主観映像記録

 数日後、楠木は社内の人間の目を盗んで証拠品保管庫に入る。マイクロSDカードを探し出し、この日のために仕入れたタブレットの中に動画のコピーを作成した。すぐにマイクロSDカードを戻し、証拠品保管庫を出た。



 身が入らないまま仕事を終えた後、楠木はネットカフェのある階段の前に立つ。エレガントな雰囲気を感じさせる赤い壁に覆われる階段が続いている。赤への拒絶反応が足を止めていた。

赤なんてどこにでもある色だ。他の店に変えたからといって、何かあるとかないとかで怯えていてもしょうがない。

何の変哲もない建物を前に佇み、見上げているコートを着た中年を通行人の目が素通りしていく。平然と階段を上っていく人たちが羨ましく思えた。

楠木は気持ちを切り替え、階段に足をかけた。俯き加減になった楠木は、くすんだクリーム色の折り返しの階段を上る。

3階へ行くと、営業時間の書かれた自動ドアがあった。ゴシックで"KUTUROGI"の文字が透明なガラスに張り付いている。ドアも幅がなく、大きな字で書かれているため、店内がよく見えない。これはこれで、隠れ家的な雰囲気が演出されていると解釈すべきなのかもしれない。


反応の鈍い自動ドアがゆっくりと開かれた。赤茶色のカウンターにいた店員がスマイルを投げて挨拶してくれる。楠木はカウンターに向かい、言葉数少なく利用の旨を伝える。

店員とのやり取りを一通り済ませ、店員から渡された透け感のあるブルー系の小さなカゴを持って、カウンターを離れた。ヘッドホンや利用時間や終了時間などの記載のある紙を挟む長方形のバインダーがカゴの中に入っている。

楠木は、カウンターの側にあるドリンクサーバーでマグカップを取り、コーヒーを入れた。マグカップを持って、部屋番号の並ぶドアに挟まれる通りを歩く。天井に散りばめられた小さなスポットライトが、カーキー色の壁から抱く安らぎの印象を強めている。並んでいるドアは洋風の格式の高い家にでもありそうなデザインと、ダークを少し入れたアクアマリン。しっかり幅の取られた通路にはまったく無駄な物がない。特徴的なドアなため、物足りなさは感じない。


 ネットカフェに来るのは二十何年ぶりだった。ネットカフェはもっと簡素な内装で、大きな室内に仕切りを作っただけのもの。楠木が学生時代のネットカフェはそんな感じだった。真新しいネットカフェの姿に内心衝撃を受けていると、14の番号を視線に捉え、ドアに近づく。

波打つ金色のレバーハンドルが楠木の手にしっくりと馴染む。アナログな音を立てて下りる。押された扉が前に押される。

ひし形のチェック柄の壁に囲まれた2畳ほどの部屋に、黒の椅子とデスクトップ型パソコンが1台。完全個室。

2畳と言えど、自分が使っていた頃はもっと狭かった。これがネットのできる個室とは思えないくらい快適な空間に見えた。


楠木はテーブルの端に小さなカゴを置き、コートを脱いでハンガーにかける。弾力感のある椅子に腰を落とすと、鞄の中からタブレットを取り出した。

今日の目的は、動画のコピーの作成、動画の再生が可能かどうか、まだ観ていない次の動画の確認、そして、自分の身を守る方法を探すこと。タブレットを操作し、今日保存したばかりの動画画面に移る。

観ていない動画はあと4つある。これを全て見終えたら、自分はやはり死ぬのかもしれない。そうだと分かっていても、呪いを解く重要な手がかりは今のところこの動画だけだ。楠木は少し緊張した面持ちで動画を再生させた。

黒画面の中心に灰色の円が現れ、青い光点が円をなぞる。突然弾かれたように映像が入った。


「こんばんは。越本薫です。あなたに選択権はありません。あの時、僕たちも選択権はなかった。この苦しみを、あなたは受けなければならない」


 明かりのついた部屋、撮影場所は山荘の宿泊部屋だろう。越本薫はベッドに腰掛けている。窓の外には横殴りの雪が見える。カメラの焦点は少し下りたと思ったらすぐに越本の顔に戻る。

誰かがカメラを持っているような動き。カメラは落ち着きなく辺りを見回す。誰だろうと推理していると、カメラの持ち主がすぐに特定できる情報を映した。

カメラは真下を向いた。ねずみ色のスーツとアスタリスクの小さな紋章がたくさん入った青いネクタイ。自分がよく着ているスーツだ。


「さて、あの動画の続きの話をしましょう」


楠木は困惑する。


「ま、待ってくれ」


 声が制止をかける。それは越本の声ではない。激しく聞き覚えのある倍音。


「なんでしょうか? ああ、そこの椅子におかけになって下さい」


越本は気だるそうに着席を促す。黒い長袖のシャツと赤茶色のスラックス、青を基調とした 3本のオレンジの線が斜めに入ったスニーカー……。これは、楠木自身の目で見た夢そのもの。あり得ない。これが予知夢だったとしても、なぜ自分の声が入ってるのか。


「その前に、なんで俺がここにいるんだ」


似た声に決まっている。これが自分の声のわけがない。

越本薫と一緒にいたのは夢の中。だが、決定的な証拠がここにある。夢と同じように、越本は楠木の反応を笑っていた。


「なんでって、あなたが動画を観てくれたからじゃないですかぁ」


動画は、以前の異常な挙動が嘘だったかのように驚くほど綺麗に映っている。音にも違和感はなく、はっきりと聞こえている。


「どうすればいいんだ?」


疑いようもない声は越本にすがる。だが、説明がつかない。

いくら何でもこれはおかし過ぎる。呪いだから。それだけで片付けられない気がした。

自分が越本と撮影をしている。一度も会ったこともないのに。なぜ、が何度も頭の中に浮かんで、エラーを起こす。


「もういいだろ。何人殺せば気が済むんだ!」


怒鳴り散らす画面の中の楠木。そもそも、自分が若い越本と会えるはずもない。

揺れる瞳に映る画面は楠木の思考を置いていく。そして、この映像の重要性が意味するものについて、考えが巡り始める。


「あなたに分かりますか? 突然大勢の人から追われて、家族に見限られて、孤独の中で訳も分からない物につきまとわれる人間の気持ちが?」


 越本はカメラに近づく。カメラは横に移動した越本の顔を追う。薄笑いを浮かべ、再び柔らかく着席を促す。

これを観ているのは、自分だけじゃない。同僚の刑事もこれを観たはずだ。だが、この映像について何も聞かなかった。これが自分の声だと気づかなかった?

しかし、誰か1人くらい気にしてもいいじゃないだろうか。蓮口の家族がこれを観るとは思えないが、もし、これを観た蓮口の家族が、自分の声と似ていると言い出したら……。

蓮口の家族とは幸い一度も会ったことはないし、話したこともない。不安と安堵の境界で、心の波が寄せては返す。

それから、越本は実際に見た夢と同じことを話した。


 楠木は一通り見終え、タブレットをテーブルに置いた。冷めてしまったコーヒーをすするが、苦味がいつもよりも感じられない。ただ黒い液体が喉を通っただけ。味気のない刺激だったが、喉に液体が通ったというだけでも気分転換にはなった。

どうやって作った……。それを考えてもしょうがない。なんせオカルトの力が加わっているのだから。分かってはいるが、胸やけを解消したいと思う。

しかし、オカルトの世界を知らない楠木が、自分が経験してきた人生で推し測れるわけもない。この疑問はひとまず置いておくしかない。それよりも助かる方法だ。

楠木はタブレットを見る。これからまた新しい動画を観ようとは思えなかった。

パソコンの時計は20時44分を表示していた。利用時間終了まであと30分くらいはあるはずと、小さなカゴの中にあるバインダーを取って確認する。


 さてと、助かる方法について逡巡しゅんじゅんするも、動画から得られるヒントはなかった。富杉蓮のような霊視があれば、何か見えてきたかもしれないが、ない物についてあれこれ考えてもしょうがない。現状では、代わりの結界となる物を用意するしか思いつかない。


富杉蓮のくれたお守りは、蓮口を守ってはくれなかった。柳を模した木製のネックレスは千切れてバラバラになり、緑の藤の文様が描かれているオレンジの小袋は、文様が掠れており、科捜研から流れてきた情報によると、入っていた小さな水晶は黒く変色していたらしい。

役に立たないお守りやネックレスを持っていても意味がない。ゴミ箱に入れようとしたが、わずかでも効果があるならと、妻と娘にそれぞれプレゼントした。妻も娘も微妙な顔をしていた。年頃の娘に関しては、可愛くないと辛辣なお言葉を頂戴した次第だ。

妻はいきなり変なお守りをプレゼントし始めた楠木をいぶかしんでいたが、それを問うことはない。娘が眠りにつき、静まったリビングで家事を終えた妻は、テレビに目を向けるソファに座っていた楠木の横に腰掛け、何も言わずに手を握ってきた。

「どうした?」と声をかけても、ニコッと優しく笑う妻は「何でもない」と言い、バラエティ番組をやってるテレビに視線を向けていた。昔からそういう女性だったと懐かしむ。



 犯人を目の前で取り逃がしたことを上司にとがめられた日。旧姓の相島あいじまだった頃の妻の誕生日だった。せっかくの誕生日だからと切り替えたつもりで 1つ星ホテルの料理を一緒に食べ、用意していたプレゼントを渡す。男として、弱さを見せたくもなかった。とにかく早弥子さやこの嬉しそうな笑顔を真似るように笑うことを終始心掛けた。


デートが終わりに近づいた駅のホーム。電車が入ってくる案内放送が流れ、いつものように一言二言で別れを告げ、またねと言い合って電車に乗る早弥子を見送った。

トンネルの奥に目を凝らしても電車が見えなくなった時、余計に悲しくなった。煤けた背中をして駅を出たら、さっき別れたばかりの早弥子からの着信。早弥子との関係がまだ恋人と言うにはあやふやだった頃には、たまにこういうことがあったが、かれこれ3年はないと記憶していた。

トーク画面には、『今日もお疲れ様。私はいつでも、マサ君を応援してるから』とあった。演技してた自分が馬鹿馬鹿しく思えたが、支えてくれる人がいると認識させられたのも事実だ。あの時、楠木は早弥子との結婚を始めて意識した。



 それなりに幸せな家庭になって、それなりに家族としてやれてきている。それも全て早弥子のお陰だ。ぶつかることは何度もあるけど、しっかりと自分を持っていて、強くも優しい姿を好きになった。尊敬できる大切な人になった。

楠木は左手薬指の指輪を見る。シワシワの顔になっても、この指輪を見ることができるだろうかと感慨にふける。



 プロポーズした時は、リングケースを開けたら何も入ってなかったなと思い出す。

盗まれたかと慌てたが、昨晩自分のリングケースでプロポーズの練習を鏡の前で練習していたことに気づいて合点がいく。納得のいく表情ができず、何度もやっていたら、中の指輪が落ちてどこかへ行ってしまったのだ。部屋の中を必死に探し回っているうちに疲れて寝てしまい、プロポーズ当日を迎えた。

遅刻ギリギリまで寝ていたために急いで支度をしていたら、自分のリングケースを鞄の中に入れてしまっていた。カッコ悪いと笑い、次に出た言葉がよろしくお願いします。



 この思い出も、自分の中から消えていく未来が迫っているかもしれない。来てほしくもない未来の自分に同情する。熱感のある滲む視界を閉じて、両手で顔の上から撫で下ろす。


積み上げてきた時間の軌跡を思考から振り払い、右にあるマウスの上に手を重ねる。ネットで、"呪い"、"浄化"、"お守り"などの検索をかけた。

楠木は藁をもつかむ思いで、画面にかじりついた。

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