第三章

第17話 俺を襲った絶望

 とりあえず亜澄のメルヘンチックな奇行である間々観音の参拝が終わってほっとする。これからは俺の日曜日の予定を亜澄に確保されていないので、アルバイトに遊びに励んで童貞卒業を切に考えよう。


 ――そんな浮かれた思考が頭を巡っていた。


 俺の家はブラコンの妹と、いい歳こいてイチャイチャが好きな両親の4人家族だ。呆れる思いは多々あるが、客観的に見て円満な家庭だと言えるだろう。しかしそんな家庭にも不幸はやって来る。それは何の前触れもなく突然であると俺は痛感した。


 亜澄との間々観音への最後の参拝をした翌日。俺は授業が早く終わる日だったので、特に予定もないからさっさと誰もいない家に帰って、卑猥な動画を観ようと目論んでいた。しかしキャンパスを出たところでオカンから電話がかかってきたのだ。


『もしもし芳規? 今から総合病院に来てくれないかな?』

「病院? なんで?」

『私、車で来ちゃったから、その車を取りに来てほしいのよ』

「は? 乗って行ったんなら、乗って帰ればいいじゃん」

『事情は着いたら説明するから、とにかくお願い』


 いつもの優しいオカンの声に、どこか不安そうな色が混じっていたがそれにも気づかず、この時は正直、面倒だという思いしかなかった。空はどんより厚い雨雲がかかっていて、地下鉄を使って行く分にはいいが、車で帰る頃には降るだろうと予想ができていたから。


 そんな憂鬱な気分を携えて俺は病院に行った。そこでオカンに到着の旨のラインを送ると、来るように指示されたのは病棟だった。部屋番号まである。どういうことだろう? その文面を見て胸騒ぎがした。


 コンコン


「どうぞ」


 スライド式のドアをノックすると聞き慣れたオカンの声が聞こえた。俺はドアを開けると中を覗いた。そこは個室で、オカンはベッド着姿で退屈そうにスマートフォンを弄っている。ベッドにいるあたり、どこからどう見てもオカンが入院患者だ。


「どういうこと?」


 俺はベッド脇の丸椅子に腰かけ、オカンに問い掛けた。オカンはいつもの穏やかな表情を向けて答えてくれた。


「入院することになっちゃって」

「それは今の状態を見ればわかるよ。入院の理由を聞いてるんだよ」


 オカンは俺の疑問から目を逸らすように窓の外を見た。それはどこか遠い目に感じる。言いたくないという意思がはっきりと伺え、いつも親父とデレデレしている表情は面影もなかった。


「乳癌なんだって」

「は……?」


 一瞬で目の前が真っ暗になった。すぐに理解が及ぶこともなく、オカンの声で「癌」という言葉が俺の脳内を周回した。それは徐々に早さを増していき、比例するように俺を絶望感が襲う。


 乳癌? それってどういう病気だ? だから癌だって。治るのか?


 そんなことを考えていた俺の表情は余程蒼白になっていたのだろう。オカンが言葉を足した。


「そんな顔をしないの。治療をすればちゃんと治るだろうって段階らしいから」

「そうなの……?」

「そうよ。こないだ受けた健診でひっかかって、それで受診したら今の状態。ふふふ、貧乳が役にたったわ」

「意味がわからん」

「胸の大きさに発症率は関係ないんだけど、大きい人は発見が遅れる傾向にあるんだって。私の場合は早期発見の段階だから治る見込みがあって、治療法を今後お医者さんと相談していくの」


 そんなことを言われたって安心するわけではない。俺から絶望は引いてくれない。するとオカンは思いもよらないことを言うのだ。


「亜澄には黙っておいてくれないかな?」

「は!?」


 思わず声を張ってしまったが、ここは病院。無理もないとはわかっていても、少しは冷静になろうと思う。


「入院してるのに、それは無理だろ?」

「それでもお願い。血中の数値がちょっとおかしいからとか何とか誤魔化すから」

「待てよ。なんで亜澄には言わないんだよ? 知ったら亜澄が可哀そうだろ?」

「あの子はうちの中で一番家族のことが好きだから」


 確かにその意見には納得する。俺が呆れている両親のことも微笑ましく見るし、俺のことも離さない。しかし、だからこそ隠すのは心苦しいのだ。


「私が入院することになって、亜澄は芳規とお父さんのために間違いなく家のことを頑張るわ」


 それにも納得する。甘えん坊のくせに献身的な亜澄だから積極的に家事をして、手を抜くこともないだろう。


「そんな亜澄に癌だなんて知らせて、精神的な負担まで負わせたくないのよ」


 それを言われては何も言い返せなくなってしまう。そしてこの時ほど俺は自分を情けなく思ったことはない。家族の中で間違いなく一番やれることが少ない。ここに来る前は面倒だとさえ思っていた。最低だ。


「そんな顔をしないで。心配かけてごめんね」


 しかしオカンは優しい表情で俺に言う。敵わない。病気で入院をしたのはオカンなのに、結局守られているのは俺の方だ。


「親父には連絡したのか?」

「うん。さっき連絡した。けど、まだ病名は言ってない」

「そっか」

「だから仕事が終わってから来るって。それでも定時で上がるって言ってくれた。芳規は今日、バイトでしょ?」

「休むよ」

「ダメよ」


 確かに俺がここにいるだけでは何も改善しない。アルバイトのシフトに穴を空けないに越したことはない。その理由をはっきり口にしないのはオカンの気遣いだろう。


「それじゃぁ、バイトの時間ギリギリまでいるよ」

「ありがとう」


 そう言って微笑んだオカンは優しく俺の頭を撫でた。オカンに頭を撫でられて喜ぶような歳でもないのだが、それでもここは個室だし、少しはオカンのやりたいようにやらせるか。すると手をそのままにオカンが言った。


「私の着替えはお父さんにお願いしておいたわ」

「そんなの先に言ってくれれば俺がさっき家に寄ったのに。何なら今からでも」

「芳規じゃ私に必要な着替えがわからないでしょ?」


 確かに。寝室のタンスや押入れを漁ったところでどれを持ってきたらいいのかわからない。それがわかるのは同じ寝室を使っている親父か、家事を手伝う亜澄だ。


 因みにうちの両親の寝室は1階の和室だ。本来客間用に用意された和室だが、子供の目を気にすることなく心行くまでイチャイチャしたいから、1階の和室に布団を敷いて寝室に使っているバカップル夫婦だ。

 よって2階で生活をしているのは俺と亜澄だけで、本来夫婦寝室用に用意された日当たりのいい広大な洋室が物置と化している。


「因みに今着てるこれは病院からのレンタルよ。いいでしょ?」

「そうか?」


 ベッド着にいいも悪いもわからないので俺が曖昧な返事をすると、オカンはクスクス笑った。


「芳規?」

「ん?」


 相変わらずオカンの手は俺の頭上にある。オカンはベッドから足を投げ出して俺を向いており、俺はそんなオカンを上目で見た。


「これからも亜澄のことをよろしくね」

「う、うん……」

「あの子、甘えん坊で家族が大好きで、だからいつまで経ってもその中の芳規からは離れられなくて。もしかしたら結婚願望もないんじゃないかって心配に思うの」


 どういう話だろう? 凄く温かな内容ではあるが、裏腹に俺は不安が増すばかりだ。だから怖くはあったが、聞かずにいられなかった。


「オカン。治るんだよな?」

「もちろんよ」

「これからはどういう治療をしていくんだ?」

「さっきも話したとおり、それをこれからお医者さんと相談していくんだけど、今の時点で言われているのは、薬物療法に加えて手術か放射線治療よ」

「手術……も、あるのか?」

「うん、可能性の話だけど」

「切除……ってやつ?」


 あくまでメディア媒体などがもとの薄い俺の知識だ。それこそ知識とは言えないレベルで、知っている単語を口にしたに過ぎない。しかしそんな俺の不安をオカンは穏やかな声色で覆す。


「今のところそこまでは考えなくていいみたい」


 それには少しだけ、本当にほんの少しだけだが、安心した。

 しかし俺から絶望が引くことはなく、けど久しぶりではあるが積極的にオカンと話した。そしてこの日は後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。

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