其の弐(加筆修正版)
話し声が聞こえてきてふと目を覚ました。見知らぬ白い天井を見てここが何処なのか見当も付かない。
少し身体が怠い気がする。いや違う、身体を動かすことができないのだ。どうあっても動くことも声を出すこともできない。
何かに抑えられているのか、それとも何か重い物でも身体に乗っているのか、否、縛られているように身体を動かすことが出来ないのだ。
そんな自分の状況などお構いなしに、誰とも解らない相手の会話が勝手に耳に入ってくる。目だけを声のする方に向けてみると男子生徒と角がある少女が視界にやっと入る程度で見えた。
「またあの女狐に頼むなんて、わっちは嫌でありんす! 駄女狐にもう借りは作りたくありんせん!」
「そうは言っても今回はキョウコさんが協力してくれたから見つけることができたんだから、我儘言わないでよ。今度こ何とかしないとまた犠牲者出る。その前に決着をつけなきゃ」
「じゃあ、ギュッとしてくださいまし」
「え?」
「旦那様にギュッと抱きしめて頂けたなら、わっちは何でも言うこと聞きんす」
男子生徒はたじろいで目が泳いで紗理奈の方に視線を向けた。
「ちょっと待って、気が付いたかい?」
紗理奈がこちらを見ているのに気が付いた男子生徒は会話を遮って話しかけてきたが、角のある少女は怪訝な顔で舌打ちをした。紗理奈は声を出そうと思っても声を出すことができないので返事をすることもできない。
「あ……あ……」
辛うじて出した声はまるで雑音で何を言おうとしているかも解る物ではなかった。
「あ! 忘れとったわ。ちょっと待ちなんし、今、金縛りを解いたるわ」
角のある少女が近づいて来て紗理奈のおでこに触れた瞬間に全身を縛っていたような感覚が消えて
「あぁあー!」
咄嗟に音のボリュームが不安定な声が出た。ごくりと唾を飲んで一呼吸した紗理奈は二人を見た。
男子生徒はやはり自分と同じ高校の生徒だ。しかし、一年である自分が見たことがないのできっと上級生だろう。
少女の方はやはりおでこと髪の間に親指ほどの長さの角が二本あり、先ほどでは解らなかったが少しばかり赤い、いや、どちらかといえば朱色のような色だった。
いつまでも見ていると睨まれてしまう気がして視線をずらして部屋の中を見渡して見ると開けられていない段ボールが五個、勉強机の他は、部屋の中央に小さな白いテーブルがあるくらいだった。
「えっと、まずは自己紹介するね。僕は宮部はじめ。同じ高校だね? 僕は二年なんだ。君は一年、かな? ごめんね、手荒な真似して」
「え、あ、あの……」
「安心して。ここは僕の家だよ。口裂け女が作った境界に君が入り込んでいたから助けたんだ。怖かったよね?」
「は、はい……」
今思い出しただけでもあれが現実であることを信じることができない。
口が耳元まで裂けた女性の顔が鮮明に脳裏に焼き付いている。振り下ろされる鎌の空気を引き裂いたあの音も木霊しているように耳にこびり付いている。
「君の名前は?」
「あ、あの、私は、黒木、紗理奈、です……一年生です……あ、あの……その……」
「紗理奈ちゃんね。本当にごめんね。いきなり知らない男の部屋に連れて来ちゃって。えっとね、まず何処から説明しようかなぁ? えっとね、じゃあ、気になるよね? 彼女の角」
「あの……は、はい」
角のある少女に目線を移すと今まで感じたことの悪寒が全身を走った。多分、恐らくだが、これは殺気だろうと本能で感じ取ることができた。朱色の角が仄かに光ったように見えたのは気のせいではない。
「わっちは自分から下等な人間如きに名を明かすことなどありんせん。わっちは旦那様にだけ名を呼ばれたらそれだけで良いのじゃ」
自分を見つめる蔑まされた冷たい瞳には憎しみか、それとも卑下しているとも受け取れる視線だったが、はじめと名乗った男子生徒に向ける眼差しはそれとは違っていた。
恋い焦がれているというのだろうか? 否、違う。落ちているのだ。どこまでも続くような愛のようなものに。
美鬼の話口調は関西弁なのか、それとも花魁の人が使う
それでも紗理奈に話しかける時は低めの声で話しているので怒っている印象を受ける。はじめは呆れた表情で頭を掻いて仕方なく語り出した。
「もう、しょうがないなぁ。えっと、彼女は
説明されて理解できる許容範囲という物があるが、現在はその許容範囲を超えているので、とうに自分の知識や経験だけでは対処できない。少女が鬼と言われて、はいそうですかと素直に返事を出すことなどできない。
「あ、あの、何が、どうなってるんですか? 全然解んないですけど……お、鬼って……それより、口裂け、口裂け女は?」
「口裂け女は逃げたよ」
「逃げた? あの、どうして?」
「ぬしのせいじゃ。折角見つけることができたと思ったら、ぬしが境界に入り込んでおったから、わっちらは邪魔な荷物を背負うことになりんした。もう少しやったのに」
部屋の壁に寄り掛かって腕組みをしている美鬼の視線は今まで生きてきて感じたことのない威圧感があった。
まるで、自分を虫や小動物でも見ているかのような視線には耐えられない物がある。これがいつまで続くのだろうとふと思った。
「え? あの、すみません……」
紗理奈が美鬼に謝るとはじめが
「謝ること無いよ。口裂け女を追ってたら境界に紗理奈ちゃんがいて襲われてた。助けるのは当然だよ。何より無事で良かった」
「口裂け女を、追ってる? どうしてですか? あの、あと、きょうかいって何ですか?」
「まずは境界について説明するね。境界って言うのは今僕達がいるこの世界と妖怪変化っていう人非ざる者達が住む異界の間にある世界だよ。境界に入り込んでしまうとそこはいつもと同じ景色でも全く違う世界。中間世界って言う場所なんだけど……解んないよね……」
「……全然……」
「えっと、口裂け女を追ってる事情を説明すると、僕はこの町にある水木神社っていう所の息子なんだけど、解る?」
「水木神社?」
「長い階段を上った所にある神社なんだけど――」
「あぁ! はい、知ってます」
脳裏を過ったのは昔、まだ小学生だった頃に縁日で開かれたお祭りに行った光景が浮かんだ。
現在の半壊した神社の姿は想像するしかないが、昔は良くお祭りの行事などでそこに足を運んだものだと軽く回想した。
そして、確か瑠美が言っていた話の内容を思い出した。水木神社に祭られている刀の名前を。
「……無名……」
「無名のこと知ってるの?」
「あの、友達から話を聞いて、少し……」
いや、でも、何かこの会話に違和感を覚える。最初は捲し立てるように話していたが、今度は何かを探り探り聞いているように感じるのだ。それに以前、同じような会話を誰かとしたような気がする。とても綺麗な声の大人の女性と。
「水木神社はね、昔から人を襲う妖怪変化の者達と戦ってきた。それは代々受け継がれて、今は父のいない代わりに僕が退魔師を代行してる。僕は人を襲う妖怪変化を倒すのが役目なんだ。それが口裂け女を追ってる理由だよ」
はじめと話していてふと思った。何処かではじめと美鬼と会った気がする。しかし、どうしても思い出すことができない。何か、重要なことを忘れ去られたような、そんな気がした。
「あ、あの……私、前に会ったことありますか?」
はじめは目を右に移動させて、何かを考えているような表情になり、美鬼に視線を向けるとすぐにプイッとそっぽを向かれてしまった。はじめは深い深呼吸をして、瞬時にほくそ笑んだ。
「いや、きっと学校で見かけたんじゃないかな?」
「そ、そうですか? でも、何か違うような……」
コンコンとノックの音がしてドアが開いた。そこから顔を覗かせたのは年齢に伴わない白髪の髪をした若い女性だった。
「起きた?」
「うん。今説明してたとこ」
「お母さん! あの娘起きたよー」
「はーい。今行くわ」
部屋の外にいるであろうお母さんと呼ばれた人の声が小さいながらも聞こえた。白髪の女性はドアを開けたまま部屋に入って紗理奈に近づいて頭に手を置いた。
「ちょっとごめんね」
「え、あの……」
「しー」
長い白髪の女性は目を閉じて
「安間経心式是空南無阿尊青海」
「あ、あの……」
「これで帰りは大丈夫。口裂け女に付きまとわれることはないから安心して帰れるよ。なんなら護符も付けようか? いや、ちょっとそれは料金をいただくことになるけどね。これも商売だから」
「あ、あの……」
「私は
「黒木、紗理奈です」
「紗理奈ちゃんね。今日は災難だったね」
また、やはり捲し立てるように会話をされた。それに何か引っかかる。喉の奥に刺さった魚の骨みたいな、変な違和感が消えない。
麗も何処かで会ったことがある。しかし、一番印象に残るであろう白髪の麗を思い出そうとしても、どうしても目の前に壁が立ち塞がり先に進むことができない。紗理奈が口を開こうと思ったその時
「姉様! そんなことよりも! わっちを認めて下さるのでありんすか!?」
「もっちろん! 私は美鬼ちゃんみたいな綺麗な妹が欲しかったし。弟をよろしくね!」
「はうぅぅぅぅぅー!」
美鬼は顔を赤らめて発狂し、その場に垂直になって倒れた。さっきまでは不機嫌な氷のように冷たい表情から一変して恍惚を全身で表現していて、女である自分からしても可愛いと思えるほどだった。
「姉ちゃん、人前では、やめてよ」
はじめもすこしばかり頬を紅潮させながら麗に文句を言い始めた。男性のそんな表情は可愛らしいなと素直に認める。瑠美には敵わないが。麗はさらに続けて
「どうして? 美鬼ちゃんこと嫌いなの?」
「いや、そんなことは言ってないだろ」
「じゃあ好きなの? それとも、もう好きじゃなくて愛しているの?」
「ちょっ! 姉ちゃん!」
完全に動揺したはじめとそれを見てクスクスと笑っている麗を見て、仲の良い姉弟だなと思った。
「はうー!」
美鬼が麗の言った言葉に反応して可愛らしい声を出した。話を聞く限りでは、どうやらはじめのことが好きであることは解ったのだが、どういった経緯があったのだろうか?
そういえば、瑠美の話していたトラックの横転事故に鬼の少女が関係している話があったが、それが美鬼のことなのだろうか?
「姉ちゃん今は……やめてよ……」
「旦那様の口からわっちのことをどう思ってらっしゃるのか聞くのは野暮ってもんでありんす。でも、わっちは解っております。旦那様がわっちのこと愛していることくらい! はうー!」
話に付いて行くことができないが、とりあえず重苦しい雰囲気から状況が変わったので気が楽になったのは確かだった。
「あらあら、大丈夫だった? 気分はどう?」
開けっ放しだったドアから入って来たのは、麗と同じく年齢に見合っている白髪では決してない女性だった。
麗よりも少し長いくらいの白髪で恐らく彼女がお母さんだろう。麗とはじめの面影が微かにあり、特にはじめはお母さんにとてもよく似ていて親子だと解る。
はじめのお母さんはせんべいやらの和菓子が入った器と湯呑み茶碗が乗ったお盆を持っていた。
「あ、あの……」
「いきなりじゃ全部解らないわよね。おっといけない。私は麗とはじめの母の
「私は、黒木紗理奈です」
紗理奈は自問自答しながら考えた。自分はもしかして、デジャブを体験しているのだろうかと思った。やはり、凛にも会ったことがある気がした。
いや、そもそも、幼少から今までの間に水木神社には絶対に行っているはずなのだから、会っていて当然なのかもしれないが、それでも水木神社に行った記憶ですら鮮明に思い出すことができないのは何故なのだろうか?
「紗理奈ちゃんね。心配することはないわよ。ここには結界が張ってあるから。妖怪変化が追ってくることはないわ。それより紗理奈ちゃん、とりあえずお家に電話したら? きっとご両親が心配しているわよ」
紗理奈は部屋を見渡して時計を探すと自分が今いるベッドの脇にある時計を見た。時計の針は七時半を回っていて、予定していた帰宅時間を大幅に過ぎている。
はじめと麗のお母さんはゆったりとした動きで部屋の中央にあるテーブルに湯呑みと和菓子の入った器を置いていた。
「お義母様、わっちも何かお手伝いしやしょうか?」
「良いのよ美鬼ちゃん」
紗理奈はスカートのポケットを探ってもスマホの感触がない。そして、スマホを口裂け女に襲われた時に落としていたことにようやく気が付いた。
「あ! あの私のスマホ――」
「これ、紗理奈ちゃんのでしょ? 落ちてたから拾っておいたよ」
はじめから手渡されたスマホを受け取って電源ボタンを一回押すと、数回自宅の番号や母からの連絡、それに瑠美からも着信や連絡があった。
すぐにまずは自宅に電話しようとしたが、少し冷静になって考えてみた。
「あ、あの……何て言えば良いのでしょう?」
今までこんな時間まで外に出たことなど一度もない。ましてこんな時間まで遊んでいたとなれば、外出禁止どころかお小遣いの減額、もしくは停止処分もあり得る事態である。
何より本当の理由を話したとしても理解してもらう事ができないのは目に見えているし、変に嘘を吐いても自分の頭では言い訳の内容を考えることもできない。麗がすかさず口を開いた。
「とりあえず無事であることを伝えて。お家は何処なの?」
「家は一日町です」
「じゃあ、ここから歩いて近いんじゃない? 此処は二日町だからね。まぁ、まずは電話しなよ。心配することはないからね」
「は、はい」
何処から溢れてくるのか解らない麗の自信に疑問を抱いたが、それよりも今は家に電話を入れることにした。それにしても悪いことをしたわけでもないのに罪悪感に打ちひしがれるのは何故なのだろうと思った。三回ほど呼び出し音が鳴って電話に出てくれた。
『もしもし黒木です』
「あ、お、お母さん。私……」
『紗理奈! 今まで何してたの? 何回も連絡したのに! 今何処なの?』
「今……二日町の……えっと……」
この後どう答えれば良いのか皆目見当も付かない。助け船を貰おうと必死で目で訴えかけてみると凜が手を差し伸べてくれた。
「紗理奈ちゃん、良いかしら?」
差し出された手にスマホを渡すと凛は流暢に話し始めた。
「もしもしお電話変わりました。宮部凜です。今日は娘さんに神社のお手伝いをしてもらいまして――ええ――そうなんです――全くお恥ずかしい限りですが――ええ――半壊して今は二日町のアパートに――いえ――何もありませんよ。御心配なさらず――」
部屋の中央でお茶とお饅頭を口に交互に運んでいた麗が
「お母さんが説明してくれるから大丈夫。とりあえずお菓子とお茶でもどうぞ」
麗に手招きされたので、ベッドから降りて床に腰掛けて四角のテーブルの前に置かれた手を付けられていない湯呑みに口を付けた。
あまりお茶を飲むことがないのだが、何だが目まぐるしい理解が出来ない事態に陥っているのでホッと一息できる。ふと湯呑みの中を見ると茶柱が一つ立っていた。
はじめの隣には美鬼が彼の左腕にしがみ付いていて、その正面に麗が座っていて、凜は紗理奈の正面に座り出した。右側で美鬼が人目も憚らずに初めに寄り添っている姿を見ていて、やはり時代劇でよく見る花魁を思い浮かべてしまった。
「はい――では、安心して下さい――はい――では失礼します――代わりますか?」
会話が一段落ついたのか、紗理奈の元にスマホが手渡された。はじめと美鬼に見とれていて凜が話している内容を良く聞いていなかったのだが、どうにかなったのだろうか?
「もしもし……」
『なるべく早く帰ってきなさい。ご飯はまだ食べてないからね。今度お手伝いする時は連絡すること! 忘れないで』
「はい……ごめんなさい」
電話を切ってから瑠美にも連絡を入れようと思いすぐに行動に移した。
《瑠美ちゃんごめんね。今まで眠ってた。詳しいことはあとで連絡するからね》
スマホをポケットに入れようとした瞬間に振動したのですぐに返信が来たのだと解った。すぐに確認すると
《大丈夫だったの? 電話が切れたから心配してた!》
《ごめんね。今は何ともないから安心して。後で必ず説明する》
はてさて、家族にも瑠美には無事であることを伝えたが、次に何をこの人達と話すべきか自分では解っていなかった。
しかし、聞きたいことは沢山あってその中でも今一番聞きたいことは――。瑠美が言っていた。この町は変だと。実際に自分の身に起きたことで瑠美の話していたことが全て真実かもしれないと思っている。
この目で見た口裂け女は実際にいたのだから、他の話の信憑性も格段に上がってしまうのは相乗効果というやつだ。
この町は何かおかしくなってしまったのだと今なら理解できる。
そして、先ほどのはじめの説明によるとやはり瑠美の言っていた水木神社が妖怪変化を倒している退魔師であると言うことは解ったのだが、どうしても納得がいく説明が必要な事柄がある。
いやそもそもだ、この場にいることに安心して自分の保身が完璧に安全である保障が何処にあるというのだろうか。
ましてや、いまさら疑うのも遅すぎるが、ここにいる自分以外の存在が本当に人間であるのか疑心暗鬼になってしまうのは今更過ぎて馬鹿げているかもしれないが、どうしても納得のいく答えが欲しい。まずはそこからだ。
「あの、宮部……先輩、聞いても良いですか?」
「何かな? 答えられることなら大丈夫だよ」
「……その……皆さん……人間ですか?」
一度口を閉じて良く考えを巡らせる必要があったかもしれない。一人だけもうすでに人でない存在がそこに座っている。
しかも今の発言で目を細めて完全に威嚇している。完全に失敗した発言だったが後悔してももう遅すぎる。
「わっちの旦那様に対してなんじゃその言葉! 折角助けてやったちゅうのになんなんやおどれは! なまらムカつく!」
案の定のことだが美鬼はかなり憤怒していて、これ見よがしに八重歯と呼ぶにはあまりにも鋭い歯を出している。
今にもこちらに飛び掛かってきそうな勢いがあったが、はじめが美鬼の頭を撫で始めた。
「まぁまぁ美鬼ちゃん落ち着いて。疑うのも無理ないよね。大丈夫だよ。僕達は……美鬼ちゃん以外は人間だから安心して」
「旦那様はお優しいでありんす。さすがわっちが見初めたお方でやんす」
まるで猫のように寄り添う美鬼の姿にどう反応すれば良いのか解らず、今自分が相当間抜けな顔になっていることは百も承知である。
それにしても対応の温度差があり過ぎるし、先ほどから美鬼が話し出す度に色々な方言が出るのがとても面白いと思う自分がいた。それにしても女性である自分が思って良いのか解らない感情が込み上げてくる。
何て可愛い生き物なんだ!
落ち着け自分と言い聞かせて質問を続けることにした。
「あの、もう一つ良いですか?」
「何かな?」
「この町は……変ですか?」
「変……って言うと?」
「この町に……何か……良からぬことが起こっているんですか? あの……パレードの日から――」
はじめはその話を聞いて少し驚いていた。瑠美の言っていたことはどうやら的を射ているのは確かなようだ。
「あのパレードって言われているものは――ごめんね。それを話すことはできないよ。でも、この町に起きていることの原因になったってことだけは教えておこう」
突然、部屋の和んでいたような雰囲気から一変し、殺伐とした空気が充満してクーラーの冷風がやけに身に染みるようだった。
「旦那様……わっちは忘れんせん。だって、わっちは――」
「美鬼ちゃん……」
二人は見つめ合って意思の疎通をしていたが、はじめは視線を紗理奈に戻した。
「えーと、パレードの後から現界って言う今僕達がいる世界と妖怪変化の住む異界との均等が崩れてしまったんだ。それから奴らは境界を越えて現界に出現するようになってしまった」
「それよりもさ、はじー。どうすんの? また逃がしちゃったんでしょ?」
麗が口にしたのは恐らくは口裂け女のことであることは解るが、そういえば美鬼の発言で女狐がどうのと話していたのは何のことなのだろうか。
「そうよはじめ。三週間で二回も取り逃がしてるんだからね。怪我する人がいないのはありがたいことだけども。このままでは家の面目が潰れてしまうのよ」
凜もはじめに向けて言葉を発した。はじめは分が悪そうに顔を顰めて右眉を掻き始めた。
「うぅ、母さん作戦はあるよ。明日も今日と同じようにキョウコさんに協力してもらおうと思うんだ」
その言葉を聞いた麗は今まで見せていた元気印のような笑顔が消え去り、睨み付けるようにはじめを見た。
「はじー、あのキュウビ、いつまでこの町にいるつもりなの?」
「姉ちゃん、解ってあげてよ。キョウコさんはもう、里に帰れないんだ」
キュウビとは何だろうか? 瑠美に聞いてみたら解るかもしれないと思った。
「それで?」
麗は目を細めながらそう言った。はじめは
「いつもの場所にいてくれると助かるんだけどね」
っと口にすれば、美鬼が声を荒げた。
「あの女狐に頼むくらいなら、わっちは昼夜問わず異界であの女を探して見せますぜよ旦那様!」
「そんなことしなくても良いよ美鬼ちゃん。異界は広いし、一応キョウコさんは美鬼ちゃんより長生きしてるし、キュウビの中でも上の位にいるキョウコさんの占いは外れることはないからね」
「はうー」
意気込んだり落ち込んだり感情の起伏が激しい。鬼だと言われても頭にある朱色の角以外は普通の、いや、綺麗な顔立ちをしている美鬼は女性から見ても美人である。
角が光ったりしているのは、おおよその予想としては感情の移り変わりに反応しているのかもしれないと思った。そんな事を思っている紗理奈に凜が
「ごめんなさいね。身内の話ばかりで解らないでしょ?」
「い、いえ。私は……」
「お饅頭でも食べる?」
「大丈夫です。帰ったら夕飯食べるので」
「じゃあ帰ってからお母さんの作るご飯はちゃんと味わって食べてね。いつまでも今が当たり前じゃないかもしれないから。今をしっかりと噛みしめてね。はじめ、美鬼ちゃん、紗理奈ちゃんを送ってあげてね」
「解ったよ」
「畏まりました、お義母様」
「じゃ、じゃあ、そろそろお暇します」
お茶を飲み干して立ち上がるとはじめも一緒に腰を上げた。はじめの後に釣られて美鬼もゆっくりと立ち上がろうとした所に、はじめが手を差し出して補助していた。
さり気ない光景のようだったが、二人はお互いに好き合っているのかなと思った。はじめが鞄を手渡してくれて、先にはじめと美鬼が部屋を出た。紗理奈は部屋を出て行く前に凜と麗にお辞儀をした。
「ご馳走様でした。あと、ありがとうございました」
「お粗末様でした。また妖怪変化のことで困ったことがあったらいつでも頼ってね。最近は大物から小物まで色々いるからねぇ。はじめは無料だけど私は高いけどねぇー」
その言葉を聞いた凜がすかさず麗の頭を軽く手刀した。
「麗、あなたもまだまだ修行中の身でしょ。あなたにはまだまだ身に付けるべき教養があるのよ」
「てへっ」
「きちんとした退魔は、この宮部凜が承ります。それじゃあね紗理奈ちゃん」
「はい……お邪魔しました」
「あ! あとね」
「はい?」
凜に呼び止められて紗理奈はドアの前で立ち止まった。
「これから本当に気を付けてね。あなた、妖怪変化に取り憑かれやすい体質みたいだから」
はじめと美鬼に連れられて玄関まで行く途中には、開けられていない段ボールがあちこちにあった。
まだ整理している途中なのだろうと思った。はじめは途中で仏間のある部屋に立ち寄って、飾られていた竹刀袋を持って出てきた。玄関には自分の靴が綺麗にそこにあった。
先にはじめと美鬼が玄関の扉を開けて外に出た。美鬼はかなり厚底な黒の高下駄を履いていて、はじめの隣に寄り添って待っていた。
高下駄を履くと美鬼の身長ははじめと同じくらいになり、結構、いや、とてもお似合いなふたりだと思った。
「美鬼ちゃん、服と、あと――」
はじめは美鬼の角を見つめて、それを美鬼は直ぐに察したようだった。
「解っておりんす旦那様」
美鬼が指をパチンと鳴らすと一瞬で服装が紗理奈と同じ女子高生の服装へと変化して、頭にあった角も綺麗になくなっていた。
「じゃあ、行こう」
アパートが四階だったと解ったのは階段を降りる時の階の数字で解った。
そして、此処が良く高校の帰り道として使っている道中であることに道路に出た時に気が付いた。何を話せば良いのか解らないでいるとはじめから話を振って来てくれた。
「今は姉ちゃんのお経が効いてるから境界に入り込まされることはないし、僕と美鬼ちゃんがいるから安心して良いからね」
紗理奈の隣を歩いているはじめは竹刀袋を右肩にぶら下げ、左側は美鬼がずっとくっ付いていた。
それよりも最後に凜に言われた言葉が頭から離れることがない。取り憑かれやすいと言っていたが、今までそんなことが人生、十五年生きてきてあっただろうかと思い返してみるが、どうしても思い当たる節がない。
そんな自分とは打って変わってはじめと二人の時間を邪魔されていると思っているであろう美鬼の向ける視線が痛い。
幸せそうな顔をしていながらも、こちらに向けている視線のあからさまな敵意は隠して欲しいものだと思った。それでも美鬼は可愛いったらありゃしない。
自分にもその愛が溢れる眼差しを一瞬でも良いから向けて欲しいものだ。いや、決して、断じて自分は百合の波動など……
紗理奈の不純な感情など知る由もないはじめは場を持たせようと何気ない会話を続けてくれていた。
「今年はまだ暑いね」
「はい、そうですね」
「紗理奈ちゃんは姉弟いるの?」
「妹が一人います」
「そうなんだ。妹さんは何歳なの?」
「一つ下ですよ。今中学三年で今年受験なんです」
「へぇー、妹さんは何処の高校行くの?」
「ウチの高校を受験するんですよ。お姉ちゃんと同じ所に行くって言って」
「仲良いんだね」
「宮部……先輩もですね? あの……お姉さんと……」
「まぁね。でも去年は酷かったよ。大学受験のプレッシャーに押し潰されそうになった姉ちゃんの八つ当たりはやばかったよ」
二人だけで会話しているのが心苦しくなるのは、決して好意を抱いている訳でもない。今日初めて会った男性の隣にいる彼女の独占欲による嫉妬に他ならない。
いや、彼女なのかどうかは推測の域を達していないわけだが、旦那様と呼んでいるのだから美鬼がはじめに対してはぞっこんラブなのは解る。
はじめはどうなのだろうか? ましてや人間ではないという鬼の少女である美鬼のことを、どう思っているのだろう?
「あの……」
「どうしたの?」
「宮部先輩と、その、美鬼さんとの関係って……」
「えっとね、まぁ魂で結びついてるって言うのかな? そんな感じだよ。僕が彼女を助けたって言うか……何て言うか」
「ぬしにわっちと旦那様の馴れ初めを語るなど、美しい思い出を汚されるようで嫌でありんす」
「あの……ごめんなさい……」
日本人特有の口からすぐに飛び出す謝罪の言葉を言ったが、そうは言ってもはじめも人間であるという突っ込みを入れるのは、自らの寿命を縮めることになるのが目に見えているので封印することにした。
徐に夜空を見上げた美鬼が
「旦那様――」
っと急に立ち止まり声を発して指差した。その指先には綺麗な真ん丸お月様が照らされていた。立ち止った二人の表情は、どこか寂しそうな、いや、すぐにでも壊れてしまいそうなガラス細工に似た儚さを帯びていた。はじめは美鬼が指差していた月を見つめ終わると彼女の顔を引き寄せおでこを合わせた。紗理奈は思わず
「うわぁ」
っと小声が出てしまった。そして二人は少しの間、お互いの瞳を見つめ合っていたが、はじめが沈黙を破った。
「月が綺麗だね」
「はい――旦那様――」
一体どういう意味なのか良く解らなかったが、はじめはようやく紗理奈の方を向いて
「ごめんね紗理奈ちゃん、行こうか」
「……は、はい……」
歩き始めた二人の後を金魚の糞の如くついていく紗理奈は、美鬼が先ほどよりもさらに強く、はじめの腕にしがみ付いているのに気が付いた。はじめが口にしたあの言葉は、二人にとって何か意味がある言葉なのだと思った。あの言葉がどういう意味なのか考える猶予もなく、すぐに家に辿り着いた。
「ここが家です。今日は、ありがとうございました」
「ううん、無事でいてくれて良かった」
はじめの微笑みは穏やかで、気のせいかもしれないが、やはり何処かで会っているような気がした。
「あの……」
「どうしたの?」
「私の事、先輩の家まで運んだのは?」
「あぁ、それはわっちやで。旦那様がわっち以外の他の
「はい……すみません」
「じゃあね」
はじめと美鬼は外灯の照らす今さっき歩いてきた夜道を戻って行った。スマホで時間を確認すると八時ちょっと前になっていた。
緊張の面持ちでドアに手を掛けた。とりあえず凜が言い訳をしてくれたようなので何とかなるとは思うのだが、それでも不安が残ってしまうのは致し方ないことだろう。
「ただいま」
玄関を開けるとすぐに母がやって来た。怒っているようには見えないが、少し疲れている表情をしているのが解った。
「お帰り」
「お母さん、ごめんなさい……」
「次はちゃんと連絡するのよ。早く着替えて。ご飯、食べないで待ってたのよ」
「うん、ごめんね……」
靴を脱いでからすぐに二階の自分の部屋に入って着替えを始めようと思ったが、その前にやらなければいけないことがある。瑠美に連絡を入れることだ。
《今電話大丈夫?》
着替えている間に返事が来ることを願いながら制服を脱ぎ始めた。ネグリジェに着替え終わってすぐにスマホを見ると返事が来ていた。
《良いよ》
これから話すことを瑠美は信じてくれるだろうか? あの時感じた恐怖を自分の口から相手にキチンと伝わるようにできるだろうか? そんな不安を抱きなが彼女に電話を掛けた。
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