狭間の住人
越本は嘲笑した笑みを携えたまま、話し続ける。
「これまで毅然とした態度を振る舞っていた安西が、弱々しく映ったんです。
僕が安西のあの姿を見たのは、初めてだったかもしれません。
僕らはみんなで食材のあるワイン蔵に行くことになりました。キッチンから右に行くと、棚に並べられたアンティークのオモチャや民芸品があるギャラリースペースの後ろに、電気のつかない通路があります。その通路に入ってすぐの右の扉を引きました。角ばったコンクリートの下る階段が出迎えてくれたんです。階段の先は暗闇で何も見えませんでした。
宮橋は扉の裏に掛けられた電池式のランプを取り、先へ進みました。僕らは後に続いて階段を下りていきます。足の裏に冷たさが感じられ、慣れない僕と安西、白川は一様に険しい顔になっていたでしょう」
その時、楠木の視界がぼやけた。楠木は瞬きをするが、何度やっても直らない。むしろどんどん悪くなっていった。越本の輪郭が分からなくなり、ぼかした色合いの光の玉しか見えなくなっていく。
「それよりも、僕は後ろが気になっていました。最後尾にいた僕は、離れていく扉を見ました。
光の差す開いた扉がもし閉められたら? 後ろから誰かついてくるんじゃないか」
鮮明な世界とぼやけた世界が交互に現れる。目に意識を集中させるも、改善されない。
「不安がつきまとっていましたが、みんなと離れて死ぬくらいなら、みんなと一緒に死んだ方がいいかもしれない。だんだん離れていく出口を見ながら、絶望の未来しか思考できなくなっていきました」
気分は悪くない。ただ視界がおかしくなっているだけという状態。視力の悪い人が見える世界を体験しているようだった。
楠木の頭にこの現象の理由が過る。目覚める予兆なのではないか。
楠木はもう少しの辛抱だと言い聞かせ、越本の話に耳を傾ける。
「両側の壁に手をつきながら階段を下りて床に足がつくと、宮橋が持ったランプは、ワイン蔵の壁にはめ込まれた長机を照らしました。宮橋が机の端にあるスタンドライトのスイッチを入れると、ワイン蔵の中が一気に明るくなったんです。周りを囲む壁の上部に、配線が真っすぐ張り巡らされ、むき出しのLEDの豆電球が光を灯していました。
長机にはスタンドライトの他に、大小様々な紙が積み重なって置かれていました。気晴らしにと手に取ってみると、領収書や明細書ばかり。
中には手紙もありました。宛名に知らない名前が書かれていたこと、明細書の名前と一致していること。元家主に送られたものだと推測するには十分でした。
また、作りかけの民芸品や彫刻刀、使いかけの絵の具もそこにあったんです。今までここに誰かいたかのような置かれ方だったのを覚えています」
まだかまだかと悪夢の終わりを待つ楠木。強制的に終わらせる方法はないかと、思考を凝らしていく。
越本に殴りかかってもいいが、果たして夢の中でそれをしてもいいのだろうか。現実に戻った時、何かされるんじゃないかというリスクが楠木の拳を収める。刑事という職業上、犯人と対峙して捕まえようとしないのは恥である。丸腰の相手では弁解の余地がない。
どうせ夢なのだ。ここで捕まえても自己満足だし、越本の主張が濃厚となった今、越本を捕まえることはできない。
自分を痛めつければいい。楠木は人差し指の皮膚に親指の爪を食い込ませた。
局所的な痛みが伝わってくる。
「部屋の右側の壁一面には、運び出すのも一苦労な大きさのワイン樽が並び、木材がぎっしり入っていました。薪の一部には虫が湧いている物もあり、できるだけ見ないようにして、視線を移すことにしたんです」
しかし、夢は終わらない。越本の声はあやふやな視界と違ってはっきりと聞こえてくる。
「ああ、その時、『なんか楽しそうだな』って宮橋に言われましたね。僕はそれが初めてワイン蔵に来たんで、珍しかっただけだと答えました。宮橋は僕の返答に含み笑いを浮かべ、階段横の壁にぴったりとくっついているブラウンのチェストに近づいていきました。
頬が張っている。僕は笑っていることに気づいたんです。友達が死んでいる状況で笑うのは後ろめたさがあり、控えるべきという葛藤が心を突いてやめました。
宮橋が引き出しを開けると、ガラガラと音を立てて、大量の缶詰が現れました。サバやあんこ餅、すじ煮込みと、種類はかなりあったと思います。僕らは適当に複数の缶詰を取って、1階へ戻りました。
今日はここまでにしましょう。時間切れです」
楠木は安堵するも、終わらせてはいけない気がした。
このままでは十中八九、鳥山と蓮口と同じ道を辿ってしまう。目的を忘れちゃいけない。そう思い直し、楠木は声を上げた。
「待て!」
「なんですか?」
「1つ聞きたい」
「いいですよ」
越本はため息をつき、ベッドに腰掛ける。
楠木は何で1つと限定してしまったんだろうと後悔する。本当はもっと聞きたいことがたくさんあるほど謎は多く、何より助かりたかった。
だが、越本は今日はここまでと言った。
また会える。そこに何の保証もなかったが、楠木は自分の直観を信じた。
楠木は質問を選別し、口を開く。
「死んだ友達の死体は、どこへやった?」
「僕は触ってません」
「じゃあ誰が?」
「さあ?」
楠木はもう少しだけ時間を引き延ばそうと瞬きを繰り返し、意識を集中させる。
「当時、死体は発見されなかった。もし、君が言ったように死体が動かされずあの場にあったなら、必ず捜査員が気づくはずだ。誰が、どこに隠したんだ? 思い当たることはないのか?」
「だから知らないですよ。僕らを襲った女でしょ? あの人に聞いて下さいよ」
めんどくさそうに体を反らす越本。
「協力してくれ。もし協力してくれたら、君の無実を世の中に晒す」
「あんたにできんの?」
「俺は死ぬわけにはいかないんだよ。君もそうだろ?」
越本は口元を緩め、首を傾けてこめかみを掻く。片目を細め、渋い表情をしている。
数秒会話が止まった。ほんの2メートルくらいしか離れていないのに、楠木の目は越本の顔をはっきりと認識できなくなっていた。
越本は迷っている。確信めいた何かがそう悟っていた。
「ま、やってみれば」
「情報をくれ。呪いを解く情報を」
「できたらね。じゃ、今日はバイ、バイ」
その声を最後に、視界は黒に覆われた。感覚は途切れ、深淵に落ちていく。
すると、突然銀色の液体がいくつ物のらせんの筋に流れる映像と雑音が入った。
らせんは縦に3つ伸び、らせんの間では、銀色の液体を浴びた小さな虫たちが蠢いている。
雑音はいつまでも聞いてられるような音ではない。単純に濁りを帯びたつんざくような大きな音だったのもあるが、何度も繰り返されていて不快極まりない。
頭の中のあらゆる細胞が、得体のしれない物に喰われていくような恐怖に陥る。息が詰まり、鼻根の中にも固形物が入っている感覚がある。固形物が鼻根を貫いて脳に達したイメージが、漠然と沸き起こった瞬間、瞼が動いた。
うっすらと天井についた埃の筋が見える。薄暗い室内は、激しく見覚えのある寝室だった。
楠木は上体を起こした。
はっきりと記憶がある。悪夢の記憶が。
ここまではっきり覚えているのも珍しい。夢なんて20代からまったくと言っていいほど見ていない。
楠木は目線を下に向ける。楠木の体は薄いネイビーのパジャマに包まれていた。
安堵したのも束の間、左手にざらつきを感じた。楠木は布団の中にあった左手を出す。顔の前に持っていくと、灰がしっかりと左手の掌底に残っていた。
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