其の壱

 心の渇きを潤すには何が必要なのか考えてみたが、何も思い浮かばなかった。普通に生活していても、考えてしまうのは瑠美に言われた言葉と、あきこに言われた言葉達が両耳を何回もリピートしてうるさかった。


 それは映像にもなって脳裏に思い浮かばせて来る。嫌悪に満ちた眼差し、言葉、その全てが自分を蝕んで苦しめていた。ただ、あきこの言葉が聞こえて来る時は、心が少しだけ穏やかになる。


 水木神社の宮部家にお世話になって三日。ここからはじめと一緒に登校しているが、まだ慣れていない。学校に行くのは一緒に行くから良いが、帰り道をいつもの間違えてしまう。自分の本当の家に向かって帰ろうとしてしまうのだ。


 昨日は学校に行っている間に自分の着替えや本などをあきこと靖子が持ってきてくれた。何故会ってくれなかったのかと凜に聞いたら、顔を見たら決心が揺らいでしまうからと答えられた。


 荷物はほとんどスーツケースと段ボールに入れてきていた。それを麗に手伝って貰って部屋にあった箪笥とラックに掛けた。段ボールの中に瑠美から借りた本が入っていた。ご丁寧に栞まで付いていた。壁に投げそうになって寸での所でやめて、段ボールの中に戻して押し入れに入れた。


 本当に自分は馬鹿だなとつくづく思う。宮部家に来てから美鬼とは一言も話していない。いつも自分が居間に来ると何処かに行ってしまったり、廊下で鉢合わせになる時には必ず来た道を戻って行く。昨日の夜は台所の洗い物を手伝おうとしたら、何も言わずに出て行ってしまった。どうでも良いのだが。


 ご飯はいつも美鬼が作っていた。とても美味しい。でも、あきこやさと美、靖子の味とは違う。凜と麗、はじめと話していても上の空で、話を右から左に流してしまい、話が振られても「聞いてませんでした」と答えるしか能がない。その時にされる憂いな表情をされるのが申し訳なかった。


 家の部屋よりも広い部屋にいても、どうも落ち着かない。ここが自分の家ではないと思っているからかもしれない。この三日、いつも虚しい。そう感じるのだ。


 学校に行っても、クラスメイトの声が、授業をしている先生の声が、まるで遠くにいるようにぼやけて聞こえてくる。瑠美は学校に姿を見せていない。クラスメイトは当たり前のように自分に彼女のことを聞いてくる。


「小林さん、どうかしたの? 紗理奈ちゃん何か知らないの?」


「……知らない……」


「連絡してみたの?」


「……知らない……」


 視線は常に誰とも視線を合わせないように口元を見ていた。クラスメイトに瑠美のことを相談しようにも、何も言えない。自分のことを誰かに話すことが怖くて堪らない。また、利用されたり、裏切られたり、罵られたりするのは嫌だ。もう何もかもが嫌になってきた。


 今日もまた学校がいつの間にか終わっていた。放課後になって鞄に教科書とノートを入れて帰路を歩く。そして、また今日も帰り道を間違った。瑠美といつも駄菓子を食べていた駄菓子屋、一緒に帰っていたバス停までの道を歩いて涙が溢れそうになった。


 泥のように重たい空気が圧し掛かって来て、今にも溺れそうだ。誰でも良いから手を差し伸べて欲しいと願っても、誰も掬い上げてはくれない。それが解っているから悲しかった。俯きながら水木神社の長い階段を上がって宮部家の長屋の玄関を開けた。


「……ただいま……」


 口ごもった声でそう言った。この時間に家にいるのは仕事がなければ凜がいる。大学の授業がなければ麗もいる。唯一絶対に家にいる美鬼から返事が来ることは期待していない。ただ、あきこに言われたから挨拶はきちんとしようとしている。それだけだ。


 居間を通る時に奥のキッチンで美鬼が料理を作っているのが見えた。一応「ただいま」と声を掛けたが、やはり返事は来なかった。


 部屋に行ってすぐに着替えて、布団に寝転がって天井を見つめた。木目の天井が何枚あるか数えてみようかと思ったが、そんな気分でもなかった。気分を変えようと思い立って外に出ることにした。居間からテレビの音が聞こえてきた。


「美鬼ちゃん、私ちょっと外に出たいんだけど……良いかな?」


 美鬼はこちらを見ようともせず、手であっちに行けと答えた。何も答えてくれないことも寂しかったが、追い払うようにされたことにまた傷ついた。


 なるべく水木神社周辺を歩こうと思っていたが、気が付かない内に南凰公園へ来ていて屋根付きベンチに座っていた。相変わらず誰もいないこの公園に一人でいると少しばかり気持ちが落ち着いてくる。


 九月の蝉が鳴き、日差しは照り付け、陽炎が揺らめいている。ふと、公園を見渡していたら噴水の所に女の子がいるのに気が付いた。小さな赤い肩掛けの鞄、白い猫のぬいぐるみを持った女の子はキョロキョロと周りを見渡して何かを探しているようだった。そして、彼女は紗理奈を見つけると急いで駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん助けて!」


「え!?」


「みんなが追ってくるの!」


「みんな?」


 紗理奈は公園を見渡すが自分と少女以外に見えなかった。鬼ごっこか何かしているのかもしれないと思った。今この子に構っていられる心の余裕がない。


「ごめんね。お姉ちゃん今――」


「きゃあぁぁぁぁー!」


 強烈な寒気と共に少女の悲鳴が響き渡った。紗理奈は自分の目を疑った。少女は空中に浮いて、足をばたつかせ必死でもがいている。まるで何者かに捕まれたように。


「助けてお姉ちゃん!」


 紗理奈は突然の出来事に混乱したが、少女を助けなければいけないと思い彼女の手を掴んだ。引っ張っても少女を引き寄せる事ができず彼女は「痛い! 痛いよお姉ちゃん!」っと叫んだ。


 見えない何者かは少女を引き離さそうとする紗理奈を強引に吹っ切った。その勢いで紗理奈は振り切られ飛ばされた。少女は宙に浮きながら見えない何者かに連れ去れらていく。


「いやあぁぁぁ! お姉ちゃん!」


「うぅ……」


 砂利が手にこびり付き、皮が剝けたところから全身を駆け巡っている潤滑油が滲み出た。紗理奈は指先に力を入れて即座に立ち上がり少女を抱きしめて、見えない何者かから引き離さそうと踏ん張った。今度こそ、少女から引き離されることがないように。


「お姉ちゃん! 助けて! お姉ちゃーん!」


 泣きじゃくる少女の悲痛な叫びが嵐のような消えない痣として耳に響いた。


「離しなさい! この子を離して!」


 見えない何者かは再び紗理奈を振りほどこうと右往左往し、身体が宙を浮いたが抱きしめた少女から離れないように強い意志だけで乗り切ろうとした。さらに振り払おうとグルグルと回転し始め、遠心力が紗理奈を少女から突き放さそうとした。


「おりゃぁぁぁぁ!」


 上方からの声と共に柔らかい果実でも潰したかのような音が聞こえ、その瞬間に紗理奈は少女を抱きしめながら吹き飛ばされた。


 少女を抱きかかえながら転がり、ベンチの脚にぶつかって止まった。腰に打撲の激痛が走ったが、紗理奈は腕にいる少女を見た。少女は震えているが、無事でいてくれた。


「大丈夫?」


「……うん……」


「オラオラァ!」


 紗理奈が声のする方を見ると美鬼が一人で金棒を振り回していた。しかし、彼女が金棒を振り回す度に聞こえてくるのは空気を切る音ではなく、ハンバーグを捏ねている時に聞こえてくる肉から空気を抜く音が聞こえた。それはとても鈍く、気持ちが悪かった。


「お姉ちゃん! 早く逃げよう!」


「う、うん」


 少女の手を握りしめてその場から走って逃げる時に美鬼が紗理奈に向かって叫んだ。


「ちょ、何処に行く!? おい! クッ! 邪魔じゃボケー!」


 美鬼は公園を縦横無尽に走り金棒を振り回していた。それを振り返りながら見たが、相手の姿は見えなかった。

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