其の参(加筆修正版)

 目覚めると目の前の光景はいつもと変わりない自分の部屋のベッドの中であることが、こんなにも幸せであることを実感できる日が来るとは思っていなかった。


 昨日は眠る瞬間まで口裂け女の顔が脳裏を横切って部屋の電気を消すことができなかった。


 まずは部屋の電気を消して着替えを始めた。着替えている途中でスマホに設定していた目覚ましの音が鳴ったので止めた。


 昨日の出来事が全て事実であることが信じられない。それでも本当に起こったのだから目を逸らすことなど出来るはずもない。


 恐怖は未だ心に棲みついて少しずつ蝕んでいるのを感じる。それは目に見えることはないが、確かに恐怖は常にすぐ傍にあって離れることはできない。一体いつまで恐怖は心に棲み続け、自分を苦しめるつもりなのだろうか。


 いつもと変わらない日常の風景がこんなにも愛おしいと思えるのが幸せである。母の作る食事を美味しいと触覚と嗅覚で感じながら胃の中に入れていく。


 隣では、いつもと同じように妹が口にご飯を運んでいる。正面には女手一人で自分達を育ててくれた母の姿。


 しかし、昨日の夜もそうだが、まるで色がない白黒のモノクロの世界にいるような感覚がする。それに、母と妹の顔をしっかりと見ないまま、ただ口元だけ、唇だけで目を合わせよとしない自分がいた。


 今ならスリルなど求めるものではないと思える。そんなものは人生に必要なスパイスでなどない。


 そんなことは経験しなくても良いことなのだ。昨日の夕飯の時には心ここに非ずの状態でしっかりと噛みしめることができなかったが、今になって凜に言われた言葉が重く圧し掛かってきた。


「いつまでも今が当たり前じゃない」って。でも、この当たり前がずっとこれからも当たり前でいて欲しいと心から願った。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 妹に話しかけられたが、彼女の顔を見ることができず、口元だけを見つめて返事をした。


「何が?」


「何か難しい顔してるよ」


「何でもない……何でもない……」


「え!?」


 突然妹が大きな声を上げたので母もそれに釣られて食卓から顔を上げて心配そうな顔で紗理奈を見つめた。


「どうしたの紗理奈?」


「だから何が?」


「お姉ちゃん、泣いてるよ」


「え!?」


 自分でも気付かずに自然と涙が流れていた。目に溜まって涙が溢れたわけではなく、瞬きする度に細々と涙が流れていたのだ。そして、家族の顔を見た。


 大切な自分の家族の顔を今改めて見た。女手一つで自分と妹を育ててくれた母、いつの間にか少しばかり目尻に皺ができていた。


 自分よりも少しばかり端正な顔立ちをした妹は、あどけなさのなさの残る純朴な瞳で見つめていた。


 こうしてみると鏡で見る時の自分と二人は良く似ている。家族なのだから当たり前ではあるのだが、特徴的な三白眼やスラリとした顔立ちは、お婆ちゃん譲りなのだ。


 ようやくモノクロだった世界に色彩が戻ってきた。そして、心配してくれている家族に自分が今言える精一杯のことを口にするべきだと思った。


「……今日のご飯……美味しいなって……う……う、うわーん」


 さらに涙を流していることを自覚した途端、急に嬉しさが込み上げてきた。母と妹は呆気にとられていたが、二人は紗理奈に寄り添って母は頭を撫で始め、妹は背中をさすり始めた。


 息が詰まる退屈なものと思っていた何の刺激もない穏やかな日常は、実はあまりにも大切でかけがえのないものであるということを思った。物事を知っているような考えをして、ただ背伸びをしていただけなのだ。


 溜まっていたものを吐き出したいだけ吐き出したので、とても清々しい気分になった。


 母と妹は不思議がっていたが、「何でもないから」っと言って、駆け足で早めに食事を済ませて学校へ向かった。


 学校へ行く通学路では常に後ろを振り向きながら歩いた。道中で同じ高校に行く生徒を見かけると近くまで走って一人にならないようにした。


 今まで気になどしたことがなかった路傍に転がっている石をいつもよりも凝視して見つめている自分がいた。


 いつもよりも世界に目を向けているのだと、そう、関心など持っていなかったいつもの日常を噛み締めているのだと思った。


 いつもよりも早い時間に登校したので、教室にいるクラスメイトは少なかった。それでも、自分の前の席に赤い眼鏡の彼女はいた。本を読んでいた彼女は教室に入って来た瞬間に紗理奈を見て


「おはよう、黒木さん」


「おはよ、瑠美ちゃん」


 机に座ると前を向いていた瑠美は紗理奈の方に向いてすぐに話し始めた。


「黒木さん、昨日も言ったけど、私はあなたの話を信じるからね」


「うん、ありがと」


「でもね、他の人に話しちゃ駄目だよ」


「解ってる」


「ちょっと良い?」


「何?」


 瑠美は突然鞄からカメラを取り出して何も言わずにシャッターを押した。


「え!? なになに!?」


「ちょっとこれは必要なことなの。確認作業ってところ。だってね」


「だって?」


「私はあなたを守るって決めたから」


 突然何を言い出したのかと思ったら、まるでプロポーズを受けた気分になってしまった。


 こんなセリフを男性から聞いてみたいと思ってみたが、どうもしっくりくる男性のイメージが思い浮かばず、何故が美鬼からそんな言葉を言われたいという妄想が始まってしまった次第であった。


「あと、ちょっと今日、もしかしたらだけど、放課後、黒木さんの時間、貰っても良い?」


「別に良いけど、何をするの?」


「ちょっとね」


 まるでウェンディを連れ去る時のピーターパンのような顔をした無邪気な瑠美の顔は抱きしめたくなるほど可愛かった。抱きしめても良いですか?


 クラスメイトが全員集まる前に、あまりクラスで目立たない黒縁眼鏡の女生徒、玉井たまい朝比あさひに瑠美は話しかけて二人で何処かに行ってしまった。


 確か自己紹介の時に、瑠美と同じ中学校出身だったような気がする。自分とは住む世界が違うだろうと思ってあまり気にしていなかった。


 二人はホームルームには戻って来たが、一時限目の授業が終わるとまた二人で何処かに行って、また戻って来た。


 それはそれでちょっと気になるのだが、それはそうと今日の授業はすっと頭に入ってくる。


 今まで意味があるのかなどと小難しい馬鹿げた理論を思考していた昨日とはまるで違う。そう、考えるまでもないのだ。


 だって、人生にとって必要な教養は常に目の前に広がっているのだから。それを自分勝手な言い分で疎かにしてはいけないのだ。


 二時限目の授業が終わると今度は一人で瑠美はすぐに教室から出て行ってはチャイムが鳴る直前に帰ってくるという行動を繰り返した。


 昼休みには、いつもなら教室でお弁当を食べている姿を良く見るのだが、今日に限っては直ぐに教室を出て行った。食堂に通っている紗理奈は瑠美を見つけることができなかったので、何処で食事を済ませているのか気になった。一緒に食べようと思っていたのに。


 そして、結局は授業の始まる直前まで教室に帰ってくることはなかった。一体何をしているのだろうか?


 午後の授業は何処かに行くことはせずに、クラスメイトと雑談していた。紗理奈も結局は朝に瑠美と話しただけでその後は一言も口を聞いていなかった。


 昨日少しだけ距離が縮んだと思っていたが、昨日の今日ではそこまで仲良くなっている訳ではないのだと少し寂しくなった。


 そして、ホームルームが終わって放課後になった瞬間に瑠美は勢い良く紗理奈を見た。


「黒木さん、今日はとことん付き合ってもらうからね」


「解った。何処行くの?」


「とりあえず私についてきて」


 百年戦争でフランス軍を導いたジャンヌ・ダルクのような先導で紗理奈の前を歩いて行く瑠美は頼もしく見えた。


 それでもジャンヌ・ダルクの最後は悲劇としか言えないのだが、同じ運命が瑠美に訪れることがないように、信じてもいない都合の良い時にだけに頼る神に祈ってみても良いだろうか。


「ねぇ? 瑠美ちゃん、何処に行くの?」


「とりあえず学校の近くの駄菓子屋さん。少し時間を潰さなきゃいけないの」


「うん、解った。良いよ」


 外に出ると自然と汗が一気に噴き出してきたのでフェイシャルペーパーで拭き取った。


 雲一つない晴天に輝く太陽は月と交代する準備を進めるにはまだ早すぎるくらいで、陽が沈むというには不十分なほど高かった。


 駄菓子屋は学校の近くにあってレトロなゲーム機なども置いてあって、テレビでも取材されるほど結構有名なお店で、昔からあるからこそ皆がそこで集まったり休憩所になっていたりする憩いの場である。


 地元の人間なら一度は行った事のあるお店であり、紗理奈はかつての常連とまではいかないが、子供の頃は妹を連れて初中後来ていた。


 夏はソフトクリーム、冬は大判焼きを売っているので、学校帰りやわざわざ来て買いに来る人もいるほど、どちらも美味しい。


「私ここのソフトクリーム初めて食べる」


「とっても美味しいよ」


「楽しみだなぁ」


 帰りに寄り道をしては胃に食物を入れていは太ってしまう危険性があるのだが、そこを今は気にしないでダイエットの機会など山ほどあるし、生きていて一緒に楽しむことの出来る幸せの瞬間はその時しかないのだと自分に言い聞かせる。


 駄菓子屋に入ると小学生くらいの男の子三人組がゲームをして遊んでいたり、同級生や上級生が駄菓子の小さなカップ麺を食べている姿も見られた。


「おばちゃん、ソフト二つとコーラ二つ下さい」


「あいよ。ソフトクリームはちょっと待ってね。入れたばかりだから固まってないのよ」


「「はーい」」


 それぞれお金をおばちゃんに渡して入った涼しいガラスケースの中に入った瓶のコーラを取り出してソフトクリームが出来上がるのを待っていると、不思議そうにしている瑠美が気になった。


「これどうやって開けるの?」


「瓶のコーラ?」


「うん。手で開かないよ」


「これはね、そこにある栓抜きで開けるの」


 紗理奈は置いてあった栓抜きを取ってコーラを開けてみせると、瑠美は初めて見る衝撃の光景に嬉しさと楽しさを見つけたようだった。


「すごーい」


「簡単だよ。あんまり力入れないでね。傾けすぎると中身が零れちゃうからね」


 シュッポっと良い音を立ててコーラが開いた。二人で少し見つめ合ってから瓶をカチンと合わせて


「「乾杯」」


 そして、瓶で飲むキンキンに冷えたコーラの美味しい。喉を通る時の炭酸で満たされた瞬間に幸せが昇ってくるようだ。


 駄菓子屋の中はクーラーが効いていて快適な空間だが、少しばかり狭いと感じるのはご愛嬌と言ったところだろう。


 店内の至る所に様々な駄菓子が置いてあり、とても懐かしいと感じる品物まであった。


「これ懐かしい! まだ売ってるんだ」


 紗理奈はソフトクリームが出来上がるまで店内を見ていたが、瑠美はお店よりもずっと外を見ていた。


「はい、お待たせー」


 ソフトクリームをもらって


「ありがとう、おばちゃん」


 手渡された紗理奈はすぐに瑠美にも持って行ってあげるとチェーン店が作るような綺麗な形でないソフトクリームに笑っていた。


「ふふふ、面白いね」


「確かに。でも、味は絶品だから」


「いただきます」


「私もいただきます」


 一口食べた瞬間に広がるミルクの濃厚な味わいを舌で感じると自然と言葉は一つしか出て来なかった。


「至福―」


 瑠美も


「至福だね」


 っと笑顔になって答えてくれた。こうしているとずっと友達だったかのような錯覚に陥ってしまう。


 ずっとこれが続けば良いなと深く、深く願った。ソフトクリームを食べ終わってから寛いでいると徐に瑠美は腕時計を見た。


「そろそろ時間かな。ねぇ黒木さん、ついてきて」


「今度は何処行くの?」


「きっとそこにいるの。教えてもらったから、きっとそこにいるはずなの」


「そこにいる? 誰のこと?」


「それは行ってみてのお楽しみ」


 暑い日差しの中を歩き続けている道中にも会話が途切れることはなかった。それから昔の話っと言っても中学時代の話が始まった。


「瑠美ちゃん、中学でも成績良かったの?」


「成績は……えっとね、勉強より部活に専念してた。私サッカー部だったの。一所懸命に練習してレギュラーになりたかった」


「スポーツも万能なんだからすぐになれたでしょ?」


「……えっと……私……」


 瑠美は少し俯いて


「……ある日、私は……」


 そこで口を噤んでしまった。紗理奈の方を見ることもなくただ視線を逸らしているばかりだったが


「……この話は、また、今度しよ」


 っと言って無理矢理にでも笑顔を作った。突っ込んで欲しくないことだろうと察した。それくらいの気遣いくらいはできる女だ。


「うん、今度ね……あの、私中学の時はテニス部でね、日焼けが半端ないし上下関係厳しくてきつかったの。それでね――」


 少し俯いていた瑠美を明るくしてあげたいと思ったから、あまり人に話したことのないエピソードを選りすぐったが、面白いかどうか判断は難しい。身内ネタでどこまで彼女を笑顔に出来るか、腕の見せ所である。


「先輩の男子と練習試合があってね。サーブ打ったら自分が狙ってもいない場所に飛んでさ、それが先輩の、いや、男子の大切な場所に吸い込まれるようにボールが」


「大丈夫だったの?」


「それが悶え苦しむとはあの事だね。大事な所を抑えてコートに沈んで皆で駆け寄ったら先輩が一言、気持ち良いって」


「いやぁぁぁぁー。キモい」


「でしょでしょ? マジ皆ドン引きしたかんね」


 ようやく笑ってくれて肩の荷が下りた気がした。それにしてもどこに向かっているのだろうか? 


 歩き始めて十五分くらい経ったと思うのだが、駅から少し離れた並木道で、すぐ近くで小さな川が流れている。


 春には桜が満開になって絶好のスポットになる場所だが、普段からペットの散歩やジョギングをする人が絶えない場所である。ここに何があるのだろうか?


「ここら辺だよね?」


 瑠美は辺りを見渡して何かを探しているようだったが、紗理奈には彼女が何を見つけようとしているか皆目見当も付かない。


 自分には事前情報が一切ないので、一緒に探そうにもできないのだから。歩きながら瑠美は周囲をくまなく見渡していると


「いた!」


 突然に大きな声を出して指を指した方を見ると並木道から石段を上がって道路に面したところにその人はいた。


 後ろ姿で顔は見えないが、こんなに暑いのに血のように真っ赤なヴェールで頭を覆い、濃い血のようなこげ茶色にも似た着物を着た女性がそこにいた。実しやかに噂される絶対に当たる占い師が目の前にいた。


「あれって――」


「そう、あの人はね、絶対に当たる占い師だよ」


「だ、誰から、あの人がここにいるって聞いたの?」


「事情を説明したら教えてくれたの」


「だから、誰からそれを聞いたの?」


からだよ」


 その名前を口に出された瞬間、瑠美に裏切られた気持ちになった。今までこうして一緒にいたのは、ここで占い師に会うためだったと知っていたら、絶対にここに来ることはなかったし、瑠美をどうにかして止める為に説得していたはずだ。


 昨日の夜、彼女に話したはずだった。それを伝えられた気でいた。しかし、自らが体験した恐怖が瑠美には伝わっていなかったのだ。


 むしろ、面白いとでも思って聞いていたのだと思うと、涙が自然と目の前の景色を揺らめかせた。それと同時に込み上げてくる感情を抑える事ができずに叫んだ。


「どうして! 私言ったでしょ! もう二度とあんな思いをしたくないって! あんなに怖かったのに……私の……信じてくれると思って話したのに……私のことを理解してくれると思って話したのに! 友達だと思ったのに!」


 周りの目など関係なく泣き喚く姿は、さぞ醜態を晒していると自覚している。それでも、この気持ちを抑え込むやり方を紗理奈は知っている訳ではなかった。


 通り過ぎていくヘッドフォンを付けてジョギングをしている人ですら、二人を遠目からじっと見始め、散歩中の犬は怒鳴り声を上げている紗理奈に向かって吼え始めた。


「落ち着いて聞いて黒木さん。これはあなたの為なの」


「何が私の為なの! 全然解んない! 私は二度と宮部先輩と関わりたくないって言ったよね! 言ったよね!」


「解ってるよ」


「なら! ならどうして!」


「あなたは妖怪変化に取り憑かれやすいの。つまり妖怪変化に狙われやすい。そして、口裂け女はきっとまた、あなたを襲ってくる。宮部先輩のお姉さんが掛けた呪文はもう効果がないの」


「そんなことどうして解るの! 何も解ってない! あの時! 私は! 本当に死ぬところだったんだだよ!」


「お願い! これを見て!」


 瑠美が鞄から取り出したのは一枚の写真だった。何を見せよとしているのか全く理解できない。怒りに身を任せて乱暴に写真をもぎ取って見てみた。そこには


「な、何……これ……」


「良く見て黒木さん! あなたは!」


 写真は今朝瑠美が撮った物だった。そこには自分が写っていた。それは当たり前のことだ。他のクラスメイトが見切れて映っている。それも当たり前である。


 そうではない。一目で見ただけで映ってはいけない物がそこに映っていたのだ。薄っすらと残像のような鎌が紗理奈の首を引き裂こうとしている写真だった。光の加減で鎌のように見えるのではない。


「これって……」


「あなたが取り憑かれやすいって聞いて妙な不安を感じたの。それを早く確かめたくて今朝写真を撮ったの。写真部の人に頼んですぐに現像してもらったら、それが写ってた。私は確信した。呪文の効果がもうないことに。だから、必死で二年生の教室を駆け回って宮部先輩を探した。そして、写真を見せたら、宮部先輩がキョウコさんに見てもらおうって言ったの」


「どうして? どうして占う必要があるの?」


「占ってもらうんじゃないの」


「じゃあ、一体何をするの?」


「それはあなたを狙う為に付けた印だって宮部先輩は言ってた。逆にそれを利用して口裂け女が何処にいるか突き止めようとしているのよ」


「そんなことできるの?」


「説明したでしょ? 九尾の狐、もとい妖狐は、稲荷大明神の第一の神使しんしでもある。九尾の妖力は人を超えた、絶対的な見えない力。私の知識の箪笥に入っている、妖怪変化の中でも恐らく鬼とも互角に渡り合える最強クラスの存在なの。きっと力になってくれるって宮部先輩が言ってたの」


 またしても理解の許容範囲を超えた話を展開されて脳の処理が追いつくことができない。そして、ふと疑問に思ったことがある。


「ねぇ瑠美ちゃん、宮部先輩は、何処にいるの? 私を守ってくれないの?」


「あなたをずっと。美鬼さんがね。足元の影の中でね」


 紗理奈は地面に映った自分の影を見た。何の変哲もない自分の影にしか見えないが、突然に美鬼の頭が影から突き出してきた。


「きゃ!」


 美鬼はいつから自分の影の中にいたのか? 美鬼は影からするりと出てきて、また蔑むような冷たい目線で紗理奈を見た。


「全くしょうがねぇ女でありんす。旦那様がお前達を勝手に行動させへん」


「あ……あ……」


 周りを見渡すと今この光景を見ているのは紗理奈と瑠美だけしかおらず、周りにいた人たちはいつの間にかいなくなっていた。


「あ、あれ?」


「ここはわっちが作った境界の中でありんす。普通の人間は境界には近づくことはできん。妖怪変化に一度でも遭遇したことのある者でなければ、わっちの境界にいることはできんからな」


 美鬼は一度瑠美を見たが、すぐに視線を紗理奈に戻して語り始めた。


「ぬしがもう会いたくないなどとぬかすから、旦那様は気をつこうてくれたんじゃ。感謝しっせ」


「私、宮部先輩に連絡しますね」


 瑠美がスマホを取り出して電話をし始めた。その間、美鬼は目を細めてメンチを切りながら紗理奈に近づいて来る。


 後ずさりしても追ってくる美鬼は昨日体験した口裂け女の鎌のような鋭い視線で怖かった。


「すぐに来るそうです。近くの喫茶店で時間を潰して下さってました」


 瑠美が電話を終えたので、美鬼はメンチを切るのをやめて、、昨日と同じように指をパチンと鳴らすと二人と同じ高校の制服の姿へと変わり角も消えてしまった。


「ほんじゃま、境界から出るぞ」


 美鬼はそう言ってから、ふと思い出したように



 っと言った次の瞬間、グラッとした感覚に襲われ、何故か無性に楽しいとか言う今どうしてそんな感情を抱くのか解らない物が込み上げてきたと思ったら、急に悲しくなり涙を流しそうになった。


 最後に心臓の鼓動が生きてきて動いたことのない凄まじい速さでバクバクして、鳴動で身体が揺れているとさえ思ったが、それは全て一瞬で起こり風のように過ぎ去った。


「気持ち悪い……」


 紗理奈は今の感覚で胃の中に入っている物が逆流して飛び出してくるのではないかと思う程の感覚に苛まれた。


 瑠美も同じように口に手を当てて必死に堪えている。境界から出るのは恐らく二度目だと思うのだが、これを何回も食らうと頭が可笑しくなりそうだと思った。


 そして、そのタイミングではじめが竹刀袋を担ぎながら遊歩道を走ってこちらにやって来た。


「お待たせ」


「旦那様!」


 美鬼は歩いてくるはじめに向かって走って行き、そのまま抱きついた。その反動ではじめはバランスを崩しかけたが持ち直して美鬼を抱えた。


「寂しかったでやんす旦那様」


「よしよし。頑張ったね美鬼ちゃん、えらいえらい」


「はうー」


 美鬼が頭を撫でられている姿は主人の帰りを今か今かと待っていた家犬のようだとふと思った。はじめは美鬼を撫でながら紗理奈と瑠美を見ると笑顔のまま話した。


「じゃあ、キョウコさんの所に行こうか」

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