其の弐
公園から逃げたは良いのだが、何処に行って、何処まで逃げれば良いのか全く解らなかった。とりあえず走り続けて、駅から少し離れた川沿いの並木道に来た。その間に少女の手を離さないように強く握りしめた。
息を整える間にも追ってはいないか確認しようと振り返って見たが、相手が見えないのに確認しようがないことに気が付いて自分を叱咤した。馬鹿だな。
握っている右手に少女が一緒にいることを確認できた。しかし、勢いで逃げてしまったが、あのまま美鬼に相手を倒してもらえば良かったのではないと今更思った。美鬼が負けることなどないだろうが、どうなったのだろうか。ふがいない自分に怒りが沸点を超えて蒸気となった。
「お姉ちゃん、痛いよ」
「あ! ごめんね」
握っていた手に無意識に力を入れてしまっていた。咄嗟に手を離して紗理奈はしゃがみ込んで少女と同じ目線になって頭を撫でながら「ごめんね」ともう一度言葉にした。少女はぬいぐるみをギュッと抱きしめて眉を八の字にした。
「ううん、大丈夫。
「星彩ちゃんって言うんだね。私は紗理奈」
「紗理奈お姉ちゃん、みんなをやっつけてたのは紗理奈お姉ちゃんの知ってる人?」
「そうだよ、美鬼ちゃんって言うの。多分、今頃全部やっつけてくれたよ。戻ってみる?」
「嫌! みんなは星彩を捕まようとするの! みんなはまだいっぱいいるの!」
「みんなって何なの? お姉ちゃんには見えなかったんだけど?」
「みんな髪の毛がぼうぼうしてるの! 全部髪の毛なの!」
「髪の毛? それはどれくらいいるの?」
「いっぱいいるの! どうしてお姉ちゃんには見えないの?」
「解んない……今はいる?」
星彩は辺りを見渡して
「いない」
「良かった。これからどうしよっか……とりあえずあのベンチに座って少し休もう」
「うん」
紗理奈は星彩の手を握って木陰のベンチに向かって歩いた。星彩はずっと周囲をキョロキョロして周りにみんながいないか不審になっているようだった。
「星彩ちゃん、みんなを見つけたらすぐにお姉ちゃんに行ってね」
「うん」
二人はベンチに座って、星彩は周囲を警戒していた。紗理奈も一応注意深く周りを見るが、自分には姿が見えていなかったのに、今更都合よく見える訳はないと思った。星彩には見えて自分には見えないとはどういうことなのだろうと考えても答えが出ない。
考えてみれば美鬼には見えていたし、攻撃を仕掛けていたのだから妖怪変化の類であることは間違いないだろう。こんな時、瑠美がいてくれたら良いのになどと一瞬でも思ってしまった自分に溜息が出た。
「どうしたのお姉ちゃん?」
「ちょっとね、お姉ちゃんのお友達がね……友達じゃないか……」
「何かあったの?」
裏切りと絶望などと言う言葉をまだ知らない純粋な眼に見つめられて、心の中で広がっている霧が少し晴れたような気がした。
「こんな話星彩ちゃんに言っても解らないと思うな」
「そんなことないもん! 星彩はいつもお友達の悩み相談受け付けてるから話してみて」
恐らく小学三年くらいの女の子に話して良いものだろうかと思ったが、穢れない眼差しの勢いに負けた。
「あのね、ちょっと喧嘩っていうか……なんていうか……えっと、もう必要ないって言われたの……」
「何が必要ないの?」
「私が……必要ないって……用済みってこと……」
「なんのことか星彩解んない」
「そうだよね。何て言ったら良いのかな? 友達だと思っていた相手が、友達じゃなかったの。私を利用してただけだったの」
「それで傷ついたの?」
「うん。一緒にいた時間の分だけ……私は……傷ついたよ。今までが嘘だったなんて……信じたくなかった」
「じゃあ信じなければ良いじゃん」
星彩の意外な解答に紗理奈は困惑を隠せなかった。
「ん? どういう意味?」
「だって、その人と一緒に過ごした時間は嘘じゃないよ。楽しかったんでしょ? 一緒にいて」
「うん。だから、今悲しいの……私のことなんとも……」
「その人お姉ちゃんと一緒にいる時に笑顔になった?」
「……うん……嘘だったかもしれないけどね」
「きっと嘘なんかじゃないよ。だって、心から楽しくないと笑顔は作れないもん」
「でも……私は……」
「ママが言ってた。悲しみに暮れる時間は、大切なことを学ぶ時間だって。お姉ちゃんは今、大切なことを勉強してるの」
切り裂きジャックに遭遇する十九世紀のロンドンのような霧に包まれていた心が、青天の霹靂によって切れ間が見え、日差しが心の一角を明るく照らしてくれた。そんな気がした。
「お姉ちゃんが悩んだ分だけ、また大人になるよ」
「なんか……ありがとね星彩ちゃん。ちょっと心が救われた気がしたよ」
「良かった! 何でも星彩に相談して」
「うん」
誰かに相談するのが怖かったし、自分の心を見せて、また裏切られるのが怖かったが、話て楽になった部分もあった。子供だと侮って、意外な解答をくれたのも大きかった。
「そうだ! お姉ちゃん! 一緒にママを探して!」
「ママを探してるの?」
「みんなから守るためにママと二人で逃げてたの。そしたら、ママがいなくなったの」
「星彩ちゃんのママもみんなが見えるの?」
「うん、ママと星彩はずっと逃げてたの。ママはきっと星彩を探してるの!」
この子の為にできることがるなら力になりたい。紗理奈は星彩の小さな手を握った。か弱い小さな手は少し震えていた。きっと怯えているのだろう。
「解った! じゃあ、お姉ちゃんも一緒に探してあげる」
「ありがとうお姉ちゃん!」
「まずは何処を探そうかな? ママとはぐれちゃったのは何処なの?」
「……解んない……」
「うーん……星彩ちゃんは南凰公園の前は、何処にいたの?」
「……解んない……」
「うーん……どうしよう……」
二人で考える人の銅像になってみたが、思い浮かぶアイディアすら出て来なかった。そんな時に
「お困りのようどすなぁ。うちが力を貸しまひょか?」
もう何度も聞いた艶めかしい声と共に寒気がした。声のした真上を見えるとそこには木の枝に座っている京狐がいた。
「京狐さん……」
「ウチが力になるで」
星彩は得体のしれない京狐に怯えているようで紗理奈の腕をギュッと掴んた。
「どないしたん? すごい怖い顔どすえ。もしかして嫌悪?」
「京狐さん、私に黙っていたことありますよね?」
「何やったかな? 思い当たる節があり過ぎて解らんなぁ」
「瑠美ちゃんは、私と先輩と美鬼ちゃんの四人で行った時には、もう会ってたんですよね? どうして隠してたんですか?」
「一応商売どすさかい。守秘義務は守らな。大事なこっとすえ。信頼」
京狐は十尺を超える木の枝から徐に重力を無視してゆっくりと降りてきた。いつ見ても絶世の美女であることは認めるし、その笑顔は完璧で黄金比になっているが、不気味に思うのは身に纏っているオーラを感じているからだろう。
「どないすんのどすか?」
「お姉ちゃん、この人誰?」
星彩は紗理奈に隠れながら京狐を見ていた。京狐はニッコリと口角を上げて舐めるように星彩を見た。
「ふふ、おもろいなぁ。さすが銀色の一族やなぁ。これは見物やね」
「どういう意味ですか? 銀色の一族って何なんですか?」
「それを教えてもえぇけど、それで一つ願いを叶えたことになるけど、ほんでもええ?」
「えっと……」
紗理奈は自分の腕を掴んでいる星彩の力が少し強くなったのが解った。今は自分のことよりも、星彩の為に願いを使った方が良い。そう思った。
「私の願い。あと二つですよね?」
「約束通り、あんたの願いはあと二つ叶えたるさかい。何でも言うてや」
京狐のことだ。きっと必要以上の情報が聞きだせない場合がある。こちらから聞くことで多くの情報を引き出さなくてはいけないと思った。
「じゃあ、星彩ちゃんのママは今何処にいるんですか? それと、無事でいるんですか? 安全な場所ですか?」
「欲張りな願い事やなあ。まあえぇけどなぁ。教えたる」
京狐は九つの尻尾を出して妖艶で奇怪な重苦しい空気に換え、着物の袖の袂から水晶を取り出して星彩に近づいた。
星彩は尻尾を見て「狸さん?」っと言ったので京狐は「ウチは狐や。今度言うたら食べてまうよぉ」っと言った。余計に星彩は京狐が近づく度に紗理奈の服を掴む力が強くなった。
「これにお嬢ちゃんのお手手ぇ乗せてごらん」
水晶を近づけられて星彩は紗理奈を見た。その目から察するに京狐を信頼して良いのか戸惑っているのだと思った。
「星彩ちゃん、大丈夫だよ。ママがこれで何処にいるか解るよ」
「取って喰ったりせぇへんよ。怖いもんちゃうでぇ。さぁ」
星彩は紗理奈と京狐を交互に見て、右手を恐る恐る水晶に伸ばした。右手が水晶に触れた途端に何か浮かび上がってきた。京狐はそれを興味深そうに見ていた。
「ははぁーん、そういうことねぇ。おもろいわぁ」
「京狐さん! 星彩ちゃんのママは何処なんですか?」
「おっと、そうやったね。この子の母親は今ここや」
京狐は水晶を紗理奈の顔に近づけその中を見せた。水晶の中に浮かび上がっているのは、つい先日行ったマンション建設予定地だった。
「どうしてこんなところに?」
「いっぺん捕まったみたいだけど、逃げたようやなぁ」
「ママはみんなに捕まったの!?」
星彩は一瞬にして泣きそうな顔になった。この表情を見て、紗理奈は星彩が年相応な反応をしていると思った。
「安心してや。どうやら逃げて力尽きて倒れてん」
「今は安全なんですか?」
「そうやね。でも、あいつらより先に見つけんと厄介なことになるでぇ」
「あいつらって――いえ、良いです」
簡単に京狐が情報を教える訳がないと思った。それよりも、早く十四日町まで行かなくてはいけない。
「星彩ちゃん、行こう! ママを助けに!」
「うん!」
二人は立ち上がって京狐に「ありがとうございました」と一礼をしてその場から走ろうとした時に
「ちょいと待ちぃや」
「何ですか?」
「おもろいさかい、ウチがそこまで超特急の乗り物で送ったる」
京狐の意外な協力に紗理奈は不信感を募らせた。きっと何か裏があるに決まっている。
「何を考えてるんですか?」
「何もあらへんよ。ただ協力したいだけやさかい」
京狐の不敵な笑みは、何か良からぬことを含んでいるような気がしてならない。
「あぁ、もちろん、こら願いに含まれへんさかい安心してええで。最後の一つはよう考えてからお願いしてや」
「お姉ちゃん! 早くママを助けに行かなくちゃ!」
確かに今からバスで十四日町に向かうとしたら、どのくらい時間が掛かるか解らない。バスを待っている時間も惜しいのだから。
「解りました。京狐さん、力を貸してください」
「えぇよ。ほな、呼んだげるわぁ」
紗理奈は以前に乗った牛車を思い浮かべたが、京狐は指笛をするのではなく、袖の袂から呼び鈴を取り出して鳴らした。夏の風鈴のような心を涼やかにさせる音色の後に、聞き慣れない轟音と地響きが聞こえた。
「な、何を呼んだんですか!?」
「お姉ちゃん! 怖いよ!」
「今来るでぇ」
紗理奈は聞き慣れない轟音が聞こえる方を見た。そこには、南凰公園にあるのと同じ蒸気機関車が白い蒸気を黙々と煙突から出しながらこちらに近づいていた。
蒸気機関車は三人の目の前で停車し、二人が乗れるように車輪の部分が地面に沈んで乗り込め易くなった。
「これならすぐに送ってくれるでぇ」
そう言って京狐はまた袖の袂から今度は白い紙と筆を取り出した。筆には墨のような物は付いていなかったが、京狐は筆の毛先を舌で舐めて紙に何か書き始めた。
「これを持って行くとえぇで。何かの役に立つで。ほな、行ってらっしゃい」
手渡された紙には「滅」と書いてあった。何の効果があるのか解らないが、漢字的には強そうだと思った。
「あ、ありがとうございます……行こう、星彩ちゃん」
「うん、ありがとう狐さん」
「ふふふ、たまにはえぇこともせんとな。ほな、楽しみに待ってんさかい」
紗理奈と星彩が蒸気機関車の客車に入ると、二人の他には誰も乗っていなかった。赤い色の座席に適当に座って窓の外から京狐が見える位置に座った。
星彩は京狐に「ありがとう狐さん」と手を振った。京狐も笑顔で手を振りながら呼び鈴を鳴らした。その瞬間に蒸気機関車が動き始め、徐々に上昇して行った。
「お姉ちゃん! 浮いてるよ! この機関車浮いてる!」
紗理奈も外を見ていて思っていたが、蒸気機関車は地面を離れて空を飛び始めたのだった。木々の高さを超えて、雲の近くまで上昇した蒸気機関車は十四日町を目指していると信じて、紗理奈は自分が星彩にできることをしようと思った。
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