しだけ顔を上げた。密着状態なのでお兄ちゃんの顔は見えないし、化粧をお兄ちゃんのシャツやネクタイに付着させてしまったかと心配になるが後の祭りだ。
「今度の休みはどこに行くんだ?」
お兄ちゃんには今度のお休みを私のために空けておくように言ってある。つまりデートだが、内容を言っていなかったのでそれ故の疑問だ。
「えへへ。間々観音」
「間々観音?」
「うん」
「なんの用事? って言うか、願掛け?」
「それは着いてからのお楽しみ」
乳神様には高校生の時にもう来るなと言われたけど、私はそのお言葉に背いてでも行きたい理由がある。お兄ちゃんはそれ以上何も聞いてこなかったけど、解せてはいないのだろう。
そんなこんなで週末を迎え、私たちはお兄ちゃんの車でデートをした。社会人になってからお兄ちゃんが自分で買った自家用車だ。
私も就職のために免許は取ったが、今のところ車の必要性を感じていないのでペーパードライバーだ。お兄ちゃんが運転してくれるので事足りる。
久しぶりに来る間々観音はカップルが他に2組いた。桜が散り始めるこの季節はまだ薄着とは言えず、女の子の方のスタイルがはっきりわかるわけではない。それでもその胸は乏しいのかなと思わせるくらい膨らんでいない。
久しぶりではあるが私たち兄妹は順路に迷うこともなかった。それくらい境内が狭いお寺だ。そして最後にやって来るのは階段を上がって靴を脱いで参拝する本堂。
私は手に2冊のラノベを持っている。どちらも趣向が違うラブコメだ。お互いにお賽銭を投げるとお兄ちゃんが鈴緒を握って鈴を鳴らし、私たちは合掌した。私の場合はラノベを挟んでの合掌だ。そして目を閉じるが、私がもうトリップすることはない。
「「この先の将来、いつかは元気で健康な子供が欲しいです」」
すると私たち兄妹の声は重なった。お互いに驚いて合掌を解くと顔を見合わせる。なんだかそれがおかしくて、私たちは笑った。
「同じお願いかよ」
「えへへ。
「だな」
「そうだ! お兄ちゃん!」
「ん?」
「大宮女大神様にも会いに行こう?」
「うん、まぁ、今日の予定は亜澄に任せてるからいいけど」
「今日はね、三光稲荷神社や犬山城の近くで犬山祭もやってるの」
「へー」
「山車の上でからくり人形が芸を披露するんだよ?」
「面白そうだな」
そんなことを話しながら私たちは手を繋いで本堂を後にした。
「ほっほっほ」
すると背後で乳神様の笑い声が聞こえたような気がした。私が振り返えると弱い風が吹いて髪を靡かせ、髪と一緒にその風が私の頬を撫でる。
「気のせいか」
「ん? なに?」
「なんでもない」
今まで乳神様のお言葉は脳に直接語り掛けるような感じだったもんね。
乳神様、本当にありがとうございます。私はお兄ちゃんと家族として今までどおり、そして今では恋人としても仲良くやってます。
―完―
乳神様に願いをこめて 生島いつつ @growth-5
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