第3話 妹と団欒の時

「はぁ……」


 思わず深いため息が出る。夕食を済ませた風呂上がりのリビングソファーで俺は脱力している。するとそんな俺の様子を見ていたオカンが、片づけをしながら対面式のキッチンから問い掛ける。


「どうしたの? 今日は楽しくなかったの?」


 前半はため息に対して。後半は貴重な休日に妹と一緒に映画を観に行ったことへの感想を問うている。尤も「貴重な休日」というところに不満を感じているのは俺だけが知る所だ。それを妹に充てているわけだからカノジョはできないし、童貞は卒業できない。


「まぁ、楽しかったけど……」


 まぁ、実際に楽しかった。映画の内容も良かったし、その後は亜澄と遅めのランチをしながら映画の感想に花咲かせた。更にその後は亜澄に引っ張り回されてショッピングモールで服や雑貨の買い物をしたのだが、ブツクサ文句を言いながらも、やっぱり楽しかった。


「それならなんでそんなに浮かない顔をしてるんだ?」


 今度はダイニングテーブルに着いたままの親父が問い掛ける。このおっさん、食事は既に済んでいるが、ビールをちまちまと飲んでいる。まぁ、仕事がない日曜日のこの日のそんな行動の意図は、考えなくてもわかるが。


「別に……」


 俺はお茶を濁すようにそれだけを口にしてリビングテーブルの上のリモコンを手に取った。適当にテレビのチャンネルを変えてみる。1局だけ野球中継で、他の局はどこもバラエティー番組のようだ。


「おっ待たー!」


 すると元気よくリビングに入ってきたのは亜澄だ。別に待ってはいないのだが、誰に言っているのだ? 片づけはオカンに任せているから、オカン相手ではないと思うが。

 亜澄は長袖のパジャマ姿で、肩にはタオルをかけている。肩より長い綺麗な黒髪は湿ったままで、手には洗面所に置いてあったドライヤーを持っていた。


「はい、お兄ちゃん」

「ん」


 阿吽の呼吸の如く、俺はそのドライヤーを受け取った。亜澄はドライヤーのコンセントを挿し込むと、俺の膝を背中で割ってちょこんと床に女の子座りをした。俺はドライヤーの電源を入れその風を手に感じながら、指通りのいい亜澄の髪の感触を楽しんだ。


「さ、終わったわ」

「お! 待ってたぞ」


 ドライヤーの音に混じってバカップル夫婦のそんな声が聞こえる。すると親父が亜澄に向かって言うのだ。


「亜澄、ビールのグラスだけ洗い物頼めるか?」

「はいはーい。いてら」


 亜澄がバカップル夫婦にパタパタと手を振ると、その夫婦はリビングを出て行った。彼らはこれからいい歳こいて一緒に風呂に入るのだ。そのために親父はオカンの片づけを待っていたわけである。


「お兄ちゃん、気持ちいい」

「あのな、そろそろ――」

「いや。私のドライヤー係はお兄ちゃんだけの仕事。その役は私でもないの」


 なんて我儘な。亜澄が皆まで言わせないので、俺は与えられた使命に対する不満を口にすることすら叶わなかった。

 いい加減、髪を乾かすくらい自分でやってほしいのだが。たまにならやってやるから。もうかれこれ10年以上俺がやっている。――とまぁ、これこそ俺が口にすることも叶わなかった不満だ。


 しかし、なぜ亜澄は16歳にもなって兄離れができないのだろう? 親とも仲はいいが、親離れができていない印象はない。なんなら両親が突然温泉旅行に出かけたりすると、喜ぶほどだ。

 そしてとどめが束縛。なぜこれを俺にするのか。これこそ亜澄が風呂から戻って来るまでの間に俺から出たため息の原因だ。


 今回は勝手に俺のスマートフォンを見るという愚行が発覚した。しかもそれだけに留まらず、女の子には勝手に返信までしていた。消された相手の内容は見ていないが、残っていた相手の内容を見る限り、俺から「さよなら」を言っている。

 もちろん俺はカノジョいない歴が年齢の童貞だから、さよならも何もないのだが。具体的な内容はと言うと――


『僕には大事な人がいるので、これ以上構わないでください』


 ――と言ったところだ。決定的である。今まで女の子の方から離れていたと思っていたら、俺所有のスマートフォンから、俺名義のSNSにて発信されていた。女の子に苦手意識はなく人並みに話す方だと思うが、これこそ俺にカノジョができない要因だった。


 そもそも今日の地下鉄の中での話にあったとおり、思い返せば亜澄の束縛は中学の時からである。せっかく可愛い容姿をしているのに。

 小学生の時までも確かによく俺については遊んでいたが、そもそもその頃は俺だって兄妹で一緒に行動することに抵抗がなかった児童期だ。亜澄が中学に入学した頃、当時中学3年生の俺は学校で何かと亜澄からの接触を受けた。


 運動部に所属していた俺に部活や試合が終わった後、クラスの女子やマネージャーがタオルやドリンクの差し入れをしようとすれば、彼女たちを払いのけて自分が用意したタオルやドリンクを差し出す。

 男女混じった学年の友達数人と休日に勉強会をする話になると、自分もクラスに声をかけて目の届く所で勉強会を開催した。人当たりが良く友達が多いし、そもそもモテる亜澄だから声をかければ一瞬で人は集まる。


 3年間のうちの1年間だったとは言え、俺は自由が欲しくて亜澄の学力では合格できないであろう高校に入学した。これで亜澄が高校生になるまでの2年間と、高校生になってからの1年間、俺は花の高校生活を謳歌するつもりでいた。

 しかしだ。しかしである。亜澄は俺が高校生になった途端、猛勉強を始めた。しかも塾には通わず家庭教師も就けなかったものだから、頼ったのは俺である。そもそも高校では帰宅部だった俺なので、結局学校が終わってから毎日亜澄の勉強に付き合った。

 そして亜澄は無事俺が通う高校に合格して、俺の高校最後の年は中学とほぼ変わらずであった。ほとんど毎日一緒に登下校もしたし。


 しかし高校は卒業する。そして俺は大学に進学した。あぁ、期待したさ。昨日くらいまでは。

 それなのにまさかのまさか、スマートフォン監視による束縛が始まるとは。指紋認証を突破するなんて予想外だった。絶対亜澄がわからないロックナンバーに変えようかな。


「ロックを暗証番号にしたら教えてね」


 我が妹はサトリか? とりあえず亜澄の髪が乾いたので俺は返事をすることなく電源を切り、コードをクルクル巻きながら言う。


「さ、終わっ――」

「ちゃんと教えてね!」


 強い口調で言われた。この口調に俺は弱い。なんせこれは亜澄の機嫌が悪くなる前兆で、実際に機嫌が悪くなると亜澄はマジで厄介だ。中学の時に一度だけあったが、一切口を利いてくれなかった。それなのに絶対目が届く所にいるから居た堪れない。

 それがもし、今の学校環境であったら……。亜澄ならマジで学校をサボってキャンパスまで来るだろう。そんなことをされては大学デビューをしたい俺の目論見が無残に散る。まだ入学して2週間なんだ。早くも夢を散らせるわけにはいかない。


「わかったよ」


 だからこんな返事をしてしまう。するとクルッと俺を向いて亜澄は満面の笑みを浮かべるのだ。


「よしよし、いい子」


 床に座った状態で手を伸ばしているけど、俺はソファーに座っているわけで、手届いてないよ?

 するとご機嫌顔の亜澄は一度立ち上がって、ソファーの俺の隣に座り直した。更に肩を寄せてくる。今の満面の笑みの亜澄に、もしこれを血縁者以外の男がされたら即落ちるんだろうな。とは思うものの、やっぱり実の兄の俺には共感できん。


『さぁ、やって来ました! ここは愛知県小牧市にある間々観音です』


「ん?」

「お兄ちゃん、地元が出てる」


 俺と同時に亜澄もテレビのコメンテーターの声に反応したようだ。小牧なら俺達が住んでいる名古屋からそれほど遠くなく、しかも今放送されているのは全国ネットのバラエティー番組だ。俺達は興味を示した。


『ここは別名おっぱい寺とも呼ばれ、授乳のご利益が有名です』


 なんだよ、それ。そんな観音様が県内にいたのかよ。可愛らしいコメンテーターの女性は、晴れたロケ地を歩きながら続ける。


『それだけに限らず、乳に関することは何でもご利益がいっぱいです』


 アホらしい。しかしチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたら、亜澄に手首を掴まれた。亜澄は食い入るようにテレビを見ているが、よくその目の向きで俺の動きに反応できたな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る