其の陸

 太陽が顔を出し、暑さが込み上げてくる直前の朝方。町は静まり返っているが、朝の散歩やランニングをする人が道に出来てきた。海の方では漁師がすでに漁から帰って来て水揚げをしていた。


【紗理奈! 紗理奈!】


「うーん……」


 頭の中に響く声が聞こえても先ほどまで考え事をしていた紗理奈は、やっと瞼が重くなって眠りに就いたところだった。気にせずにそのまま寝ようとすると


【起きんかボケ!】


「ふにゃ?」


 目を開けて頭の中で響く声に気が付いた。


【み、美鬼ちゃん!?】


【昨日はすまんかった。瑠美が妖怪変化に襲われたのじゃ】


【え!? どうして!? どうなったの!? 瑠美ちゃんは無事なの!?】


 その言葉で紗理奈が飛び起きたのでココがベッドから「みゃ!」っと言って驚いて逃げてしまった。


【慌てるな。何も心配することはありんせん。先ほど全て終わったところじゃ。旦那様がすぐに解決してくださった】


【なんだぁー。良かったぁー。ちょっと待ってて、今窓を開けるね】


 ホッとしたので胸に手を当てた。そして、美鬼の胸の感触を思い出すと自分には突起物がないので悲しくなってきた。窓を開けると朝日を背にして美鬼がベランダの手すりに蹲踞していた。


「おぬしはどうしたのじゃ? 何度も連絡をくれんしたが? あっちが片付いたので急いできたでありんす」


「あのね、ちょっと話が長くなるけどね。美鬼ちゃんの話も聞きたいし、まぁ入って」


 美鬼は紗理奈に手招きされて部屋の中に入ると、そこにココがいることにすぐに気が付いた。


「この猫又どうしたのじゃ?」


「ココはかぞくだからここにいるにゃ」


 ココは紗理奈の足元で鼻をこすり合わせてゴロゴロと喉を鳴らした。


「えっとね、ココはお婆ちゃんを救おうと駆けつけてくれたの。でね昨日お婆ちゃんが――」


 紗理奈は火車に連れ去れた靖子の話をした。そして、恐らく重要であろう、はじめにも美鬼にも連絡が取れなかったので、その場に現れた京狐とキスして力を与え、火車を追った事を話した。


「なんじゃと! この大うつけ!」


「……ごめん……解っていたけど……あの状況じゃ……京狐さんに頼るしかなくて……」


「まぁ良い。それで? 火車を殺したのか?」


「ううん、京狐さんが地獄の使者を殺すと自分の立場が悪くなるみたいなこと言って、操りを解いただけだって言ってたよ」


「つまり火車も操られていたのか?」


「うん、そうみたいだよ。それでね、火車が言ってたけど、山よりも高い巨体の三つ目に会ったみたいなこと言ってた」


「火車は、三つ目は山よりも高いと言ったのか?」


「うん」


「こちらとは違うのかのぉ」


 美鬼は顎に手を置いて考えているようだった。


「どういうこと?」


「瑠美を襲ってきた妖怪変化は人攫いというやつじゃった。人を攫い喰らう子鬼じゃ。瑠美はすぐにわっちらに連絡してきた。それでそいつを懲らしめたら、そやつは頼まれたことじゃと言った」


「それが三つ目だったの?」


「そうじゃ。しかし、女子のような華奢な身体で美しい顔じゃった言うとった」


「どういうこと?」


「わっちに聞かれても知らんわ」


「そうだよね」


「何人もおるのか? その三つ目とやらは――」


「あ! そういえば京狐さんがあいつの息子って言ってたよ」


「あいつ?」


「京狐さんなら何か知ってるんじゃない?」


「そうか。旦那様に話してみる。じゃあ、わっちは帰る」


「うん、朝までお疲れ様」


 そうして美鬼は朝日の中家々の屋根を飛び越えながらアパートに帰って行った。時計を見ると四時半を過ぎたぐらいだったので、もう少し眠れると思ってベッドに横になった。

 ココも一緒にベッドで寝て目覚ましが鳴るまで眠っていた。身体が相当怠かったが、学校には行かなくてはいけないと思い奮い立った。


「ココは私が学校から帰るまで、ちょっと大人しく待ってて」


「わかったにゃ、おねえさま」


「トイレとかご飯は大丈夫?」


「ココはたべなくてもへいきにゃ。トイレにもいかなくてへいきにゃ」


「解った。じゃあ、ご飯食べてくる」


「みゃあ」


 部屋を出て階段を降りる途中で後ろからドアの開く音が聞こえたので、振り向くとさと美が部屋から出てきたところだった。


「お姉ちゃんおはよう」


「おはよう」


 リビングに行くとすでに靖子が起きて朝食を作っているところだった。


「お婆ちゃんおはよう」


「おはよう紗理奈」


 紗理奈に続いてさと美もリビングに入って来て


「お婆ちゃんおはよう」


「おはようさと美。もうすぐ味噌汁できっから座ってろ」


「うん」


 その後、スーツ姿であきこが来て


「今日は朝から会議だから資料纏めなきゃいけないから朝食いらない。お母さん、二人をよろしくね」


「ああ、解ったよ」


「じゃあ、行ってきます」


「「いってらっしゃい」」


「行っといであきこ」


 早々とリビングを後にしたあきこを見送って三人でご飯を食べている時に靖子が


「昨日は不思議な夢を見たよ」


「どんな夢?」


 味噌汁をすすりながらさと美が聞いた。


「あんな話をしたからなぇ。傘を貸してくれたあの瞬間を鮮明に思い出したよ」


「その話の続き聞きたい! 指切りしてどうなったの?」


 さと美は時間がそれほどないのに、この場で話の続きを聞こうなどと本当に馬鹿だなと思ったが、紗理奈自身も興味がある。時間が許される限り聞いていこう。


「指切りして、毎日会えるようになった。雨の日でも雪の日でもね。会えるのが嬉しくて嬉しくて会いに行ったよ。二年くらい会い続けて、おれ達は恋仲になっていた。そして、おれは会うのを辞めちまった」


「どうして?」


「親が決めた相手と結婚することになったのさ。家の掟に従ってね」


「家の掟って何?」


「昔黒木家にあった掟さね。それに掟のある家なんてあの当時では珍しくなったのさ。おれは学校を卒業して結婚させられそうになった。だからいつものバス停に行って連れ去って欲しいってお願いしたのさ」


「それでそれで?」


「それでおれ達は遠くに逃げて、生まれたのがあきこさ。その一年後に佳代子が生まれた。幸せだったよ。貧乏だったけど家族で良く笑って、笑顔が絶えなかった。全て嘘だったけどね」


「何が嘘だったの?」


「ここからは話せないねぇ」


「どうして!? お爺ちゃんの話もっと聞きたいよぉ!」


 さと美はまた駄々を捏ねているがもうすぐ七時半である。支度して七時五十分の電車に乗らなくてはいけないのに呑気なものである。


「じゃあねぇ、最後はおれを守るために消えちまったのさ。そして、その時、宮部に助けてもらったのさ。おれ達家族を守るために消えちまった代わりにね」


「消えたって何?」


「消えたのさ」


「どっかに行ったの?」


「いいや、消えたのさ」


「さと美、電車時間に間に合わないよ」


「もう! じゃあ帰ってから聞かせてね! ごちそうさま!」


 さと美は急いで食器を片してリビングを後にした。紗理奈も食べ終わって食器を片して出て行こうとしたが、その時、話を思い返して気が付いた。

 昨日感じた違和感の正体が解った。何より一度も言ってない。ただの一度も言葉にしていないのだ。それが意味しているのが何なのか。聞いてみようと思った。

 靖子は三人が食べ終わった食器を洗い始めていた。紗理奈は勇気を出して


「ねぇ、お婆ちゃん」


「なんだい紗理奈?」


「さっきの話だけどさ」


「おれはもうこの続きは話さないよ」


「そうじゃなくてさ。お婆ちゃん、お爺ちゃんってなの?」


 紗理奈の唐突な一言に靖子は動きを止めた。水道の音がリビングに響き、雀たちの声と窓からは太陽の光が部屋を照らしてカーテンを作っていた。


「お婆ちゃん、って言ってない。とは言ったけど、人って一度も言ってない。ねぇ、お婆ちゃん、お爺ちゃんって――」


「紗理奈、学校に遅れるよ」


「……うん……」


 疑惑は拭い去ることが出来ないほど確信に近い。無言の反応はその証拠かもしれない。リビングを出ようとドアノブを握った時


「紗理奈!」


 靖子は水道の水を出したままじっと紗理奈を見つめていた。何かを決意したような顔だと思った。


「良いかい。もう一度だけ言うよ。悪い奴ほど良く笑う。善人の振りした悪い奴ほど良く笑う。だから、笑顔に騙されんじゃないよ。おれみたいになっちゃ駄目だ」


 それ以上は言葉が詰まってしまったのか、靖子は何も言わずに食器洗いを再開した。紗理奈はそのままリビングを後にした。

 これを誰かに、はじめや美鬼、瑠美に相談するべきだろうか? それとも、凜や麗に聞いてみることも考えた。昔からお世話になっているとも言っていた。

 制服に着替えながら言いようのない恐怖が徐々に全身を包み込み、涙となって溢れて来そうになった。何が怖いのか自分では解らなかったが、頭に思い浮かんだのは顔が見えない笑っている口元だった。

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