二人の証人

 六道ろくどうの一つである人間道にんげんどう、そこから四つ下がることは、はっきりと言えば一度でも足を踏み入れることなどしたくない場所である。


 何故ならば、衆生しゅじょうにとってこの上ない、そう、償いという名の極刑を魂に刻まれる最下層だからだ。

 死、そのものは一瞬で終わりを告げるが、ここではそれよりも果て無く続く刑の執行に、魂をどこまでもすり減らし、己が罪の重さをこれでもかと味わうことができる死屍累々ししるいるいの拘置所。こんな言い方であるが、つまりは、だ。ここになど来たくはないだろう。


 最上の天道から人間道、修羅道しゅらどう畜生道ちくしょうどう餓鬼道がきどうと下がり続け、衆生が知る六道の最下層、罪を背負いし魂達の狂乱する場所、地獄である。


 解釈は衆生によって異なるが、幾つもある霊界の中でも、ここに自らの意思で行きたいと思う者など存在しない。

 だが、彼らは違ったのだ。自らの意思でこの地獄までやって来たのだった。獄卒鬼ごくそつきの一団を前にして物怖じしない勇気と度胸を買った。


 彼らからの証言によって、過去、いや、言い方を変えよう。霊界が、地獄が誕生して以来最大の事件、その直後に起きた現世で覇王と呼ばれる鬼の娘、彼女が引き起こしたとされる事件、その全貌が明らかになるのだから。


 今回は例外中の例外、そう、生者が地獄にいること自体もそうだが、その彼らが十王裁判じゅうおうさいばんで証言することも含め、全て前例のない出来事である。


 もし、生者の彼らに何かあれば、また、彼らの証言が草ほど役に立たないものであるならば、これまで築き上げてきた自分の権威や名誉、地位全てを失うという危険があるのも確かだ。だが、その危険に見合うだけの証言が得られる、そう直感したのだから間違いない。


 これまで、この直観が誤った結末を招いたことなどない。むしろ、そうして即断即決してきたからこそ、今まさに十王裁判所の地獄菩薩法廷じごくぼさつほうていで鬼娘の裁判を代理で進行役、つまりは裁判長代理を一任されるまでの信頼を持っているのだ。


 しかし、その信頼は周囲からすれば尊敬と共に嫉妬、憎悪を彼に向ける要因となっているのも事実である。


 鬼怒川きぬがわたかしは、そのようなやからに興味がないと言うよりは、自らを妬む者達を頭の片隅にでも考えることなどしない。


 強いて言うのならば、自分が昇進できた最大の要因、自分の長所、最大の短所こそ、誰もが一様に成功することを模索する総花的そうばなてきな思考、それに加えての決断力と実行力があったからこその正当な評価、その結果、そう、結果を出していたからだ。


 証言の結果と取りまとめた証言を地獄菩薩に伝え、裁きが如何なるものになるかで、今後の進退を大きく左右することになる。


 だが、地位を固執する性分でも柄でもないので、逆に周りが大げさに騒ぎ立てたので、少し面白くなった、というのが本音である。


 だから、地獄菩薩に嘆願書たんがんしょを提出して、彼らを証言台に立たせているのだ。今まで味わったことのない愉悦に笑みが零れ落ちる。表向きの表情には出さないが。


 最初に証言をしたあの青年には、彼の家族、いや、彼の経験した、いや、これも違う。彼と鬼娘との恋っとでも言う他ない。


 二人の恋物語は地獄菩薩の琴線きんせんに触れてしまったのだ。あのように動揺する地獄菩薩を見たのは二度目だが、本題からそれてしまうので割愛しよう。


 とりあえず、だ。地獄史上最大の事件の詳細を知ることはできた。それによって見越し入道、ろくろ首、九尾、悪鬼の結審は滞りなく下された。


 が、青年の証言、いや、言い方を変えよう。浄玻璃鏡じょうはりきょうで見た彼の経験を垣間見たことによって揺らいでしまった地獄菩薩は、鬼娘の結審に至るまでには及ばなかった。


 結局は、だ。全員に証言させて欲しいという彼らの嘆願書を叶える形で、もう一つの事件の裁判が開かれることとなった。


 地獄菩薩は鬼娘の裁判を三人の獄卒鬼を人選し、地獄菩薩代理、司命しみょう司録しろくをそれぞれ選んだ。


 鬼怒川は合議審ごうりしんを取り纏める地獄菩薩代理の役割を一任された。裁判の書記の役割である司録には、牛頭鬼と馬頭鬼の教えを共に受けていた気の知れた仲の友が選ばれた。


 それは互いにそう思っている。が、もう一人、これが厄介である。判決を言い渡す役割である司命、それに選ばれた彼女は、そう、地獄の中でも危険人物である。

 自分よりも、いや、獄卒鬼の中でも三千年を優に超える紀元前から生きている妖怪変化であり、現世では名の知れた彼女を制御、いや、言い方を変えよう。大人しく、そう、大人しく傍観して頂きたいっと思うのだ。


 彼女は言うなれば、古株、古参などと言われるのかもしれないが、それは、だ。違う。彼女はこの地獄において地獄菩薩に仕える身でありながら、そう、地獄に来て数百年もの間、獄卒鬼として何一つ仕事などしたことがないのだ。


 自由気まま、いや、言い方を変えよう。自由を謳歌している彼女に、地獄菩薩は司命として選んだが、何を期待しているのか?

 地獄菩薩の御心みこころを知ることができれば良いのだが、叶うことのない願いなど最初から願っても無意味である。ここは地獄なのだ。業に従うだけ、だ。


 そして、最初に証言をしてくれた黒木紗理奈はここで一旦証言台を下りる。ここからは小林瑠美一人の証言となる、はずだった。


絡新婦じょろうぐもの椿さんを、私と一緒に浄玻璃鏡で証言させてください」


 傍聴席にいる地獄の者達の声は、天をも貫く巨大な柱に支えられた高い天井まで響き、さらには広大な宮殿にも似た法廷内に響いた。


 瑠美の言葉に鬼怒川は顔色一つ変えることはなかった。むしろ無だった。その発言の真意を深く探究することには興味を持ったが、高揚するっというまでには至らなかった。しかし、自分以外の二人は顔色を変えていた。

 しかし、牛、馬、虎、獅子、猪の頭を持った獄卒鬼の他、人型の鬼といった有象無象の者達が座っている傍聴席のざわめきが五月蠅うるさく感じ始め、二人の顔色の変化への関心など、すぐに薄れた。


 カンッ! カンッ!


静粛せいしゅくに! 静粛に!」


 地獄菩薩から借用した木槌きづちを叩きつけるが、ざわめきはどよめきへと変わり余計に騒がしくなった。紗理奈は獄卒鬼達の声に身体を震わせていたが、その隣にいる瑠美は証言台で平然とした表情のまま鬼怒川他二名の裁判官を見つめていた。次の瞬間、


 カンッ! カンッ! カンッ! ガンッ!


「黙れと言っているだろ愚か者が!」


 木槌が壊れるのではないかというほどの音の後、鬼怒川の反響する怒声で法廷内は静まり返った。

 彼は三日月の如き鋭さの視線で法廷内を見渡した後、再び無表情となり、淡々とした口調に戻った。


「小林瑠美さん、絡新婦が、これから始まるあなたの証言の役に立つと言うのですか?」


 瑠美は証言台から鬼怒川を見上げていた。その顔から鬼怒川は、何か覚悟を決めた表情をしていると感じ取った。


「はい! 彼女がいなければ全てを、私の体験したこと全てをお見せすることができません。何よりも椿さんは、ただ雲母ちゃんを――」


「その話は本法廷とは無関係です!」


「いえ! 証言させるべきです!」


 瑠美の発言の最中であったが、すかさずサーラメーヤが吠え始めた。四つ目の地獄の番犬、どちらも同じ声色で女性だと解る。


 一匹は検察官、もう一匹は弁護士であり、対照的な立ち位置となっている。彼らは一匹が口を開けば、すぐさまもう片方が吼えるのだ。五月蝿くて仕方がない。


「焦点がずれてしまいますぞ」


「いえ! 彼女は本件と深い関わりがあります! 証言させるべきです!」


「あの絡新婦は脱獄しただけでなく、現世で幾人もの人間から魂を抜いたのです。そのような者に証言させるなど――」


 カンッ! カンッ!


「静粛に! 静粛に願います!」


 鬼怒川は静まり返った法廷を見渡し、深い溜息を吐いた。弁護士や検察といった役回りを地獄犬に任せておよそ数千年。こうも五月蠅く吠えられると気が滅入る。だが、一時の静寂から高起式こうきしきの発音、つまりは、だ。京弁きょうべんの柔らかな女性の声が反響した。


「問題ないんやない? 許可しましょう。かまへんよね? 鬼怒川はん」


 鬼怒川は瑠美から視線を右へと移動させ、おっとりした声色の女性、自分と一緒に合理審を執り行う裁判官を訝しげな表情で見つめただけに留まったが、鬼怒川の左にいるもう一人、鬼塚おにづかも彼女を見て、すぐに声を上げた。


「どうしてそのような決断に至ったのか、理由をお聞かせ願いたい」


 彼女は気高い風格を纏わせた牡丹の花に似た笑みを見せ、淡く儚げな透き通った声で答えた。


「何でってぇ、そら、えらいおもろいからですよぉ」


「自らの欲望の赴くままでは正当な判断を下すことはできないと思いますが?」


「ほんまに真面目やねぇ。馬鹿が付くほどぉ」


 彼女は気が遠くなるほどの間、この地獄に居座っているからだろうが、京弁と標準語が入り混じっている。

 しかし、高起式であることに変わりはなく、発した言葉のはくから高くなっている点で、やはり京弁に聞こえるから不思議である。


 鬼怒川は彼女の発言に対する鬼塚の返答を彼の口から発せられる前にすでに理解した。何故ならば、もはや形相は鬼そのものであり、三本の黄色い角は雄々しく伸びて点滅していた。


「あっれぇ? 角が伸びてはりますやん。怒りん坊はあきまへんでぇ鬼塚はん」


「黙れ! 地獄菩薩が選びし司録の鬼塚は、あなたのその不誠実な所が気に喰わないのです!」


 彼女に怒鳴り散らしたいが、それでもなお歯を食いしばって堪える鬼塚の表情をまだもう少し見ていたい気もしたが、致し方なく助け船を出すことにした。


「お二人共止しなさい。我々が裁判を乱しては元も子もないではありませんか。ここは合理的判断を下すべきです」


「では鬼怒川殿、あなたの言う合理的な判断をお聞かせ願いたい」


 鬼塚は時折感情的になるが、その未熟さも必要なのだと鬼怒川は感じていた。さらに彼女も


「あちきは鬼怒川はんが決めはったことに従いまっせ。どうぞ好きにされはったら宜しい」


 鬼怒川は視線を証言台に立っている瑠美へと移した。彼女は事の成り行きを静観していたが、鬼怒川が自分を見ていることに気が付いて口を開いた。


「私達は、いえ、私達の大切な友達が、無罪であることを証明させてください。お願いですから、椿さんに証言させてください!」


 やはり、だ。やはり人間は面白いのだとつくづく感じる。これほどまでに赤の他人、ましてや妖怪変化に対しても慈愛の念を抱いて救おうとしている。これは興味深いを通り越す。享楽、だ。


 鬼怒川は自分では解っていなかったが、その表情は誰が見ても不敵に笑っている。そういう顔を無意識に作ってしまっていた。しかし、表情筋の変化に気が付いた彼は、一呼吸おいて再び無表情になり声を発した。


「良いでしょう。絡新婦の椿を、本法廷に召喚しなさい」


「ありがとうございます!」


 瑠美は人間らしい安堵の表情となり、歳相応の笑顔となった。これからの証言で何が出てくるのか。注目はそこに集まるだろう。鬼怒川は木槌を振り上げた。


 カンッ! カンッ!


「絡新婦の椿を、本法廷に召喚。証人として証言台へ連行してきなさい」


 鬼怒川の命を受けた獄卒鬼が椿の牢へと向かった。彼女は牢獄で子守唄を口ずさみながら、白い猫のぬいぐるみの頭を撫でていた。


「絡新婦、出ろ」


 子守唄を口ずさむ事を止めない彼女にしびれを切らした獄卒鬼二人は無理矢理に牢獄から引き出したが、椿はぬいぐるみを落としてしまった。その瞬間


「やめろ! 離せ! 星彩! 星彩ぁぁぁぁぁ!」


 喚き散らす椿を獄卒鬼は持っていた金棒で気絶させ、地獄菩薩法廷へと連行した。椿が目を覚ました時には、身体中に経典きょうてんが巻き付けられていた。

 そして、椿の目線の先に忘れることの出来ない相手がそこにいた。かけがえのないものを守ろうとした少女の姿が。


「どうしてあんたがここにいるんだい?」


「椿さん、私は約束したんです。必ず、幸せになろうって」


 そう瑠美が答えたのを聞いていた司命を任された者が口を開いた。


「さぁ、時間が限りなくあるわけやあらへんから、始めてくれへん?」


 その声を聞いた椿は法壇ほうだんを見上げると、そこにいたのは


「あ、あなた様は――」


「さぁ浄玻璃鏡を見つめなさい。あちきらに見せておくれ。あんさんらの証言を」


 そう言った彼女の瞳を見た瑠美と椿は悪寒と共に全身が震えた。その瞬間に二人の額から青白い糸のようなものが鏡に吸い込まれた。やがて鏡の表面が水面のように揺れ始め、激流のように溢れ出し全てを飲み込んだ――。

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