其の参

 蒸気機関車の煙は黒煙だと思っていたのだが、今乗っている蒸気機関車は白い煙は掃き出している。

 京狐が呼び寄せた物だから現実の物と違うのだろうと思った。星彩はずっと外を眺めると飛んでいる鳥がいて「鳥さんだぁ」っとはしゃいでいた。

 鳴動を座席で感じるなど電車でも体験したことがなかったので新鮮だった。蒸気機関車なので客席は古めかしいのでは思っていたが、今の電車よりも綺麗なのではないかと思うほど清潔感があった。紗理奈は京狐から貰った紙を眺めたが、そういえばどうやって使う物なのか説明を聞くのを忘れていたのに気が付いた。


「あ! どうしよう……これどうやって使うんだろう……」


「近付く者にその文字を放てば良いのです」


「え!? だ、誰!?」


 突然客車を響き渡る声に星彩も驚いて咄嗟に紗理奈に「お姉ちゃん」と言ってしがみ付いた。立ち上がって客車を見渡すが相手の姿は見えない。

 それとも客席の見えないところにいるのか、また姿の見えない何者かだと思った時だった。再び客席に日々わたる声が聞こえた。


「私は偽物です」


 再び客車を見ても何処にも人の影も気配も感じる事ができない。


「偽物って、何言ってるの!? 何処にいるの!?」


「私はあなた達が乗っている汽車です」


「え?」


 二人は客席の床や客席、天井を見た。今乗っている蒸気機関車自体が本体だと言うことが信じられない。そんな時に、前方の客車のドアが開いて、そこから赤文字で「偽」と書かれた白い仮面を被った紺色の車掌の制服を着た者が二人の元に歩いてきた。紗理奈は京狐から貰った紙を翳した。


「だ、誰!? それ以上近付いたらこれで――」


「私です。偽物です」


「へ? だって、今この汽車だって?」


「あなた達が声だけでは動揺しているようなのでこの姿を作りました。この汽車の中は私の空間で、意のままに操ることができるのです」


「はぁ」


 話を理解したくてもどうにも付いていけそうもない次元なので諦めることにした。星彩も何なのか解っておらず、ただ困惑しているだけだった。


「あの、偽物さん、って呼べばよいですか?」


「そうですね。私自身が汽車なので偽汽車とでも呼んで戴きたい」


「じゃあ、あの偽汽車さん、この紙の文字を放つってどういうことですか?」


「簡単です。悪意のある者が近づくと、文字に力が宿り黒色から黄色へと変わります。それを、今私にしているように翳せば、勝手に相手へ向かって文字が攻撃をしてくれます。ただ使用する度に文字が薄くなっていきます。文字が消えれば、もう使用することはできないのでご注意を」


「あの、すいません……何を言ってるのか、良く解りません……」


「その時になれば解ります。もう着きます。安全のためにご着席ください」


「は、はい……」


「間もなくマンション建設予定地。マンション建設予定地です」


 紗理奈は紙を四つ折りに小さくしてポケットに入れた。二人は偽汽車の言う通りに席に座って外を見た。ゆっくりと下降していく偽汽車はマンション建設予定地であるのが外を見て解った。土砂に埋もれた建設現場はすでに機能していない状態で関係者以外立ち入り禁止の看板が立っていた。つい先日、ここで瑠美に言われた言葉が耳元から聞こえてきた。


 ――さようなら。化物――。


 ――穢れた血――。


 紗理奈は繋いでいる星彩の手を少しだけ強く握った。星彩は握られた手を伝って物悲しげになっている紗理奈を見た。


「お姉ちゃん?」


「ん?」


「どうしたの?」


「ちょっと嫌なこと思い出しちゃって……」


「さっき話してくれた友達のこと?」


「うん……」


「お姉ちゃんはどうしたいの?」


「どうしたいって?」


「その人とまた仲良くなりたいの?」


「……うん……そうだね……私はまた瑠美ちゃんと友達になりたい……また……話したい……そう思ってる」


「じゃあ、そうすれば良いんじゃない?」


「でも……きっと……また突き離される……話なんて聞いてくれないよ。だって私は……」


「星彩のママが言ってた。先のことは不安になるけど、あれこれ考えちゃう嫌なことは、思い出の寄せ集めだって」


「思い出の寄せ集め?」


「うん。お姉ちゃんの嫌な思い出が、お姉ちゃんを苦しめてるだけなんだよ。本当のことは、やってみないと解らないんだよ」


「そう……かな?」


「うん! 一人で怖かったら星彩も一緒に行ってあげる! もし、何かあっても大丈夫!星彩がお姉ちゃんを守ってあげる!」


 ――私が黒木さんを守る――。


 その言葉と共に瑠美と一緒に過ごした時間が鮮明に脳裏を過って、感情が溢れるように涙が目に溜まってきた。


「どうしたのお姉ちゃん?」


 星彩に涙を見られないように紗理奈はそっと顔を逸らして涙を拭いた。


「うん! ありがとう! 私はね、お姉ちゃんが、絶対ママと会わせてあげる。絶対にお姉ちゃんが守ってあげるからね」


「うん! ありがとうお姉ちゃん」


 偽汽車は減速しながら地面に着地して次第にプシューという音と共に止まった。紗理奈と星彩は座席から立ち上がって外に向かって歩き出した。そこに偽汽車が


「ご乗車ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 執事のように片手を胸に当てて頭を深々と下げた。紗理奈は「どうも」と言って星彩は「ありがとう偽汽車さん」と言って席を立ち、偽汽車が開けてくれたドアの所まで歩いた。


「お帰りの際はこちらを鳴らしてください」


 偽汽車が紗理奈に手渡してくれたのは、先程の京狐が持っていた呼び鈴よりも小さな呼び鈴だった。


「あの、待っててくれないんですか?」


「残念ながら京狐様に呼ばれておりますので向かわなければならないのです」


「はぁ……えっと、これで、偽汽車さんは来てくれるんですか?」


「もちろんです。但し、一点の注意事項がございます」


「注意事項?」


「はい、そちらの呼び鈴は片道です。つまり、一度しか使えないのでご注意を」


「解りました。ありがとうございます」


 紗理奈は呼び鈴を左のポケットに入れて軽くお辞儀をすると星彩も一緒にお辞儀をして「またね偽汽車さん」っと言って手を振った。偽汽車を降りて眼前に広がっているのは工事現場が埋もれている土砂の上だった。

 紗理奈と星彩が少し離れると偽汽車は汽笛を鳴らしてゆっくりとレール無き道を走り始め、宙に浮いて青空の向こうへと消えて行った。


「星彩ちゃん、お母さんはどんな格好をしているの?」


「えっとね、白い服を着ているの。ママはとっても綺麗なの」


「解った。じゃあ探そうか?」


「うん!」


 星彩は返事をするとすぐに


「ママ―!」


 っと大声で叫びながら辺りを見渡した。紗理奈も辺りを見渡しながら


「星彩ちゃんのお母さーん!」


 っと声を上げた。二人は広い土砂に埋もれた工事現場を当てもなく歩き始めた。紗理奈の脳裏には、先日瑠美に言われたセリフがこびり付いて離れることはなかったが、星彩の母を探すことだけに集中しようと唇を噛んだ。

 見渡しても土砂ばかりで、人がいるのか不安になるが京狐の力、また彼女自身を信頼するしか今は他にないのだ。


「ママ―! ママ―!」


 星彩は声が次第に涙声になってきたように聞こえた。必死になっている星彩を見て雑念を抱きながら探している自分を戒めるように紗理奈は声を張り上げて


「星彩ちゃんのお母さーん! 星彩ちゃんはここですよー! 何処ですかー!」


 その声は木霊になって反響して辺りに響き渡った。紗理奈が星彩を見ると涙目になってぬいぐるみを強く抱きしめていた。


「ママ……ママ……」


 居間にも溢れ出しそうな涙が見えた紗理奈は、彼女の目線に合わせて屈んでポケットからハンカチを差し出した。


「星彩ちゃん、泣かないで。きっとお母さんは大丈夫だよ」


 星彩は紗理奈の手からハンカチを受け取って目に当てながら


「ありがとうお姉ちゃん……そうだよね。ママは無事だよね……」


「うん、きっと無事だよ。お母さんはみんな強いから。あっちに行ってみよう」


「うん!」


 瞳に溜まっていた涙をハンカチで拭いた星彩はやせ我慢しているような笑顔を紗理奈に見せて右手を握った。

 二人は再び呼びかけながら星彩の母を探していた。一向に戻って来ない返事であったが、それでも諦めることなく呼びかけ続けた。

 その時だった。紗理奈は全身の毛という毛が立ち悪寒を感じた。何度も経験したそれに間違いないなどない。


「境界の中!?」


 星彩は紗理奈を見上げて


「どうしたのお姉ちゃん?」


 っと聞いてきた。紗理奈は前後左右を見渡して妖怪変化がいないか確認すると白い服を着た人影が倒れているのが見えた。


「星彩ちゃん! あれ見て!」


 星彩は紗理奈が指差した方向を見ると白い服を着た人が倒れているのが解った。


「ママ―! ママ―!」


 星彩は握っていた紗理奈の手を解いて一直線に駆けて行った。


「待って星彩ちゃん!」


 紗理奈も倒れている人がいる方へと星彩を追って急いで走り出した。そして、京狐から貰った「滅」と書かれた紙をポケットから取り出した。黒だったはずの「滅」の文字が黄色に変わっていた。


「星彩ちゃん待って! 妖怪変化がいる! 待って!」


 紗理奈の言葉が届いていないのか、星彩は振り向きもせずに走り続けた。どうしてか紗理奈は星彩に追いつくことが出来ず距離を離されていった。

 寒気は倒れている人に向かって行く程に強く感じるようになり、額からは冷や汗が滴り落ちてきた。星彩が倒れている人の間近へ迫ったその時だった。


「きゃあぁぁぁー!」


 突然に星彩の悲鳴が辺りを木霊した瞬間に、彼女の身体は宙に浮いた。


「星彩ちゃん!」


 紗理奈はどうにか星彩の傍に近づこうと両腕を力強く振った。腕の動きと連動して自然と足が前に出て今まで一番速く走れている気がした。


「お姉ちゃん助けてー!」


「星彩ちゃん!」


 紗理奈は星彩を掴んでいる存在が見えないが、それでも自分にも何かできるのだと信じて走った。そして、一尺程の距離まで詰め寄って止まり、京狐から貰った紙を翳した。


「星彩ちゃんを離しなさい!」


 紙を翳した瞬間に赤い光が星彩を掴んでいる「何か」に向かって放たれ、赤い光が「何か」に当たった瞬間に


「ぎゃあぁぁぁぁ!」


 っという断末魔の悲鳴が辺りに響き渡り、それと同時に星彩は地面へと落ちた。星彩はすぐに立ち上がって倒れている人の元に駆け寄った。


「ママ―!」


 見えない「何か」を仕留めたのか解らない状況ではあったが、紗理奈は再び星彩と倒れている人へ向かって走り出した。


「星彩ちゃん!」


 星彩は倒れている人の身体を揺すりながら「ママ!」っと何度も声を大にしていた。紗理奈は走りながらも未だに拭い去る事ができない寒気を感じていた。

 先ほどの攻撃で「何か」を倒しておらず、境界の中にいるのだと思索したが、髪の文字を見ると黒色に変化していた。


「倒した……の?」


 それでも警戒心を払拭できずにいた。虫の知らせがまだ終わっていないことを訴えている。紙を再び右のポケットに入れてながら二人の元に走った。やっと星彩の元に辿り着いた紗理奈は辺りを警戒しながら寄り添った。


「星彩ちゃん大丈夫?」


「うん! それよりママが! ママが起きないの!」


 星彩が言ったので倒れているのが彼女の母親なのだと解って少しばかり気が緩んだ。何度も星彩は「ママ!」っと声を上げながら身体を揺するが一向に目を覚めす様子がない。


「しっかりして下さい! 星彩ちゃんのお母さん!」


 紗理奈も声を掛けてみたが、反応が返ってこないので、最悪を想像してしまった。紗理奈はすかさず脈を図ろうと腕を掴んだ瞬間


「ああっ!」


 っと星彩の母親は声を荒げて上半身を勢い良く起こした。それを見た星彩は


「ママ!」


 っと言って目に涙を浮かべながら抱きついた。抱きつかれた彼女の母親は一瞬朦朧としていて心ここに非ずな状態であったが次第に意識を取り戻してきたのか


「星彩? 星彩! 良かった! 無事だったのね!」


 っと言って抱きしめ返した。


「ママ! ママ!」


 紗理奈は二人を見てホッと胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らしたが、全身を纏っている寒気がまだ続いていることを感じていた。


「あの! すいません! 早くここから逃げましょう!」


「あぁ! そうよ! あいつらが! 夜叉達から逃げないと!」


「夜叉?」


 夜叉という言葉を聞いて般若のお面を被って鉈を持った化物を紗理奈は想像したが、それではないような気がする。

 星彩の母親は取り乱したように辺りを見渡し、星彩を抱きかかえながら急いで立ち上がった。


「早く! 行きましょう!」


「は、はい! 今迎えを呼びます」


 紗理奈も急いで立ち上がって左ポケットに入れていた呼び鈴を取り出そうとした時だった。


「ママ! みんながこっちに向かって来てるよ!」


 抱きかかえ反対の方を向いている星彩の声に母親が振り向くと


「来た! 夜叉達が来た!」


 っと慌てふためいた。それでも星彩が指差し、彼女の母親が振り向いて見えているはずの夜叉が紗理奈には見えていなかった。


「一体どこにいるんですか?」


「お姉ちゃん! こっちに来てる! 早く偽汽車さんを呼んで!」


「う、うん!」


 紗理奈は左ポケットから呼び鈴を出してすぐに鳴らした。透き通るような透明な音色が辺りに響き渡った。先ほど京狐が呼んだ時にはすぐに轟音と地響きがあったが、辺りは静寂仕切っており、偽汽車が来る気配を感じることができなかった。


「あれ? おかしいな? 何でかな?」


 紗理奈はもう一度呼び鈴を鳴らそうとすると、呼び鈴は次第に黒へと染まっていき、砂のような粒へと変わり風に吹かれ散り散りになってしまった。


「お姉ちゃん……偽汽車さんは?」


「どうして……どうして来ないの?」


 星彩は先程の母親に会えた喜びの涙から、恐怖へと沈んだ涙を目に溜め込んでいた。


「とりあえず走って! 逃げるのよ!」


 星彩の母親はそう言うと一目散に走り始めた。


「は、はい!」


 紗理奈もすぐに走り出し、何度も後ろを振り返ってみるが、夜叉達の姿を確認する事ができない。ポケットに閉まっていた紙を取り出すと黄色に変わっていた。


「お姉ちゃん早く! みんなが来るよ!」


 星彩と同じように彼女の母親も相当足が速く、紗理奈は引き離されるばかりだった。次第に胸を締め付けるような圧迫感が襲ってきて、呼吸を整えることが難しくなってきた。


「はぁ、はぁ――」


 こんな状況になると解っているのだったら、もう少し真面目に運動を熟せるようにしておけば良かったなどと後悔の念が押し寄せてきた。


「お姉ちゃん! みんなが――」


 その時、星彩の母親の足元から爆発したかのように土が舞い上がった。


「きゃあぁぁぁ!」


 星彩の母親の悲鳴と同時に


「今度こそ逃がさんぞぉー!」


 っと言う声が響いた。


「お姉ちゃん助けてー!」


「星彩ちゃん!」


 紗理奈は再び自らの限界を超える為に腕を勢い良く振って足を動かした。そして背の高さくらいの宙に浮いている二人の近くまで迫り紙を翳した。


「食らえー!」


 再び赤い光が放たれると見えていない何かに当たり


「うわあぁぁぁぁ!」


 っと叫び声が聞こえた。その瞬間に星彩と母親は地面へ無造作に落ちた。紗理奈はすぐに二人に駆け寄って


「大丈夫ですか?」


「はい、ありがとうございます。星彩は? 怪我はない?」


「うん、ありがとうお姉ちゃん」


「良かったぁ」


「ママ!」


 星彩の声に母親は辺りを見渡して


「囲まれた……そんな……」


「え!?」


 紗理奈が辺りを見渡しても姿形もない。それでも紙の「滅」の文字は黄色になっていた。


「どうして私には見えないの?」


「ママ……怖いよ……」


 怯えた星彩は母親にしがみ付きながら、手に持っているぬいぐるみをギュッと握った。母親は「大丈夫よ。きっと大丈夫」と言いながら頭を撫でていた。

 その状況の中で紗理奈は今いる場所を鮮明に思い出した。今立っている場所が瑠美に突き放された場所であることに。それと同時に幻聴がまた聞こえてきた。


 ――もうあなたに用はないの――。


 ――友達ごっこは終わったの――。


 紗理奈は怖くなって足が震えてきた。悔しくて、信じたくて、汚されたくなくて、今の状況にそぐわない感情が決壊したダムのように溢れてきた。


「この状況で……私は……何を考えてるの……」


 紗理奈はポロポロと泣き始め、立っていられるのがやっとだった。どうしようもなくやり切れない慟哭が彼女を覆い尽くそうとしていた。


 ――馬鹿だから簡単に引っかかった――。


「今は……そんなことより……」


 ――私に友達なんていない――。


「私は……」


 ――自分じゃ何もできない愚か者――。


「お姉ちゃん!」


 その声で紗理奈は星彩を見た。母親に抱きつき、ぬいぐるみを握りしめ、大粒の涙を流した小さな彼女が何かを訴えていた。それは言葉にしなくても解ることだが、星彩はしっかりと言葉に変えた。


「お姉ちゃん助けて!」


 紗理奈はふがいない自分自身を


「私の馬鹿!」


 っと叱咤し、歯を食いしばり、俯いていた顔を上げて京狐から貰った紙を翳した。


「わあぁぁぁぁ!」


 紗理奈はその場でくるくると回転しながら紙を翳し叫んだ。今やるべきこと、星彩と彼女の母親を守ること以外の雑念を考えないため、それと同時に思いの丈をただぶつける為に叫び続けた。


「「「「ぎゃあぁぁぁぁ!」」」」


 幾重にも重なり合った金切声のような悲鳴に耳を覆いたくなってくる。紙から放たれる赤い光は、確実に見えない夜叉達に直撃しているようだ。

 しかし、懸念すべき問題は、どれ程の数の相手に囲まれているのか解らない。紙から放たれる赤い光は四方八方に飛んでおり、一向に止まる気配がない。


「星彩ちゃん! あとどれくらい数いるの?」


「えっと、もう少しだよ! お姉ちゃん頑張って!」


「解った!」


 紗理奈は返事をした後、小声で


「あと少し……あと少し」


 っと呟いた。相当な数の相手に囲まれているのか、赤い光はずっと紙から放たれ続けていた。しかし、紗理奈は赤い光が放たれる度、小さくなっていることに気が付いた。


「お願い! もう少しなの! もう少しなんだよ! お願い!」


 紗理奈の思いとは裏腹に赤い光は徐々に小さくなっていき、それから間もなく途絶えてしまった。


「嘘……嘘……」


 紗理奈は急いで紙を見ると、まだ薄く「滅」の文字が書かれていた。


「やったよお姉ちゃん! みんなをやっつけたよ!」


 星彩の言葉を聞くと腰が抜けてその場に膝を付いた。星彩が紗理奈に抱きついた。


「お姉ちゃんありがとう!」


 星彩の母親も紗理奈に言葉を掛けた。


「ありがとうございます! あの、大丈夫ですか?」


「何とか……あの……」


「はい?」


「良かった……です……」


 その言葉を言った直後、少し声が枯れているのが自分で解った。そして、また目から涙が溢れそうになってきた。今は悲しいのではなく、達成感からくる涙だった。


「さあ、早くここから逃げましょう」


 星彩の母親は膝を付いている紗理奈に手を差し出してきた。その手を握ろうとした時、三人の周囲を取り囲むように爆発したかのように土が舞い上がった。


「え!?」


 紗理奈は状況を呑み込みたくなかった。しかし、またしても、夜叉達に囲まれてしまったのだと思うしかなかった。

 土が舞い上がった場所を紗理奈が見ても、相手の姿を確認する事ができない。視線を星彩に向けると、彼女は母親に抱きつきながら震えていた。


「ママ! またみんなが!」


「大丈夫よ。星彩。大丈夫」


 紗理奈は紙にまだ「滅」の文字が書かれていることを確認して再び翳した。


「お願い! お願い!」


 小さくなっている赤い光は力を失くしてきたのか、何度も同じ場所、恐らく相手に放たれて次の相手に向かって行っていた。


「もう少しだけ! お願い! もう少しだけ!」


 相手を倒してはいるが、紙から放たれる赤い光は先程よりもさらにか細くなり、ついには蛍の光のように小さくなり、赤い光を放たなくなってしまった。


「お願い! まだなの! まだなの! お願い!」


 紗理奈は文字が書かれていた表の部分を急いで見た。しかし、現実は自分の思いを完膚なきまでに裏切り、書かれていたはずの「滅」の文字は跡形もなく消えてなくなっていた。


「嘘……嘘……嘘だよ! まだ! お願い!」


 紗理奈は抱き合っている二人に視線を移すと、星彩はすでに両頬に涙を流していた。


「お、お姉ちゃん……」


「どうして! どうして!」


 紗理奈は文字が消えてしまった紙を投げ捨てた。それを見た星彩は


「ママ……みんなが来るよ……」


 っと言って母親の胸に蹲った。


「大丈夫よ。星彩。ママがずっと一緒だから」


 そう言って母親は星彩の頭を撫でながら、自分達を見ていた紗理奈と目を合わせた。母親は唇を噛みしめ、ただ強く、強く星彩を抱いていた。


「私……やっぱり……何もできない……愚か者……なの……」


 虚無感に苛まれた紗理奈の心は、身体中を駆け巡り、立っている力を奪い去った。両手を地面につき、自分の無力さを痛感し涙を零した。


「うぅ……あぁ……誰か……」


「ママ!」


「大丈夫よ」


「もう逃がさない」


 姿の見えない夜叉の声がすぐ近くで聞こえた。


「子供と母親はすぐに繭の中に入れろ」


「その娘は何だ?」


「これも捧げ物か?」


 夜叉は何人かいて話をしているようだ。そして、夜叉が地面を動く度にひずっているような音が聞こえていた。それは徐々に紗理奈達の元へと近づいていた。


「……お願い……誰か……」


 紗理奈はまた星彩を見た。母親の胸に蹲っていて顔を見ることはできないが、すすり泣きながら震えている彼女を見るのが辛かった。


 ――やっぱり馬鹿だから――。


 ――自分じゃ何もできない――。


 再び聞こえてきた瑠美の幻聴に耳を塞ぎたくなった。それでも聞こえてくる彼女の声は、すぐ耳元で反復して聞こえていた。


 ――愚か者――。


 再び慟哭が紗理奈を襲い、深く心に突き刺さった棘は、さらに奥へとめり込んで行った。瑠美に裏切られた気持ち、さらにはどうしてか解らない美鬼に無視されること、宮部家で感じる孤独感が押し寄せ、頭の中が一杯になり


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 紗理奈は声を張り上げて、どうやって処理すれば良いのか解らない問題を忘れたかった。心の奥から出た叫び声は響き渡り、さらに紗理奈は


「あぁぁぁぁぁぁぁぁ! 誰かぁぁぁぁー! 助けてぇぇぇぇぇー!」


 っとどうにもならない、考えたくもない問題の捌け口のように叫んだ。叫び声が終わると静寂が辺りを包み込み、普段は聞く事ができない一陣の風が吹き抜ける音が耳に入ってきた。


「はぁ……はぁ……」


「三人まとめて繭の中」


 そう声が聞こえ、紗理奈の身体に何かが触れた。目では見えないが両手両足に何かが纏わりついている。それと同時に星彩と彼女の母親の悲鳴が聞こえた。


「ママー!」


「星彩!」


 二人は引き離され、宙に浮いていた。おそらく自分と同じく両手両足を掴まれているのだと思った。このまま何処に連れて行かれるのだろうか。


「おい! この娘! 人間じゃないぞ!」


 自分を捕まえている夜叉が話しているのだと思った。


「この娘、この感覚は! 銀色の一族か!?」


「何!?」


「どういうことだ!?」


「本当か!?」


 夜叉達の話を聞いた星彩と彼女の母親は紗理奈を見つめていた。自分が人間でないという事実を二人に知られたことで心がまた傷ついた。


「では、やはりあの話は本当だった!」


「やはりこの地に銀色の一族はいたのだ!」


「あのお方がお喜びになる!」


「その血は黄金蝶のために!」


「黄金蝶?」


 確か京狐が「黄金蝶が孵化すんで」と言っていたのを思い出した。紗理奈がふと視線を星彩と母親に向けると二人はお互いに見つめ合っていた。


「早く権藤様の元へ!」


「ちょっと待ちなよ。ここは天地様が守護する山だぞ。勝手なことは許さない!」


 聞き覚えのある幼さの残る声が聞こえた空の方に紗理奈は顔を向けて叫んだ。


「青葉君!」


 にこやかな笑顔をした青葉が、真上で大きな黒い翼を広げて飛んでいた。

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