幻実

 昨晩はいつものようにベッドで眠ったが、動画ゆめは観なかった。署内でなんとしても解決したいと力を入れている強盗殺人事件の聞き込みに、同僚と共に関係先へ向かった。

鳥山と蓮口の事件もあって、有名になってしまった××警察署には、未だに新たな情報を手に入れようと、記者が刑事たちの周辺を嗅ぎ回っているらしい。目立つ行動はできないが、あの山荘に行く以外にもう情報を手に入れる方法はない。なりふりを気にしている場合ではないのだ。怨恨の残像は離れず、楠木にいつもつきまとう。


 後輩が運転する車は大降りの雨に打たれ、フロントガラスの視界を保とうとワイパーが規則的な運動をする。遠くの空が一瞬明るくなり、雷鳴も聞こえてくる。不穏を掻き立てる音という音。密閉された車内。助手席に座っていた楠木は落ち着きなく左足を揺らす。両目が忙しなく左右に動き、薄く開いた口から浅い息が漏れていく。

ラジオから公共交通機関の運行状況や渋滞情報が淡々と知らせてくる。今日は異常なまでに発達した温帯低気圧が、各地に歴代記録上位の降水量をもたらしていた。酷い場所では床上・床下浸水、堤防の決壊があった。××警察署の管内では、被害について上がってきていないが、雨と風の強さはこのまま車の中にいたいと思うほどだった。楠木の右手が頬骨を覆った皮膚をギュッとつねる。


「なんで朝出勤してきて、また雨の中出かけなきゃいけないんですかねぇ。もう靴の中びちょびちょですよ」


 むくんだ顔が特徴的な男性刑事が愚痴っぽく話す。


「でも、仕事場で靴と靴下脱いで、乾かしておくわけにもいかないでしょ? 裸足でうろうろもできないし、クロックスってのも格好がつかないじゃないですか。

今日みたいな雨の日とか特に酷いんですよ。うちの家族、雨の日には必ず揃いも揃って俺の足が臭いっていじり倒すんですよ。娘なんか俺の服と一緒に洗わないでなんて言ってくるし。父親の威厳ってどこに行っちゃったんだろうってね。……聞いてます?」


「え?」


楠木は腑抜けた声で反応する。男性刑事は一瞬楠木の方を見ると、笑顔を零す。


「大丈夫ですか? ボーっとしちゃって」


「……大丈夫だよ」


楠木は喉奥に溜まっていた空気を押し出すように返事する。


「楠木さん、雨の日苦手でしたっけ?」


「今は苦手だな」


「まあ、うちの課長も雨の日は機嫌悪いですからねぇ~。知ってます? 向田むこうだ課長が交番勤務だった頃、雨の日は朝起きれないんで遅刻しますって、上司に言う人だったみたいですよ。

あ! 絶対課長に言わないで下さいよ!? 俺が言ったってこと。めちゃめちゃ怒られるんで。ああ見えて根に持つタイプなんですよねぇ~」


バックミラーで自分の顔を確認する。顔の肌が荒れている。白い皮膚片が顔に浮き出ており、赤ニキビみたくなっているところもあった。

楠木が体を後ろに退く。楠木の顔がバックミラーから外れた。誰もいないはずの後部座席、そこに全身を濡らした黒のショートヘアの女性が座っている。

咄嗟に振り向いたが、後部座席には誰もいない。


「どうかしました?」


「いや……なんでもない」


楠木は青ざめた表情で顔を前に戻す。

この車にあいつがいる。富杉蓮が幽婚ゆうこんをした時に見た。あの雰囲気、姿、あれは島川彩希だ。確信があった。

車が信号前で止まる。片側3車線の道路の真ん中に楠木が乗った車が止まり、両サイドの車に挟まれている。右には危険物指定の文字の入った大型車、左には大型バス。普通車の車は両サイドの大物に挟まれる形となった。普段なら何も感じないだろう。しかし、ここに島川彩希がいる。2つの車の圧迫感と、後ろに見えた島川彩希。ここから逃げ出したかった。

信号は赤い。気づいたらまだかまだかと念じていた。バックミラーには視線を戻せない。さっき見た時は俯いていたから良かったものの、もし、目が合ったら……。

信号は青となり、車が発進した。落ち着くことはできない。この車から早く抜け出したい。必死に考えた頭が真っ先に口を開かせた。


「コンビニへ寄ってくれないか?」


「え?」


「トイレに行きたいんだ」


「分かりました」


 十分後、無事コンビニに辿り着き、トイレに入った。洗面で顔を洗う。ペーパータオルで顔と手を拭う。鏡に映る楠木の顔には、みずみずしさが戻っていた。

頬を触って、かさつきが無くなったのを確認する。トイレの電気の色が青白いせいか、生気が感じられない自分の姿に不安が込み上げてくる。

楠木は嫌うように視線を逸らし、トイレを出た。


 車に戻ると、男性刑事がサンドイッチを頬張りながら缶コーヒーを渡してきた。楠木は程よい温度を与える缶を開け、口の中に流す。


「社長ってそんなに恨まれるんですかね?」


むくんだ男性刑事は気の抜けた声で質問しながらスーツのズボンに落ちたパン屑を払う。


「仕事上恨まれることはあると思うけど、こんなに上がってくる人はそういないだろう」


 現在××警察署が調べている事件の被害者は、カジノ店経営の社長だった。一方投資家の一面も持ち合わせており、収入は現場となった彼の豪勢な自宅から窺えるように、相当な額になっていた。

さぞかしいい思いをしているだろうと思わせる反面、彼の周りは敵だらけだったと言っていい。カジノに置かれるゲーム機のメーカーや卸売り業者を大成に導いたのは彼だとの声は大きかった。革新的な宣伝方法やリピーターを増やすために散りばめられた演出は、業界内に留まらず多くの業界のビジネスモデルとして定着した。しかし、あがたてまつられた彼は、次第に高慢な態度を取るようになり、金に物を言わせる圧力によって日本のカジノ業界を独占する。

彼に見捨てられた関係企業はことごとく倒産に追い込まれた。自分の意に従わない従業員がいようものなら癇癪かんしゃくを起こし、陰湿なパワハラを行って自分から辞めるように仕向ける。セクハラも日常茶飯事で、社長のお気に入りとして目をつけられた女性は社内で"愛人候補"と呼ばれていた。

不満は溜まりに溜まっていたが、国内外に広い人脈のある彼には、他人を不幸のどん底に追いやるあらゆる手段を持ち合わせていた。彼の被害にあった人々の末路を知る者にしてみたら、彼に逆らうことは死も同然という認識が社員の中で認識されているようだ。

そんなこんなで敵を作った社長だったために、彼が経営する会社に訪れた際には仕事の邪魔だと言わんばかりに素っ気なく対応され、社長が死んだことを悲しむ人はいなかった。むしろ、余計な仕事増やしやがってと愚痴が聞こえてきそうな雰囲気だった。

 

「でも、今回の事件は怨恨じゃなくて、面識のない人物による犯行という見方でまとまってるんですよねぇ。でも、俺は面識のない強盗に見せかけた怨恨による殺人じゃないかな~って見てるんですよ」


 男性刑事は自分の顔の前に立てた人差し指を持ってきて、得意げに推理を披露する。


「防犯カメラに外壁をよじ登る男も映ってたし、窓ガラスを割った形跡もあった。外部からの犯行は間違いない」


「憧れるじゃないですか。ミステリーに出てくる名探偵とか」


「名探偵は大体刑事じゃないだろ?」


男性刑事はため息をつく。少し落胆した様子の男性刑事は小さくなっていたサンドイッチを口の中に放り込んで、手にほんの少しついていた食べカスを両手ではたく。


「行きますか」


男性刑事はシートベルトをして、エンジンをかけた。それに応じて楠木は缶コーヒーをドリンクホルダーに置き、シートベルトをした。

楠木はバックミラーに視線を向ける。後部座席の背もたれが映っているだけ。楠木は目をしばしばさせ、下りてくる安堵に浸る。

車がコンビニの駐車場から出ようとする。ラジオはリスナーからの質問をトークテーマにして、男女2人の軽快な雑談を垂れ流している。くだらなさに失笑を零す男性刑事。くだらなさも、男性刑事のひょうきんな振る舞いも、少しずつ日常を感じられるものであった。楠木にとって、それが精神安定剤の役割を果たしているように思った。


 30分後、ようやく雨のドライブが終わるとカーナビが知らせてくれる。空になった缶コーヒーが口を大きく開けてドリンクホルダーに拘束されていた。雨も少しずつ弱まり、車に打ちつける音も静かになってきている。

しかし、今は渋滞に引っかかっていた。230メートル先の円環交差点で事故があったようだ。眠気覚ましに話したいと言い出した男性刑事の武勇伝を聞いていたが、こちらが眠くなりそうだった。相変わらずラジオは2人の雑談で盛り上がっている。こっちを聞いていた方がマシだなと思い、音量を上げた。すると、突然音が乱れた。音が途切れ途切れになり、何を話しているかも分からない。


「どうしました?」


「いや、チャンネルが合わなくて……。他に変えるか?」


「じゃ、お願いします」


楠木はボタンを押してチャンネルを変えてみるが、どのチャンネルに合わせても聞こえるところがない。


「FM全滅ですか?」


「そうみたいだな」


「楠木さん、もしかして壊しました?」


ニヤついた笑みでからかう男性刑事。楠木は不満げな顔をする。


「冗談ですよ~。AMにするしかないですね」


楠木はボタンで操作し、AMに変えてチャンネルを合わせる。しかし、どこも音が聞こえてこない。やっぱり壊れたかと思いきや、音が聞こえるチャンネルがあった。だが、やけに静かな放送だった。たき火の音が流れている。ヒーリング効果を狙った番組だと思ったが、楠木は不穏な気配を感じた。

カーナビ画面の左下に表示されている数字は2135Hzヘルツ。自分が知らないだけだと思い、男性刑事に問いかける。


「なあ、2135なんてチャンネル、ラジオにあったか?」


「は?」


男性刑事も目を大きく開いて、まじまじと数字を見る。


「なかったと思いますけど、表示されてますね……。新しい放送局でも開設されたんじゃないですか?」


あっけらかんと言う男性刑事は、前の車の進むスピードに合わせて前進させる。

楠木は引っかかっていた。2135。この数字が何を意味しているのか。偶然だと思うが、島川彩希の姿が見えたこの車内ならば、大学生集団失踪事件が起こった同じ年が表示されることに、霊的な介入を疑いたくなるのだ。


「こんにちは。越本薫です」


 いきなり語りかけてくるラジオは、越本薫を名乗った。


「え、越本薫って……」


驚いた様子で男性刑事は楠木を見る。楠木はどうやったらこんなことができるのか不思議でならなかったが、霊的な物でないとするなら放送局をジャックするか、あるいは受信系統に何か細工をしたのか。飛躍した思考が募ると共に不安が押し寄せる。


「あ"っ!」


息を詰まらせるように声を上げた男性刑事が苦しそうな表情をする。自分の首を押さえ、運転席の背もたれに体を押しつける。ブレーキから足が離れ、車がゆっくり進んでしまう。楠木は足を出そうとしたが、車は前方で止まっている車に当たる寸前で止まった。

男性刑事の足がブレーキを踏んでいた。男性刑事に視線を振った時、楠木は男性刑事とばっちり目が合った。しかし、それはひょうきんな男性刑事ではなく、赤い目をした男性刑事だった。ハンドルを掴み、機敏な動きで車を操作する。車は少しバックし、反対車線へ移ってUターンし始めた。


「ふふふふっ、雨のドライブですよ。楠木将伸さん」


「お前……これからどこに連れていく気だ?」


「決まってるじゃないですか。あなたが行きたがってるあの山荘ですよ。都合がいいでしょ?」


「どういうつもりだ?」


楠木は眉間に皺を寄せてラジオに語りかける。


「最初からずっと一緒ですよ。僕の目的は、あなたに真実を伝えることです」


車はこれから行くはずだった被害者の関係先から真逆の方向に走っていく。

楠木はどうすることもできず、車の中でじっとしているしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る