其の弐
「紗理奈!」
あきこの声が遠くの方から聞こえてきた。それでも抱きかかえられた自分は開けられた大きな口を眺めていた。
綺麗に並んだ歯は鋭く尖っていて、一目で解ったが歯が二列になっていた。この人は人間じゃない。そう思った。
「紗理奈!」
遠くの方で自分を呼ぶ声の他にも、何か音が聞こえる。じりじりと急かすような騒音に近い音は次第に近づいて来る。だが、急にそれは鳴り止み静寂な時間が流れた。そう思っていたが
「紗理奈、起きなさい」
眩しくてパッと目を開けるとそこは朝日が差している自分の部屋だった。あきこがカーテンを開けて紗理奈を見ていた。
「紗理奈! 目覚まし鳴りっぱなしだったわよ。早く起きなさい」
「うーん……あとちょっと……」
布団に包まって日差しを遮って暗闇の中に帰ってきた。しかし、脳裏をあの大きな口を開いたあの人が思い浮かんで布団から目だけを出した。
「今日は瑠美ちゃんの家で練習するんじゃないの?」
「ハッ! 起きなければっ!」
紗理奈はあきこが口にした瑠美という言葉で颯爽と上半身を起こした。それを見てあきこは頭を抱えて呆れかえって溜息を漏らした後
「ご飯は出来てるからリビングに来なさい」
「はーい」
あきこが部屋を出て行ってから少し放心状態になって夢の内容を思い出すと怖くなった。そして、机の上にある白い兎のぬいぐるみを見た。
昔から大切にしているぬいぐるみは一度も失くした記憶はない。ベッドから出てぬいぐるみを持って少し眺めてみたが、何も思い出せることはないので諦めて元に戻した。
「紗理奈! また寝てるの?」
一階から叫んでいるあきこの声に
「起きてるー。今行くからー」
充電していたスマホを持ってリビングに向かった。リビングではあきこと靖子がいるだけで他には誰もいなかった。
「あれ? みんなは? まだ寝てるの?」
「そりゃそうよ。佳代子は車で三時間かけてここまで来たんだから。さと美とえっちゃんは十二時までゲームしてたし、久美ちゃんは私達とお酒飲んでたからね」
それにしても自分の母は酒豪だと常々思うが、それは靖子からの遺伝で佳代子には残念ながらそれは受け継がれなかったようだ。それでもお酒は好きなようだ。いつか自分もそんな風にお酒をみんなと飲みにケーションする日が来るのだろうか。
「人のことは良いから早くご飯食べちゃいなさい」
「はーい」
朝食を食べながら瑠美に《おはよ》と連絡を入れて返事が来るのを待った。すぐに《おはよう。何時に着く?》っと来たので《バスに乗ったら時間を連絡するね》と送った。
「紗理奈は最近ずっと瑠美ちゃんと一緒だねぇ」
「うん、私の白馬に乗ったお姫様だからね」
紗理奈の発言にあきこは首を傾げたが靖子は何も気にしていないようで
「大切な友達なんだねぇ。大事にするんだよ」
「当然だよぉー。きっと死ぬまでずっと友達だよ」
朝食を食べ終えて、入念に歯磨きをして部屋に戻ってジャージと替えのシャツを三枚に、下着、タオルをリュックに入れて、出口の見えない迷路に迷い込んでしまった。
「何着ていこう……」
買ったばかりの服、お気に入りの服を選別して組み合わせていくが、どれも納得のいくコーディネートではなかった。時間がどんどん過ぎているのは解っているのだが、初めて瑠美の親に会うのだから可愛いとか綺麗とお世辞抜きで言われたい。
「紗理奈! あんた何やってんの?」
あきこが部屋に予告なしにやって来たが、紗理奈は驚きもせずにじっとベッドに広げた服を見ていた。紗理奈は若干泣きそうな声で
「……服が決まらないよぉ」
「馬鹿! どれでも良いでしょ!」
「どれでも良くないの!」
「何で?」
「だって私、可愛いとか綺麗って言われたいもん!」
「馬鹿! あんたって娘はこれだから! そうやって見栄ばっかりで人間として――」
ここからは少しばかり長い説教となるので割愛させていただく。ギリシャのゼウスの雷の如き説教を浴びながら時計を見ると八時を過ぎていたので
「お母さん! 私解った! 早く行かないと! バス時間に間に合わない!」
「――あんたねぇ! まぁもう八時過ぎか、すぐに着替えて下に来なさい。瑠美ちゃんの家に佳代子のくれたお土産のお菓子持って行って」
「了解であります!」
結局は汗をかくのだからラフで良いと合理的な判断をして普段着ているシャツとホットパンツにした。そのコーディネートにお気に入りの百合のマークの入ったキャップ帽を合わせた。恐らく瑠美の家からそのまま水木神社に行くのだからその方が良い。
リビングに行ってお菓子の入った紙袋を貰い「瑠美ちゃんのご両親によろしく伝えてね」と言われ外に出た。未だ灼熱と言って良いほどの照り付ける太陽と紫外線がお肌に突き刺さる。
バス停までに行く間に遠くに涼花を見かけた。夏なのに白いコートを着ている姿は間違いなく彼女である。町のパトロールをしているのだろうが、今は話をしている心の余裕がないのでそのままバス停に真っ直ぐ向かった。
バス時間にはちょうど間に合って乗り込んだ。休日の朝ということもあり人がそれほどおらず、手すりにつかまって立っていることなく余裕で座ることができた。
瑠美にバスに乗ったことを連絡すると、すぐに返事が来て《バス停で待ってるね》の最後の笑っている顔文字が可愛かった。
七日町のバス停が見えるとそこには赤い眼鏡の可愛い女の子が立っていた。バスを降りて
「おはよう瑠美ちゃん」
「おはよう。じゃあ、行こ」
「うん」
二人で並んで歩いている時に瑠美の後ろ髪が汗で少しベタつき首に纏わりついていた。恥ずかしながらそれを見て一瞬硬直してしまいそうになり、さらには尊いと思ってしまい、生きていて良かったと感じた始末だった。バス停から歩いて十分もしない内に
「ここが家だよ」
「へぇー、おっきい家だね」
辿り着いた瑠美の生家を目に焼き付け、玄関を見れば、ここから幼少時代から高校までの瑠美が学校に行く時の光景が頭に浮かんできた。
二階建ての家は近隣の家よりも敷地の面積が広く、玄関に入る前に右手にはブランコのある庭が見えた。
ドアを開けると瑠美の匂いが家中に染みついていて、一度深呼吸して肺の空気の入れ替えを行った。
「さぁ、どうぞ」
「お邪魔します」
玄関の真正面に二階に上がる階段がありすぐ右手にはドアがあり、瑠美はそこに入って行った。左手は廊下があり何処かに続いているようだが、そんなこと今はどうでもいい。
紗理奈の家よりも広いリビングはソファーが二つもあり、テーブルに沿ってエル字に並んでいた。真新しいダイニングキッチンにオーブンレンジが一つ、テレビは紗理奈が両手を広げても届かないほどに大きなものだった。キッチンにいた女性がリビングには行ってきた紗理奈に笑顔を溢した。
「いらっしゃい。あなたが紗理奈ちゃんかな? 初めまして、瑠美の母の真理です」
とても温和な感じのする女性だが、どこか団地妻的な色気を醸し出していると思った。瑠美に何処が似ているかと観察すれば、目元はそっくりで眼鏡をかければ瑠美のお姉さんと言っても通用するだろう。大人になったら瑠美のこんな風な色気を醸し出すと思うとよだれが出てくる。
「はい、初めまして。黒木紗理奈です」
「座って座って、今丁度お菓子ができたところよ」
「はい、ありがとうございます。あの、これ、家の母からです。いつも瑠美ちゃんにはお世話になっているので、良かったら皆さんで食べてください」
「あら、ありがとう」
「ありがとう黒木さん。これ冷蔵?」
「ううん、クッキーとかだよ」
「解った。ありがと」
瑠美が紙袋を受け取ってダイニングキッチンの台に置いて「ママ、ここに置いておくね」っと言って、まりは「解ったわ」と返事をした。
「黒木さん、こっち」
瑠美に誘われて大きなフカフカなソファーに座った。木製のテーブルの下から「ワンッ」っと鳴いた声が聞こえ、覗いてみるとそこには可愛らしい子犬がいた。
「黒木さん、この子がエリだよ」
「うわぁー小っちゃくて可愛い! 抱いても良い?」
「良いよ。おいでエリ」
瑠美に呼ばれて嬉しそうに尻尾を振りながらエリは胸元にジャンプした。毛並が滑らかで猫とは大違いだと思った。
「はい、そっと抱き締めてね」
「うん」
瑠美からエリを受け取ると犬の独特の臭さがなく、それとは別にシャンプーの芳しい香りを鼻で感じた。
「すごい良い匂いがする」
「エリはお風呂が好きだから毎日入ってるの」
「そうなんだぁー。初めまして、エリ、紗理奈だよぉ」
「ワンッ」
っと鳴いて紗理奈の頬を舌で舐めてきた。ざらざらと舌の感触は初めてだったので、これはこれで良いと思った。そこに真理が
「はい、どうぞ。お口に合うかしら?」
紅茶と共にやって来たお菓子はチョコレートソースみたいなものがかかっている。ケーキのようなのだが、形はドーナツにも見えた。
「いただきます」
「どうぞ」
フォークで一口サイズにしてパクッと食べると、ふんわりとした羽毛のような生地でパン、いや、プリンを食べている感覚だった。それにひんやりとしていて口当たりも非常に
「美味しいです! 初めて食べました!」
「あら、良かったわ。そんなに喜んでもらえるなんて」
「これ何て言うお菓子ですか?」
「チョコレートパンプディングよ。パンを使ったお菓子で、パンプリンとも言われているのよ」
「へぇー」
「作るのは簡単だよ。今度一緒に作ってみる?」
瑠美の何気ない一言に紗理奈は
「いや、本当に私の作る料理って美味しくも不味くもなくって……なんというか……」
「私と一緒に作りたくないの?」
チョコレートパンプディングを一口食べてこちらを見てきた瑠美に、ハートを無数の矢で射ぬかれて昇天しそうである。お菓子を食べ終えて、少しエリと戯れていたら練習する為に着替えることになった。
「私の部屋で一緒に着替えよ」
「う、うん。瑠美ちゃんの部屋かぁ」
紗理奈はゴクリと生唾を飲み込んだ。自制心を保てるかどうか不安で、瑠美の部屋に行く階段の数が幾つあるか数えるなどして気を紛らわせた。
「あまりジロジロ見ないでね」
瑠美がドアを開けると、そこには白を基調した部屋が広がっていた。瑠美が寝ているベッドには、ぬいぐるみが枕の脇にあり、机にはパソコンが閉じた状態で置いてあった。
本棚には「古今東西の化物」「妖の怪たち」などと言った本から、各種辞書に少女漫画が並んでいた。壁には制服がかけてあって、その横にはアニメのポスターだったが、紗理奈は知らないものだった。
「練習は二時間くらいやろうね。水木神社に一時半集合だから、一時前のバスで間に合うから」
「うん、よろしくお願いします、先生」
「先生はやめてよぉ」
そう言って瑠美は眼鏡を外して服を脱ぎ始めた。この瞬間が毎度一番緊張する。彼女の下着姿を見た時の心臓の鼓動が尋常ではないからだ。なるべく目を逸らしながら着替えを始めたが、部屋を見渡して不思議に思ったことがある。
白いシーツに包まれた恐らく鏡があるのだが、そこにはお札が貼ってあった。はじめから貰った物ではない。一緒に貰った時に自分と同じ白い紙だったのだから。シーツに張ってあるお札は黄色い紙で、少し色褪せているのだ。
「あれって鏡だよね?」
「う、うん。そうだよ……」
「どうしてお札が貼ってあるの?」
「……ただの魔除けだよ」
「ふーん。あれ先輩から貰ったやつじゃないよね?」
「う、うん、えっと、先輩に知り合う前に霊能力者の人から貰ったの」
「へー。その人は有名なの?」
「そうだね……もう! 黒木さん早く着替えて。私は終わったよ」
瑠美を見るとすでに着替えが終わっていて、紗理奈は未だにシャツを中途半端に脱いでいる状態だった。
「あ、ごめんごめん」
着替えて一階に下りてリビングの反対側の廊下を進んで行くと両側にドアがあった。右手のドアは西洋風な感じで、左手のドアは引き戸になっていた。瑠美は引き戸を開けて
「ここで練習しよう」
太陽が天井の窓から洩れていたが、部屋はそれほど暑くなく少し肌寒いと感じるくらいだった。
「ここは昔私の部屋だったの。今は物置に近いけどね」
「へぇー」
それから瑠美の指導の下に練習が始まった。最初はいつものように店舗がずれていたが、瑠美が紗理奈に一度店舗を合わせて、徐々にスピードを上げていった。
その成果もあってか後半からは瑠美と波長がシンクロしてズレることはなかった。
「良くなってきたね。これなら明日の本番も大丈夫でしょ」
「自信ついてきた。ありがと瑠美ちゃん」
「黒木さんが努力したからだよ。無駄なことなんて人生にはないよ」
「うん」
瑠美はスマホを見て
「そろそろお昼だけど、家で食べるよね?」
「良いの?」
「もちろん、ママはそのつもりで作ってると思うよ」
「何か御馳走になってばっかりな気がする……」
「そんなことないよ。さ、着替えよ」
「うん」
二階の瑠美の部屋に行く途中でリビングの前を通ると美味しそうなカレーの匂いを嗅いだ。着替えてからリビングに入ると真理がすでに料理をしていて入ってきた二人を見ると
「練習お疲れ様。もうすぐできるから座ってて」
「うん、ありがとママ」
「ありがとうございます」
そこにすぐさまエリが瑠美にすり寄ってきた。「クゥーン」っと鳴きながら彼女をつぶらな瞳で見つめ始めた。
「お腹空いたのエリ?」
「ワンッ!」
「良し良し、今ご飯あげるからね」
エリの頭を撫でて瑠美はキッチンに向かって戸棚を開けた。
「ママ、エリの好きな缶詰がないよ」
「買い置きがあるから持ってきて」
「解った。黒木さん座ってて良いよ」
「うん」
瑠美はエリを引き連れてリビングを出て行った。紗理奈はソファーに座って真理と二人になるとすぐに
「今日は来てくれてありがとう」
「いえいえ、いつでも呼ばれたら来ますよ。なんなら一緒に住んでも良いですよ」
「ふふ、それは楽しそうだわ。あの娘が友達を連れてくるのは小学生の頃以来だわ。それに私達二人だと寂しいからね」
「え? あ、あの瑠美ちゃんのお父さんって……いないんですか?」
「あら、ごめんなさい。あの娘から聞いてないのね。夫は六年前に亡くなったの。それから私達は二人なのよ」
「そう、なんですか……何かすみません」
「良いのよ。あの人が亡くなってからあの娘はね、何かに取り憑かれたように犯人を捕まえてやるって言ってるのよ。まったく、本当にあの人の子供だわ」
「あの、瑠美ちゃんのお父さんは、何の仕事をしてたんですか?」
「警察官だったのよ。昔瑠美はパパみたいな警察官になるって言ってたけど、あの人が死んでからそんな事言わなくなったわ」
確か前に警察官になりたかったと言ってたのを思い出した。その理由を聞いても瑠美は答えてくれなかった。この話をしている真理の目から哀愁が漂っているように見えた。
「あの人が死んだのは自分のせいだって言ってるのよ。あの娘……」
込み上げてくるものがあるのか、真理は言葉を詰まらせて
「……鏡に願い事したばっかりにって……」
「鏡?」
ドアが開いて瑠美がエリと戻って来た。真理は何事もなかったように鼻を啜りながら気丈に振る舞おうとしていた。
「エリ慌てないで、今お皿に分けてあげるからね」
何も知らない瑠美はそのままエリにご飯を上げていた。それからカレーチャーハンを三人で食べながらテレビを見ていた。お昼に時間帯の情報番組は平日の昼にやっている番組よりも面白いと思った。
食事を終えるとちょうど良い時間だったので、水木神社に向かうことになった。真理はエリを抱きかかえながら玄関まで出迎えてくれて
「紗理奈ちゃん、また来てね」
「はい。また来ます。ご馳走様でした」
「ママ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
バス停に行く間に瑠美が
「ママ、神前祭楽しみにしてるんだよね」
「家もだよ。お婆ちゃんなんて親戚まで呼んだんだよ。本当に緊張するよぉ」
「私も緊張するよ。すっごく」
「そんなことないよ。瑠美ちゃん完璧に踊れてるじゃん。私なんて――」
「神様の前で私がどう見られるのか……受け入れてもらえるかな?」
「どういう意味?」
「何でもない。黒木さんはマイペースなんだよ。教えたとおりにみんなを見て合わせてね」
「うん」
暑さは上昇しているように思えたが、遠くの空では黒く澱んだ雨雲が冷たい雨をもたらそうと町に迫っていた。
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