乳神様に願いをこめて

生島いつつ

第一章

第1話 妹に起こされた休日

 大学生になった。春休み中に車の免許も取った。俺は青春を謳歌したい。そして童貞を卒業するのだ。――と、そんな願望を唱えてみる。口に出しては言えないが。そう、恥ずかしいから口に出しては言えない。あくまで心の中で念仏のように唱えるだけだ。


 ――童貞卒業、童貞卒業、童貞卒業……以下、繰り返し。


「お兄ちゃん! 起きた?」

「はぁ……」


 ため息が漏れる。俺、倉町芳規くらまち・よしきを起こしに我がプライベートルームに入って来たのは、妹の亜澄あすみ。俺の唯一の兄妹で高校2年生。ノックをしないのなんていつものことだ。


「なんだよ? 亜澄」


 むくっとベッドから上体を起こす。肩まで包んでいた掛け布団は、重力に倣って腰まで落ちた。窓から春の陽気が心地よく差し込むこの日は4月中旬の日曜日で、寝覚めはなかなか辛い。と言っても既に起きてはいたので、ベッドの中でグダグダしていただけだが。


「もう10時だよ!」


 亜澄は部屋のドアの前で腕を組み、ぷくっと頬を膨らませている。ニーハイミニスカートから伸びる脚は細く、薄手のカーディガンのインナーに着ているシャツからはその細身が顕著に表れている。

 ツインテールと言うには物足りない低い位置で髪を2つ縛りにしており、透き通るような白い肌が髪に隠れることはない。薄い唇がプルンとして見えるのは、グロスを塗っているからだろう。つまりおめかしをしている。

 しかし長いまつ毛と大きな瞳に化粧っ気は感じられないので、これも美少女と言われる1つの所以だろう。


 ただ美少女と言うのは客観的意見である。あくまで妹。実の妹だ。俺の親は離婚歴もない親だから、再婚によってできた血の繋がらない妹ではない。がっつり血は繋がっている。

 だから亜澄が美少女であることなど、周囲からの評価を集計したうえで客観的に判断しているに過ぎない。顔立ちは整っていると思うし、妹として可愛がっている自負はあるが、萌えキュンなどはしたことがない。


「今日は映画を観に行く約束でしょ?」


 仁王立ち。亜澄は正にそんな佇まいだ。しかし恐らく俺の友達や亜澄に寄りつく男どもからしたら、それすらも麗しいなどと言うのだろう。寝起きの今の俺にとっては面倒くさくて煩わしい以外の何ものでもない。


「映画?」


 俺はまだ覚醒し切らない脳内で思考してみる。そんな約束したか? 昨晩は遅くまで愛用の動画サイトでAV鑑賞をしていた。そのため寝不足だ。

 それにしても昨晩ストリーミング視聴した女優さんは形の綺麗な巨乳で、当たりだった。因みに小遣いがなくなるからダウンロード視聴ではなく、ストリーミング視聴。――とまぁ、眠い俺はそんな明後日の方向に思考が向いて、亜澄との会話に集中できていない。


「もうっ! また忘れてる! ほら、早く準備して!」

「うわっ……っとっと!」


 無理やり腕を引っ張られて、スウェット姿の俺は呆気なくベッドから床に着地した。


「……」

「……」


 しかし、立ち上がった俺を前に亜澄の動きが止まる。いきなりなんだよ? 顔を真っ赤にして俯いて。俺も咄嗟に言葉は浮かばない。

 すると亜澄がプイッと顔を背けた。亜澄の手は俺の腕を掴んだままだ。その前は顔を俯けるように視線が下がっていた。そう、俺の下半身を見ていた。


「あ……」

「早く行くよ!」


 スウェットのズボンが形を変えていたことに気づいて、気まずい思いをしたのは俺だ。もとより亜澄はそれ以前から気まずさを感じていたということになるが。まぁ、朝なんだから仕方がない。18歳は元気なんだよ。

 そう心の中で言い訳をしていると俺は亜澄に腕を抱えられるまま部屋を出て、階段を下りた。しかし寂しい我が妹の胸だ。多少の柔らかさを感じたのは、ブラジャーのパットのおかげかな? そんなことを考えていると洗面所まで到着した。


「早く顔を洗って」

「そんな急かすなよ」


 なんて言ってみるが、そもそもなんで俺は亜澄に引っ張られているのだ? あぁ、映画を観に行くんだっけ? まったく……せっかくの休日なのに、なにが嬉しくて妹と映画に行くために早起きをしなくてはならんのだ。

 亜澄は洗顔中も俺に付き添い、やがて2人でダイニングまで移動する。すると一体となったリビングのソファーでは両親が寛いでいた。


「おお! そこそこ!」

「わっ! 大きいの取れたわよ、あなた」


 オカンの膝枕に頭を預けた親父は、耳掃除をしてもらっていた。歳を取っても仲がいいことで。


「あ、亜澄、芳規。ご飯用意するわね」


 俺たち兄妹の入室に気づいてオカンがそう言うので、親父がむくっと体を起こした。片方だけ親父の耳が赤いのは、今までの膝枕で下になっていた方の耳だからだろう。


「いいよ、お母さん。私がやる」

「あら、ありがとう」


 亜澄の言葉に一度腰を浮かせたオカンは、再びソファーに腰を戻した。亜澄は対面式のキッチンに身を入れ、鼻歌交じりに俺たちの分の朝食の用意を始めた。ご機嫌だ。亜澄も朝ごはんはまだだったようだ。

 亜澄は日頃から何かと俺の世話を焼きたがるので、朝食の準備をするその手際はいい。オカンの炊事も積極的に手伝うが、そもそもこの日は既におかずができていたようで、手間がないようだった。


 やがて朝食がテーブルに並べられて俺と亜澄は食事を始めた。


「いただきます」

「いただきます」


 俺たちは揃って手を合わせた。一緒に食事を取ることが多い俺たち兄妹だが、「いただきます」の発声まで同時にしないと亜澄が怒る。なぜだ?

 それに食後、席を離れるタイミングも一緒でないと亜澄が怒る。だから食事が終わってからも俺は、亜澄の食事が終わるのを待たなくてはならない。なぜだ?


「亜澄、今日はおめかしして、お出かけ?」


 味噌汁のお椀を口に運んでいると、オカンが質問を向けてきた。横目に見える亜澄も俺と同じ動作をしていたようだが、お椀を置くと答えた。


「うん。お兄ちゃんと映画を観に行くの」

「まぁ、相変わらず仲がいいのね」

「えへへん。デート、デート」


 ほんの少しだけ吹きそうになった。兄妹間でデートは成り立つのか? そもそも俺にはデートの経験がないのでよくわからん。しかしいざ外に出て傍から見れば兄妹だとわからないだろうから、確かにデートには見えるのだろう。


「きゃんっ!」


 するとリビングからオカンのキモイ――もとい。可愛らしさを装った声が聞こえてくる。眼球だけ動かしてチラッと見てみる。


 なにやってんだ? あいつは……。


「芳規と亜澄がデートだから気兼ねなくイチャイチャしような?」

「やんっ! あなたったら」

「ちゅぅぅぅぅぅ」

「んちゅっ」


 朝から見せつけてくれる。親父がオカンに抱き着いて、互いに唇を接触させていた。どこが気兼ねなくだ。いつも目の前で気兼ねなどしていないくせに。いい歳こいて恥ずかしいから、年頃の子供の前で止めてくれ。生々しくて正直キモイとさえ思う。


「うふふ。いつまでも仲良くていいな」


 しかし俺の思考とは裏腹に、同じ親を持つ妹は微笑ましく笑って食事を進めるのだ。なぜ?


 そして一緒に食事を終えると俺は再び自分の部屋に引っ張られる。もちろん引っ張るのは亜澄だ。


「さ、これと、これと、これに着替えて」


 亜澄は慣れた様子で俺のタンスから衣類を出してはベッドに投げ、更にクローゼットからジャケットを取り出す。


「わっ! ちょっ!」


 そして俺のスウェットを脱がしにかかる。


「大人しくして!」


 ちょっと亜澄の口調が強くなったので俺は口を噤んだ。こいつ、怒らせるとマジで厄介だから。すると、あれよあれよという間に俺はパンツ1枚にされた。

 さっきはテントを張ったスウェットを見て気まずそうにしていたくせに、今や何の恥じらいもない亜澄。確かに今は愚息が落ち着いているから俺にとっても気まずさはないが、それはやはり妹でも同じ基準なんだろうか?


 そして今度は服を着せられていく。カラーパンツにVネックのシャツにジャケット。靴下までしっかり亜澄がお世話をした。そもそもよく買い物に駆り出されては、亜澄が俺の服を全て見繕っている。つまり今着ている服も亜澄が選んだものだ。


「さ、行くよ?」

「ちょっと待って。スマホ」

「早くぅ」


 俺はベッドの枕棚に置いてあったスマートフォンを手に取り、電源を入れてみる。特段メッセージなどはポップアップされておらず、相変わらず寂しいなとしょんぼりした。

 そんな感情を押し込むようにポケットにスマートフォンを突っ込んで、俺は亜澄と一緒に外出した。

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