第19話 俺の願掛け
親父もオカンの病名を知って元気を無くしているようだ。尤も亜澄を気遣ってその姿は見せないが、どこか笑顔の奥が曇って見える。それは同じく病名を知っている俺だからわかることなのかもしれない。
オカンが入院した翌日、そんな我が家で親父を仕事に送り出し、俺は自室で身支度を整える。亜澄は既に自分の身支度は整えていて、朝食の片づけをしているから頭が上がらない。
倉町家の長男として俺はこの先、自分にできることを模索していくことになりそうだ。自分にできる範囲で、親父と亜澄のサポートは積極的にしようと思う。と言うことで、身支度を終えた俺は早速ゴミ出しを買って出た。
「お兄ちゃん、ありがとう」
礼には及ばない。これから仕事後は毎日病院に顔を出すと言っている親父や、家事のほとんどを負担する亜澄に比べれば微々たるものだ。俺は亜澄に笑顔を返すと、ごみ袋を持って玄関を出た。
「あれ?」
「おはようございます」
自宅前の生活道路の向かい。そこにある電柱の脇に1人の男子高生が立っていた。彼は宮間大君と言い、2日前、俺が運転中に危険な目に遭わせてしまった高校生だ。
「おはよう。どうしたの?」
「亜澄さんと同じクラスになったので、一緒に登校をしようとお迎えに上がりました」
「……」
思わず目が点になる。家まで亜澄を迎えに男子がやって来るなんて初めてだ。モテることは知っているが、亜澄が男子に興味を示さないのは至る方面から耳にしている。
「もしかして……迷惑でした?」
彼は爽やかな笑顔を恐縮そうな表情に変え、遠慮がちに問い掛けた。それに対して俺はブンブンと首を横に振るのだ。
「いや、亜澄と仲良くしてくれて嬉しいよ。同じクラスだなんて、一昨日の感じではまったくわからなかったな」
「昨日転校して来たんです」
「そうだったんだ」
まさかである。身近にそんな縁があったとは。一昨日は迷惑をかけてしまったが、それほど長い時間話したわけではないし、今こうして対面していると好青年だという印象を受ける。容姿も良さそうだし、いっそのこと亜澄の兄離れに一役買ってほしい。
それなのにそう思う反面、どこかチクッとした痛みを胸に感じる。なんだろう? とにかく宮間君が亜澄にとっていい出会いであれば何も言うまい。
その後あいさつ程度の雑談を一言二言交わしてゴミ出しを終えると、俺は自宅に戻った。するとキッチンでは亜澄がちょうど片づけを終えたところだった。
「亜澄? 友達が迎えに来てるぞ?」
「へ?」
まったく心当たりがないのか、首を傾げる亜澄。宮間君は示し合わせて迎えに来たのではないのか?
「誰?」
「宮間君」
本来なら誰かと問われても、亜澄のクラスメイトの名前は知らないので口にするのは難しい。しかし相手は宮間君だ。俺と亜澄が一緒にいた時に出会った彼だから難なく答えられた。すると亜澄は表情を一変させる。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ?」
亜澄の勢いに気圧される。どうした? なぜそんなに怖い顔をするのだ? 怒っている……よな?
「宮間君に住所まで教えたの?」
「へ? 俺からそんなことはしてないぞ? 連絡先は交換したけど結局連絡も取ってないし。転校生なんだろ? むしろ亜澄が仲良くなって家を教えたんじゃないのか?」
「はぁあ? お母さんが大変な時にそんなことするわけないじゃない!」
意見には納得するが、とにかく落ち着いてもらえないだろうか。亜澄の剣幕に俺はめっぽう弱いのだ。
「むむむー! と言うことは昨日の帰り、本当はついて来てたな?」
「昨日?」
「なんでもない!」
そう言うと亜澄は床を踏み鳴らすようにリビングを出て、2階の自室に入った。そして自室から通学鞄を取って来ると、ぷんすか怒りながら玄関を出た。一方、俺は2階の自分の部屋に入って、玄関を出た亜澄を窓から見ていた。
「あ! 倉町さん、おはよう」
「……」
亜澄はプイッとそっぽを向いて、宮間君に挨拶を返すこともなく通学路を歩き始めた。うーむ、どこからどう見ても亜澄は宮間君を受け入れていない。そして宮間君はどうやら勝手に家を突き止め、この朝はこれまた勝手に迎えに来たのだとわかった。
「大丈夫か?」
亜澄を心配して俺の独り言が響いた。
俺はこの日、一限目の授業がない。しかし親父や亜澄に合わせて起床している。アルバイト後の夕食などの理由でもない限り、亜澄が同じタイミングで食事の席に着かないと機嫌を悪くするから。これも1つの理由だが、この日の俺には他に目的があった。
亜澄が家を出て数分後。俺は手持ちのラノベを数冊手に取ると外に出て、オカンの軽自動車を走らせた。
平日のこの時間に運転をするのは初めてだが、交通量の多さに打ちのめされる。通勤時間帯の市内は至るところで渋滞していて、小牧まで1時間半以上かかった。そう、俺がやって来た場所は間々観音である。
1人でここに来るのは初めてながら、順路を廻る俺の足取りは慣れたものだ。童貞のくせに生意気ながら、刺激的なモニュメントにもう動揺することもない。そして俺は本堂前の階段までやって来た。
階段の登り口の脇にある絵馬掛所。そこに奉納された無数の絵馬。乳房が模られた反対面は参拝者の願い事が書かれている。俺はそれを1つ1つ捲って読んだ。中には亜澄が参拝初日に書いた豊胸の願いもあった。亜澄が買った絵馬はこれだけだ。
そして俺は1枚の絵馬にたどり着く。
『○○の乳癌が治りますように』
奥さんだろうか、カノジョだろうか、親族だろうか。これを書いた人の関係者に乳癌患者がいる。この絵馬を俺は亜澄と一緒に来た参拝で覚えていた。
情けなくも今の家庭事情で俺にできることは観音頼みの願掛けだ。亜澄や親父が家やオカンのことで献身的な中、俺はここに来ることしか思い浮かばなかった。
それでもじっとしていられないし、何もしないよりはマシだと思った。動くことで俺に余計な不安を与えない考えもある。
しかしあくまで観音頼み。非科学的なこの願掛けの効果の程なんてたかが知れている。それでも亜澄にはご利益があったのだから、俺は縋る思いだった。
奉納された絵馬から手を離すと俺は階段を上がった。そして靴を脱ぎ、本堂でお参りをする。財布から小銭を出し、賽銭箱に投げて、頭上から垂れた鈴緒を握った。それを前後に振ると、カランカランと小気味いい鈴の音が鳴る。
俺はラノベを賽銭箱の上に置くと手を合わせて目を閉じた。面倒くさがりながらついて来た亜澄の豊胸願いとは違う。考えたくはないが、母親の命が懸かっているかもしれない。下した瞼の真っ暗な世界の中で、俺は必至でオカンの完治を願った。
やがて合掌を解き、目を開ける。ふぅと小さな息を吐いたことで思いの外肩が下がり、緊張でかなり力んでいたのだと理解した。もう少し力を抜かないとまたオカンに心配をかけてしまうな。
そんな苦笑を漏らして俺は本堂の脇にある物販の窓口の前に立った。人がいないのでインターフォンを押すと、やがて女の人が出てきた。
「おはようございます」
「おはようございます。絵馬をください」
「ありがとうございます」
俺は乳房が模られた絵馬を受け取り、代金を渡すと、窓口のカウンターに備えられていたサインペンを使って、早速そこで願い事を書き始めた。
『オカンの乳癌が治りますように。○○年5月○○日。倉町芳規』
わずか10日以内に2回も絵馬を書くことになるとは思ってもいなかった。書き終わった絵馬を見て、汚い字だなと思う。小学生の時にオカンからペン習字を習うよう勧められたのに、面倒くさいから断ったことがあった。今になってそれが悔やまれる。
俺は靴を履いて階段を下りると、再び絵馬掛所の前に立った。金属製の棒が横向きに通っていて、そこに絵馬を結んで奉納するようだ。俺はオカンの病気の完治を切に願いながら、絵馬の紐を結んだ。
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