第四章

第25話 俺の戸惑い

 利き手である右手がうまく使えず、この日のアルバイトは不便だ。冷凍コロッケをフライヤーに入れる時も、うまくステンレスの傾斜を滑らせることができない。


「あちっ!」


 だから大きく油が飛ぶ。すると俺の背後で焼き場に立つ同僚が、腰を捻らせて俺を向くのがわかった。同僚であり同じ大学に通う同級生の隆一だ。


「またかよ?」

「うぅ……」


 今度こそ火傷したかな? 熱さは既に痛みに変わっていて、俺は顔を顰める。しかし火傷したならまた亜澄に手当てをしてもらえるかな? ――と思った瞬間、俺は内心で被りを振る。なにを妹に対して浮かれているのだ。


「そう言えば、芳規?」


 焼き場に体を戻しながらも隆一が質問を続ける。なんだろう? と思った俺は随分鈍いようで、隆一の次の言葉でそれを思い知る。そもそも今日は色々あり過ぎて、思い至らなかったのだ。


「今日、大学の前で超絶美少女と抱き合ってただろ?」

「げ……」


 見られていた。間違いなくその超絶美少女は亜澄のことだ。そんなことになってすぐ周囲の目も気にしていられなかったから、まさか隆一に見られているとは知らなかった。


「あれが妹だよ」

「ぶっ!」


 吹くなよ、汚いな。次に焼き鳥が出されるテーブルは漏れなく隆一の唾液付きだ。


「マジか! 本当に美少女だな!」

「そりゃどうも」


 褒め言葉なので一応ありがたく受け取るが、あくまで妹だ。


「で? 俺の記憶だと芳規もしっかりその妹ちゃんを抱きしめていたが?」


 嫌なところを突きやがる。勘弁してくれ。すると俺が返す言葉も見つからないうちに隆一は言うのだ。


「あれはどっからどう見ても、お前、シスコンだぞ?」

「う……」

「お前が言ってたように妹ちゃんのブラコンも認めるけど、お前も人のこと言えてねぇよ」


 はっきり言うなよ。それを自覚するようなことが今日あって、俺は自分に戸惑っているのだから。


 今日は亜澄が危険な目に遭った。間違いなく俺は亜澄を助けたが、しかしやり過ぎた。明らかに傷害だ。

 後に亜澄から聞いた話によると、その相手宮間君と出会ったきっかけをひき逃げにでっち上げると言って脅し、家に上がったらしい。そんな最低な奴だからこの傷害を見逃してくれるとは到底思えない。俺のライフもここまでか。


 それでも俺は後悔をしていない。亜澄を守ることができたのだから。やり過ぎの面はしっかり咎められたが、それでも亜澄も俺が守った事実には喜んでいた。俺はそれが誇らしかった。

 いや、ちょっとは反省しないと同じ事を繰り返すかも……。なんせ美少女の亜澄だから。


 それでも亜澄からずっと一緒にいようと言われた時は、これ以上ないほど上気して胸が熱くなった。恥ずかしくて亜澄を直視できなかったが、それでも間違いなく嬉しかった。

 あれほど亜澄の兄離れを望んでいたのに、嫉妬を煽られて意識が変わった。それほど俺の亜澄に対する家族愛は深いのだと認識した。


「で? お前ら、やっぱりそういう関係なわけ?」

「……」


 すると隆一が質問を続ける。なぜそっちの方向を疑う? て言うか、できればこの話題はもう終わりにしてもらえないだろうか。


「どうなんだよ?」


 ダメらしい。互いに背中向きだから隆一の表情はわからないが、声色から隆一はかなり引いているようだ。そう言えば彼は、実家に兄を虐げる妹がいると言っていたな。


「そういう関係ってどういう関係だよ?」

「具体的に俺の口からはっきり言っていいのか?」

「いや、遠慮する。答えはノーだ。お前が思ってるような関係ではない」

「安心したよ」


 まぁ、俺と同じく妹持ちの隆一ならそう言うのだろう。間々観音に供えたジャンルのラノベを趣向する人たちなら、あるいは食いつくのかもしれんが。


「しかし今日、妹ちゃん泣いてなかったか?」

「そこは家庭事情に関わるからノーコメントで」

「ふーん。じゃぁ詮索はしねぇけど、仲直りはしたのか?」


 詮索してるじゃん。まぁ、いい。それくらいは答えよう。


「あぁ、まぁな」


 と口から出て思う。泣いていたからと言って喧嘩とは限らないだろうに。そんなことを思っていると手元の皿に料理の盛り付けができたので、俺はホールの受け渡し窓口に料理を届けた。


「喋ってばっかいねぇで手ぇ動かせよぉ」


 その男声に苦虫を嚙み潰したような思いになり、腰を屈めてホールを覗いてみる。すると料理を受け取ったのは店長だった。何かと口うるさい人だから苦手だ。とは言え、実際俺や隆一の持ち場は注文伝票がとめどなく溢れている。さすがは金曜日の居酒屋。


「倉町君?」


 すると俺が持ち場に戻ろうと踵を返したところで店長が引き留める。店長は他のホールの店員に料理を渡して配膳を任せ、窓口から俺を覗き込んでいた。


「なんスか?」

「今日、12時まで残業できない?」

「無理っスよ」

「せめて11時」


 即答したのに食い下がる店長。チェーン店居酒屋のここは週末のこの日、かなり混んでいる。もう21時半を回ったが、さっきやっと空席待ちが解消されたところだ。未だに店内には多くの客がいる。


「すいません。俺、門限あるんで」

「ちっ」


 げ……、舌打ちしやがった。店長は続けて「じゃぁしょうがないな」と言いホールに消えた。


 まったく。採用された時から俺は22時までしかシフトを組めないって言っているのに。確かに店内の混雑具合から人手が欲しいのは理解できるが、店長の機嫌が悪くなるより厄介な奴が家にはいるのだ。

 そう、あいつの機嫌を損ねてはならない。今回は中学の時以来となる喧嘩だったが、亜澄の出方は当時とまったく同じだった。いやむしろ、当時はどちらも中学生だったからマシだったが、今回亜澄は俺が懸念したとおり学校をサボりやがった。


「くっくっく。妹ちゃんからの門限か?」


 俺が持ち場に戻ると、隆一が俺に目を向けずに笑っていた。俺は内心でため息を吐く。


「そうだよ」

「本当はお前も早く帰って妹ちゃんと過ごしたいんじゃないのか?」


 あぁ、そうだよ。――ん? あれ? 俺は一瞬脳裏を過った言葉に被りを振って、しっかり否定する。


「んなわけあるか!」

「くっくっく。向きになっちゃって」


 ぐぬぅ……、こんにゃろう。まぁ、ただこいつは俺と同じ童貞だから多少の粗相は許してやろう。これがシゲだったらドロップキックを見舞っているところだ。


 やがて22時を回ると顰蹙の眼差しを向ける店長を尻目に、俺はアルバイト先を後にした。徒歩通勤なので初夏の夜風が体を冷やし、先ほどの火傷の痕が幾分心地いい。

 右手の傷口は消毒がされていて、ガーゼが貼り付けられている。その周囲は包帯が巻かれていて、それは全て亜澄がしてくれたものだ。俺はその右手を左手で抱えながら歩く。


「名誉の負傷」


 なんて言って自虐的に笑ってみる。どうにも浮かれているから救えない。やっぱり反省した方がいいのだろう、俺みたいなシスコンは。やっぱりシスコンなんだよなぁ?

 そんなことを考えていると、俺は自宅に到着した。


「お兄ちゃん! おかえりなさい!」


 スリッパをパタパタ鳴らして出迎えに来たのは亜澄だ。もし亜澄が犬だったら勢いよく尻尾を振っていることだろう。それくらい満面の笑みを浮かべている。


「ただいま」


 昨日とは打って変わってちゃんと帰宅の挨拶ができた。思わず俺の頬も緩む。


「お兄ちゃん、右手不便だよね?」

「ん? 別に?」


 今日は食事を済ませてから出勤したのだから、あとは風呂に入るだけだ。親父もまだ帰宅していなかった夕方の食事中は亜澄必殺の「あ~ん」に屈したが、もうこれ以上世話されることは思い浮かばない。


「お風呂まだでしょ?」

「うん、まぁ。今から入るけど」

「私もまだだから一緒に入ろう?」

「……」


 一度頭に三点リーダーを流してから答える。


「冗談やめろよ」

「冗談じゃないよ! 私、お兄ちゃんと一緒に入ろうと思って待ってたんだから!」


 いや、待たずに入れよ。負傷はしていてもこれくらいならドライヤーだってやってやるから。


「風呂はさすがに無理」

「無理ってなによ?」

「なによって、無理なものは無理」

「むー! 無理するな!」


 おいおい。会話が成立しないよ。勘弁してくれ。


 この後いくらかの押し問答を経て、なんとか風呂だけは1人で入ることに成功した。頼むからこれ以上俺を刺激しないでくれ。シスコンを自覚するにつれて、自分が自分じゃないような感じなんだ。

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