第22話 私は真実を知る

 私は最近の生活で当たり前となった朝食作りを経てお父さんを仕事に見送る。私の食事はまだなので、それから食卓に着いた。隣の席はお兄ちゃんだ。


「亜澄、まだ着替えないのか?」

「……」


 私は1つだけ最近の生活ではイレギュラーなことをしている。実はまだ身支度を整えておらず、寝間着のままだ。しかし私はお兄ちゃんの問い掛けに答えず、ズズッとお味噌汁を啜る。


「はぁ……」


 お兄ちゃんのため息が片耳に届く。ふんっ! 口なんて利いてあげないんだから!


 私は昨晩、お兄ちゃんと喧嘩をした。乳神様の試練の内容は一向にわからずご利益もないまま。これに焦る。そしてお兄ちゃんのコソコソした行動。くそぅ、絶対女に決まっている。ちくしょう、突き止めてやる。


 ただ1つだけマシになったこともある。宮間君のことだ。尤も彼の付き纏い行為自体は何も改善がないが、奈央の協力によって2人きりということは極端に少なくなった。だから奈央がいる限り穏やかでいられる。

 しかしそれはお兄ちゃんに誤解を与えてしまった。私が男の子と一緒にいることを楽しんでいると思ったのだ。あくまでそれは奈央がいてくれるから時々笑ったりもできるという話なのに、自分は女に現を抜かしておいてよく言う。


 お兄ちゃんは今日、1限目から授業がある。だから朝食を食べ終わると自室に入って、身支度を始めた。そのタイミングで私も着替える。しかし私服だ。学校をサボるのなんて高校生になってからは初めてだ。

 そしてお兄ちゃんが家を出るタイミングで私も家を出た。昨日の悪天候とは打って変わって今日は日が出ている。このまま梅雨明けしてくれればいいが。洗濯物が乾かなくて困るのだ。


「亜澄?」

「……」


 無視。


「なんで私服なんだ?」

「……」


 無視。目も合わせない。家の前には最近では毎日いる宮間君の姿もない。奈央にはサボる旨を予め連絡しておいたので、奈央が直接伝えてくれた。

 ただ奈央は、カレシがいる女子だから宮間君と2人だけでの登校はしない。目の届くところで宮間君を確認しながら、彼が私の家から離れたことをラインで伝えてくれていた。


「はぁ……」


 またもお兄ちゃんはため息を吐く。そんなお兄ちゃんに構うことなく、私はお兄ちゃんの斜め後ろをついて歩いた。


 やがて市バスに乗って地下鉄を乗り継いで到着したのはお兄ちゃんの大学。どうやらため息の理由は私の行動が予期できていたからのようで、お兄ちゃんは特に私に何も言うことなくキャンパスの中を進んで行った。


「ふぅ……」


 1つ息を吐く。さて、これからどうしようか? さすがにキャンパスまでは入れない。ただこの朝に限って言えば、お兄ちゃんに女の影がなかったことは確認できた。今日のお兄ちゃんの授業はお昼の最初まであるから、ここで待つのも退屈だ。


「どうしたの? 行かないの?」


 すると私は声をかけられた。振り向くとそこには若い男の人が立っていた。それほど派手ではない風貌やこの場所を理由に、お兄ちゃんと同じ大学の学生だと予想できる。私服の私が大学生に見えているようだ。


「ん? 若く見えるけど、まさか高校生?」


 すると首を傾げる男の人。私は年相応か実年齢より若く見えるので、私服でも高校生だと思い直してくれたようだ。


「学校サボり? それなら俺もサボるから、今からカラオケ行かね?」


 うげぇ……、ナンパだ。お兄ちゃんに視線を戻すと、お兄ちゃんの背中はもう随分と小さくなっていた。助けも呼べない。そもそもお兄ちゃんと口を利く気がない。それでもナンパに付き合う気は更々ないので私は踵を返した。


「え? ちょ!」


 私は男の人の慌てた言葉に振り返ることもなく、猛然とダッシュをした。すると感じる揺れ。今まではなかった胸の上下運動。これにちょっと感動する自分がいる。


 私は地下鉄の階段を走り抜ける。そして地下の券売機の前まで来ると何も目的がないことを思い出した。さて、これからどうしようか。とにかくお兄ちゃんの授業が終わるまでは暇だ。

 私はIC乗車券をタッチして改札口を抜けた。とりあえず当てもなく地下鉄に乗って到着したのは栄。そこでスマートフォンをいじる。すると名鉄バスが栄のオアシス21から間々観音前まで出ていることをインターネットで知った。

 その後の乳神様との交流がなくて、ご利益を得ていない不安から私は乳神様に会いたくなった。それで間々観音に行くことを決意した。


 間々観音までは40分ほどの道のりだった。自家用車だと自宅から栄までも数十分の距離だからあまり変わらないようだ。間々観音前というバス停に到着してからは歩いて10分ほどだった。そこで私は久しぶりに順路を廻り、本堂でお参りをした。


 乳神様。会いたいよ。出てきて。


 しかしこの日は無情にも私がトリップすることはなかった。落胆が全身を襲う。奔放な御方だから私と会う気分ではないのだろうか? それとも私のように学校をサボった貧乳のお寝坊さんの夢の中に出向いているのだろうか?

 私は靴を履くと肩を落として階段を下りた。屋根の下から空の下に出るところで大きく一息吐く。ため息にも聞こえるような動作だった。それから私は空の下に出た。すると視界の端が絵馬掛所を捉えた。


「増えてるのかな……?」


 私のように貧乳をコンプレックスに思う女の子の願掛けは増えているだろうか? 尤も今や貧乳とは言えなくなった私だが、それでも豊かなボリュームでもない。私の希望はまだ先にある。

 私は絵馬掛所の前に立ち、絵馬を1つ1つ捲って眺めた。


「ふふ」


 やっぱり貧乳に悩める女の子の、どのくらいのサイズを希望するかの絵馬がある。私も書いたな。ただ私の場合はサイズを明記せず、巨乳と書いただけだが。それでもお兄ちゃんが最低限求めているEカップはほしい。あと2サイズ。


 そうして絵馬を捲っていると私が書いた絵馬にたどり着いた。ゴールデンウィークが始まってすぐにお兄ちゃんと一緒に来たことを思い出し、懐かしくなる。目を細めてその絵馬を見ていた。

 すると視界に入る見慣れた字。お世辞にも上手いとは言えない不器用な字。そして見慣れた大好きな人の名前。私と同じ苗字。大きく私の心臓が脈打った。私の絵馬の隣に掛けてあるのだから否応なしにそれは私の目が認識する。


 そして緊張が増す。心臓が暴れる。彼が豊胸をお願いするわけがない。可能性の話なら誰かの豊胸をお願いすることも考えられる。それこそ今私が疑っている女の影とか。

 しかし見慣れない単語も一緒に目に入ったのでそれはない。それどころかその単語は彼から女の影さえもはっきり否定させるほどのものだった。それなのにその単語は私に恐怖を与える。


『乳癌』


 見慣れた私の大好きなお兄ちゃんの字で書かれた見慣れない単語。私は震える手でその絵馬を掴んだ。そして文章としてその文字の羅列を認識すると、それを読み終わって意味を理解した。途端に私の視界は真っ暗になった。


『オカンの乳癌が治りますように。○○年5月○○日。倉町芳規』


 私は力なくその場にへたり込んだ。絵馬から手も放してしまった。


 オカン? オカンってお兄ちゃんのオカン? と言うことは私のお母さん? お母さんが乳癌なの? 血液数値の異常じゃないの?

 混乱する頭を必死で稼働させるが、混乱はより増すばかりだ。何も処理しきれない。大好きなお母さんが癌。だからお兄ちゃんは乳神様に縋ってこの場所に来ていた? なんとかそれだけを理解すると私は昨晩のことをひどく後悔した。


 お兄ちゃんのコソコソした行動はこのためだ。絵馬はぱっと見た感じ1枚しかないが、恐らくお兄ちゃんはお母さんの乳癌の完治を願って、何度もここにお参りに来たんだ。

 それと同時に私はとても悲しくなった。なんで私は知らなかった? なんで誰も知らせてくれなかった? お兄ちゃんが知っているのにお父さんが知らないはずはない。なんで私だけ……。


 そんな中、私は自分の豊胸ばかりを願って能天気だった。恥ずかしい。なんで自分はこんなに情けないんだ。惨めだ。本当にお母さんが乳癌なら、私だってお兄ちゃんと同じように完治を願いたい。それなのにこんな時に限って乳神様は出てきてくれない。なんで?

 私は膝をついたまま、両手で顔を覆って泣いた。

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