第23話 俺は嫉妬する
この日の授業を終えるとキャンパスの外には亜澄が立っていた。やっぱりかと思う反面、亜澄から怒りが感じられない。眉尻を垂らしていて、そっぽを向くこともなく真っ直ぐ俺を見ていた。
「うぐっ……、お兄ちゃん……」
「え? え? どうした?」
突然始まった亜澄の嗚咽に俺は慌てて亜澄に駆け寄った。
「うおっ!」
「うえーん!」
すると亜澄は勢いよく俺に抱き着いてきた。咄嗟に亜澄を受け止めたはいいが焦る。どうした? 目立つんだが? 周囲の学生の視線が痛い。しかしそんな思考は亜澄の次の言葉で吹き飛ぶ。
「お母さん、お母さん……、癌なの?」
泣きながら俺の胸で問い掛ける亜澄の質問を耳にして、俺は頭が真っ白になった。とうとう亜澄が知ってしまった。しかしなぜ?
「間々観音に、お兄ちゃんの……絵馬」
「亜澄……」
亜澄を受け止めていた俺は腕に力を入れて強く亜澄を抱きしめた。もうこの時は周囲の目など気にしていなかった。俺の絵馬を見て亜澄は知ったのか。
「黙っててごめん」
「うぐっ、うぐっ……」
俺は亜澄が泣き止むまで亜澄を抱きしめ、時々頭を撫で、するとしばらくして亜澄が落ち着いた。俺たちはそのまま手を繋いで歩き出し、地下鉄の階段を下りると電車に乗った。しかし帰路に就いたわけではない。道中、俺は自分の知ることを話した。
「だからオカンが亜澄に黙っててほしいって言ったのは、オカンの亜澄に対する気持ちなんだ」
「うぐっ、うぐっ……」
ただ説明を始めた途中から亜澄はまたむせび泣き、俺は亜澄の肩を抱き寄せて擦った。長い黒髪は亜澄の頬に貼り付いており、せっかくの整った美貌は泣き顔だ。車内でも周囲の注目を集めるが、さすがに事情が事情だけに気にしてはいられない。
「わかってくれるか?」
できるだけ意識して優しく言うと、両手を顔に当てた亜澄は頷いた。それを確認して俺に安堵が広がる。
「だからオカンのことは責めずに、これからもサポートしてくれるか?」
「もちろん……」
か細い小さな声ではあったが、しっかりと亜澄の返事は俺の耳に届いた。
そして俺たちはオカンが入院する病院に到着した。目的地はここである。その病棟でオカンの病室に顔を出すと、退屈そうにしていたオカンが俺たちを捉えて目を見開く。
「どうしたの? しかも亜澄、私服じゃない?」
本来なら亜澄はまだ学校の時間帯だ。更には目を腫らした亜澄の表情にも気づいているだろう。俺は心苦しくもオカンに言った。
「ごめん。亜澄も知っちゃった」
「そっか……」
言葉とは裏腹に落胆は示さず、オカンは優しい表情を浮かべた。――と同時に亜澄がオカンに駆け寄り、オカンの膝に突っ伏してワンワン泣いた。
「お母さん! お母さん! 癌なの?」
「うん。黙っててごめんね」
オカンは亜澄の頭を撫でながら優しく答えた。そんな2人の様子が悲しく、痛々しくて見ていられない。
「けどね、早期発見できたから完治するようにお母さんは頑張るからね」
「治るの? お母さんの病気は治るの?」
「そうよ。そのために頑張ってる」
亜澄を安心させたいのだろう。病状については俺も聞いている内容だ。
しかし俺は気づいてしまった。前回の日曜日、オカンのお見舞いをしてから5日ぶりの再会だ。ほんの少しだけだがオカンの頭髪が薄く変化したように思う。知識の薄い俺でも、それは薬物治療の副作用だと容易にわかった。
やっぱりオカンは俺たち兄妹を安心させるために嘘を言っているのだろうか? いや、嘘ではないのかもしれない。ただ、治療が過酷なことを隠しているとか? 俺からは色々な疑念が拭えない。
この後しばらく病室にいてから、俺は亜澄の手を握って帰路に就いた。この日だけは積極的に俺から亜澄の手を取った。亜澄は力なくも俺の手を握り返していた。オカンと会って直接話をして、少しは安心したのだろう。そんな表情だった。
「お兄ちゃん、今日はバイトだよね?」
市バスの停留所から自宅に歩くまでの間に亜澄が問い掛けてくる。自宅はもうすぐそこだ。
「うん。金曜日だから休み取れなくて。ごめんな。親父が帰って来るまで1人にさせちゃうけど」
「ううん。むしろ昨日は私こそごめん。お兄ちゃんの気も知らずに」
「いや、黙ってた俺にも原因はあるから」
俺たちは仲直りをした。たった1日の喧嘩ではあったが、とても長い間息が詰まった思いだった。けどそれももう晴れやかな気分に変わった。
「バイト前にご飯食べて行く?」
「そうしようかな。て言うか、今日は俺が用意するよ」
「え?」
「って言っても総菜くらいしか用意できないけど。だから亜澄は家で休んでろよ」
そう言ったところで家の前まで到着した。亜澄は俺の手を握りながら俺の正面に立ち、きょとんとした。
「今から買い物に行ってくるから待っててくれるか?」
空いた方の手で亜澄の頭を撫でると、亜澄がはにかんだ。久しぶりに亜澄の笑顔を見て心が温かくなる。
「うん」
亜澄が承諾したので俺たちは手を離し、俺はスーパーへ向かった。
買い物自体はそれほど時間がかからず、30分ほどで俺は自宅近くまで帰って来た。しかし最後の角を折れて、自宅が見えたところで俺は歩を止めた。一気に動揺する。なんと玄関先に宮間君がいたのだ。
亜澄もいる。距離が遠くて会話の内容は聞こえない。日が沈みかけていて、表情も今一把握できない。何を話しているのだろうか? 俺は角に身を隠して様子を窺った。
するとなんと、宮間君は俺の家に入った。なんで? もちろん入れたのは亜澄だ。他に人はいない。俺は全身の血が沸き立つような、どす黒い何かが腹に溜まるのを感じた。
あぁ、これが嫉妬か。
可愛い妹に男が近づいてそれで俺は嫉妬をしていたのだ。だから最近面白くないと思っていたのだ。俺はその感情を認識した。
しかしなぜ亜澄は家に入れた? 当初は邪険にしていたのに、亜澄は自分で玄関ドアを開け、宮間君が入室するのを促した。ドアを押さえて宮間君が脇を通るのを阻害しなかったから、促したように見えた。
これはショックである。妹が男を家に入れた事実は俺を打ちのめした。
今までずっと妹の兄離れを願っていたはずなのに、実際に男が現れたら現れたで気に病む。なにを今更調子のいいことを考えているのだろう。自分が滑稽で情けなく、そして惨めで狭量だと思う。
「はぁ……、俺もなんだかんだ言ってシスコンなのかな」
自虐的に笑ってみる。そして亜澄は妹なんだから、亜澄の異性関係に口を出すのは違うのだと自分に言い聞かせる。そうして暴れる心臓を無理やり落ち着かせた。そして俺は再び歩を進め、そっと自宅に入った。
リビングに亜澄と宮間君はいなかった。と言うことは亜澄の部屋か。俺は天井を見上げてそんなことを思う。そして買い物袋をダイニングテーブルに置いた。
「亜澄、ご飯どうするんだろ?」
いつもは一緒に食べているが、亜澄の都合で一緒にならないのは極端に少ない。しかしいつまでも食べ始めないと俺のアルバイトにも関わる。亜澄がこの場にいないだけで、食事を躊躇する自分がいた。
そしてやはり2階が気になる。
『とにかく気をつけて見てやれよ?』
嫉妬に加えてシゲから言われた言葉も脳内で反復する。
俺は忍び足でリビングを出ると階段を上がった。亜澄は今まで堂々と俺を束縛してきたのに、俺は随分小心だなと自分を卑下した。これほど自己嫌悪に陥るのも本日何度目だろうか? どんどん自分が嫌いになっていく。
それでも今まで亜澄はそんな様子も見せず、自信を持って俺に構ってきたのだから尊敬すらもする。しかしそうして亜澄から構われるのも、亜澄にカレシができたらないのかなと寂しく思った。
そんな思いを抱きながらも俺の動きは止まらず、亜澄の部屋の前まで来るとドアに耳を当てた。すると中にいる2人の声が聞こえてきた。そして俺は2人の会話に衝撃を受ける。
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