第21話 俺の心労
アルバイトもない6月中旬の平日のこの日、俺は大学が終わってから電車に乗った。行先は間々観音だ。
初めて1人で間々観音に行った日は予測が甘く、車を一度自宅に置きに行ったら午前の授業に間に合わなかった。それを反省して電車とバスを乗り継いでの移動に切り替えた。
私鉄の車窓から見える空は厚い雲がかかっていて、小雨が降っている。梅雨明けとはまだいかず、憂鬱な気分に空模様が拍車をかける。オカンは元気な表情を見せているが、やはり心配は拭えない。扉付近に立つ俺の傘を握る手は力んでいた。
そして気分が憂鬱になる理由はもう1つある。亜澄のことだ。
オカンが入院してから亜澄の献身的な姿には感服する。感謝もしている。しかし期待をしていたはずの宮間君の存在がどうしても面白くない。なぜこんな感情になるのか自分でもよくわからず、モヤモヤしている自分に戸惑うばかりだ。
当初こそ宮間君を鬱陶しそうにしていた亜澄だが、彼が迎えに来た2回目の朝からは奈央ちゃんも加わった。それ以降、亜澄は機嫌が悪くはなく――いいとも言えないが――仲のいい高校生3人組のグループだという印象を抱かせる。
奈央ちゃんが加わったからなのか、はたまたもう宮間君を邪険にする意思がないのか、それはわからない。
ただ奈央ちゃんは俺の友人と付き合っているわけだから、あの3人組は亜澄と宮間君が特別な関係に見えてしまう。若しくは特別な関係に発展する前段階であるかのようだ。
妹のことなのになにをうじうじ考えているのだろうといつも自分が情けなく思う。それはこの日も同様で、そんな沈んだ気分で電車からバスを乗り継いで間々観音にやって来た。
小雨だった雨足は少しだけ強まっており、バス停からここまでに足元が濡れた。この天気なので夕日は顔を出しておらず、時間帯の割に周囲は暗く感じる。そんな空のもと、俺は間々観音の門を潜った。参拝時間ギリギリに到着したことは安堵する。
4月のゴールデンウィークに最初の参拝をしてから随分通い慣れたものだ。俺の足取りに迷いはない。休日なんかは他に参拝客もいるが、平日のこの時間帯は人影がない。
順路を廻って最後にやって来るのは本堂。いつものようにそこで靴を脱ぎ、賽銭箱の上にラノベを置く。財布から小銭を取り出して賽銭箱に放ると、頭上から垂れた鈴緒を握って鈴を鳴らす。そして合掌をして目を閉じる。
オカンは治るだろうか。子供に対して、果ては親父に対しても心配をかけたくないと思う優しい母親だから、もしかしたら本当の進行度を言っていないのではないかと疑っている。その優しさはもし最悪のことが起きた場合、残酷なものとなる。
そしてその最悪な事を想像する度、俺は全身から血が引くような感覚に陥る。恐怖に支配される。俺が心配性なだけだろうか? オカンの顔を見る限り、いつも変わらない。オカンの言うように早期発見だから安心していいのだろうか?
打ち消せない不安を胸に、オカンの乳癌の完治を強く願って俺は合掌を解いた。すると靴を履いて階段を下りた時だった。ポケットの中のスマートフォンが振るえて着信を知らせる。正に傘を開こうとしていた俺はその動作を止め、スマートフォンを操作した。
「もしもし?」
『今いいか?』
電話の相手は高校時代の同級生、シゲだった。奈央ちゃんのカレシで俺の理想の先を行く憎き友人だ。
「どうした?」
『お前、大丈夫か?』
「へ?」
『親が入院したって聞いたから』
あぁ、そうか。亜澄が奈央ちゃんに言ったと言っていた。それで伝わったわけだ。それ自体に問題はないが余計な心配をかけたくないので、俺は努めて明るく大丈夫であると伝えた。するとシゲは続けるのだ。
『それから亜澄ちゃんも』
「ん? 亜澄?」
シゲから亜澄を心配する言葉が出てくるとは思っておらず、意外だった。それは家のことをしているのを言っているのだろうか? そう思った俺の考えはシゲの次の言葉で覆される。
『最近転校生が来ただろ?』
宮間君のことだ。シゲから彼の話が出るのもまた意外だった。
「奈央ちゃんに聞いたのか?」
『あぁ。それで奈央が心配してて、できるだけ亜澄ちゃんと一緒にいるって言ってたから』
「どういうことだ?」
『それが俺にもよくわかんねぇんだよ。奈央も心配としか言わねぇんだ』
よくわからない。ただその心配が伝染して今、シゲは電話をかけてきたのだということはわかった。
『とにかく気をつけて見てやれよ?』
「あぁ、わかった」
『今は色々大変だと思うけど、もし俺にできることがあったら何でも言ってくれ』
「その気持ちが嬉しいよ」
『じゃぁな』
凄く抽象的で確信を得ない電話であった。それでもシゲの言うことは胸に留めておこうと思う。しかしやっぱり最近の亜澄の状況に面白くないと思っている狭量な自分がいる。それがシゲの忠告を阻害した。
俺はポケットにスマートフォンを突っ込むと傘を開いて歩き出した。しかしバスは本数が少なく、そして駅へ到着してからの連絡もタイミングが悪い。俺が自宅に到着した時、既に外は暗くなっていた。
「お兄ちゃん!」
俺が玄関に入るなりパタパタとスリッパを鳴らして出迎えに来たのは、制服にエプロン姿の亜澄だ。その口調は強く、そして仁王立ち。眉は吊り上がっていて明らかに機嫌が悪い。俺はそんな妹の態度に若干イラっとしながら視線を外し、傘を丸めながら答えた。
「なんだよ?」
「電話にも出ないでどこに行ってたのよ?」
「どこだっていいだろ」
「なんで電話に出てくれないのよ?」
「電車やバスに乗ってたんだよ」
「むむー! 今度は公共交通機関かよ……」
「は?」
何を言っているのだ、我が妹は? しかしそんな俺の怪訝な様子に構うことなく亜澄は続けた。
「ラインくらい返せたでしょ?」
「見てねぇよ」
「見てねぇよじゃないでしょ? ちゃんと見てよ」
「何なんだよ?」
「帰りが遅いし連絡つかないから心配したんだよ?」
イライラが募る。オカンを心配して俺は俺にできることを模索して動いているのに、なんでこんなに咎められないといけないのだ。俺は心労が増す中、亜澄は男と毎日一緒にいる。現金な妹の姿が受け入れられない。
「ちょ!」
俺は亜澄に答えることなく靴を脱ぐと、体を捻らせて亜澄の脇を抜けた。そして真っ直ぐ階段に行き、2階に上がる。
「まだ話は終わってない!」
怒気を含んだ亜澄の声が背中にぶつかってくる。それに俺は歩を止めないのだが、スリッパの音が聞こえるので、亜澄が追いかけて来ていることはわかる。その亜澄は俺の部屋までついて来た。
「ご飯どうするのよ?」
「まだいい」
「私お腹空いたよ?」
「先に食べればいいだろ?」
俺は重力のままにベッドに座ると、そのまま体を倒した。何もやる気がしない。こんな気分の時はいつも元気な亜澄の声が頭にキンキン響く。
「最近変だよ?」
「は? 変じゃねぇよ」
まさかオカンのことを悟られたか? と思って焦る。動揺がわからないように目元に腕を当てて表情は隠した。
「最近車や電車でどこに行ってるのよ?」
マズい。遠出と言うには大げさな距離だが、それでも近くはない場所へ外出していることがバレている。俺は顔を隠したままそれに答えることができない。
「まさか女じゃないでしょうね?」
カチン。なんかムカついた。俺はベッドから上体を起こすとギロッと亜澄を睨んだ。しかし亜澄は怯むこともなく、俺を真っ直ぐ見据えている。
「女だったとして、なんで亜澄に追及されなきゃいけねぇんだよ?」
「はぁあ? 当たり前でしょ?」
「何が当たり前なんだよ? 自分は男とよろしくやっといて、なんで俺はお前に縛られなきゃいけねぇんだよ?」
「よろしくってなによ!」
「宮間君といつも一緒にいるじゃん」
「あれは彼が勝手について来てるだけだよ」
「その割に最近の亜澄だって楽しそうじゃん」
「うぐぐぅ! お兄ちゃんのブァカァー!」
バタン!
大きな音を立てて部屋の扉が閉じられた。亜澄が出て行った部屋の中で俺は自分に落胆する。オカンの病名も知らされず家のことに一生懸命なのは亜澄なのに。
「やっちまった。まったく、俺ってなにやってんだろ……」
階段を鳴らす亜澄のスリッパの音が俺の部屋まで響いてきた。
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