悪夢
楠木は自分の目に見えているものを疑った。
越本薫が目の前にいる。はっきりとした映像……いや、越本の実像が、楠木を見ながらベッドに腰掛けていた。黒い長袖のシャツと赤茶色のスラックス、青を基調とした3本のオレンジの線が斜めに入ったスニーカー。どれをとっても、逃亡者とは思えない綺麗な服装をしている。
楠木は周りを見回す。山荘の個室部屋、夜を映す窓、くすんだ壁とゴッホが描いたような向日葵の壁紙、壁際に置かれたサイドテーブルと木製の椅子がある。
なんだか体がごわごわする。見下ろすと、スーツを身に纏う自分の体があった。
「さて、あの動画の続きの話をしましょう」
VRでも観ているかのように、山荘の中に自分がいる。
「ま、待ってくれ」
楠木は越本を制止させた。
「なんでしょうか? ああ、そこの椅子におかけになって下さい」
「その前に、なんで俺がここにいるんだ」
越本は肩を揺らして笑う。めいいっぱい口角を上げ、歯を見せる越本。声も、目に映る視界も、本当に会話しているみたいだった。
「なんでって、あなたが動画を観てくれたからじゃないですかぁ」
夢……こんなにもリアルな夢を見たことはない。
富杉が言っていた言葉が出てくる。
楠木は自分の死が近いのか不安になる。
「どうすればいいんだ?」
「は?」
楠木は表情を強張らせて続ける。
「お前の目的を言え」
「ふふっ、刑事みたいですね」
越本は口元を隠し、細めた目を向けて嘲笑する。
「言ったじゃないですか。復讐だって。あなたたちの苦しむ顔が見たかった。それだけです」
「もういいだろ。何人殺せば気が済むんだ!」
楠木は目を見開いて威嚇するように怒鳴る。越本の表情から笑みが消える。
「僕は警察に殺されたんです。僕は助けを求めようとしてたのに、あなた方が僕を犯人にした」
「それは昔の現場の奴らが」
「ええ、あなたはあの現場にはいなかった。刑事にすらなっていません。でも、よぼよぼのジジイ共を殺しても余興にならないですから。罪なき人を裁くように仕向けた警察は、僕を含め、たくさんの犠牲を払いました。
だから僕も同じことをしてやるんですよ。刑事でも、その事件とは関わりのない奴に地獄を見せるって。
あなたに分かりますか? 突然大勢の人から追われて、家族に見限られて、孤独の中で訳も分からない物に付きまとわれる人間の気持ちが」
楠木は歯を強く噛み合わせ、押し黙ってしまう。
越本は立ち上がる。ベッドが軋む音を立て、暖色の光に照らされた埃が宙を舞う。
越本は楠木に歩み寄り、片手を椅子に向ける。
「まあ、お座り下さい。夜はまだまだ長いですから」
不敵な笑みを見せて、越本は座るように促す。
ここで駄々をこねたところでどうにかなると思えなかった。楠木は渋々席についた。
臀部にしっかりと感じられる圧。体に馴染んだスーツが衣擦れの音を立てる。
丸いサイドテーブルの脚は三又に分かれて、柱を支えている。テーブルに置いた手に感じられた砂のようなざらつき。左手を返すと、掌底に灰がついていた。
なんでテーブルに灰が被っているのか疑問は湧いた。しかし、今この状況に戸惑っている自分がまだいて、そこに頭を使う余力はなかった。
「12月29日の晩、僕らは落葉樹林に火をつけて助けを呼ぶことにしました。必要な物を集め、準備を整え、『fascination』の窓から火の元となる松明代わりの棒を投げようとしました。ですが、三嶌璃菜が悲鳴を上げて忽然と姿を消したのです。
僕らは山荘内を探し回りました。すると、最初に火をつける準備をしようとしていた『juncture』の部屋から、一緒に探していた白川琴葉と安西美織の叫び声が聞こえてきたんです」
越本は沖で猛威を振るっている巨大な台風を見つめる少年が佇む絵の横で、壁にもたれる。台風は荒波を立て、漁船を呑み込もうとしている。
夢だ……少し考えれば分かることだ。現実なら楠木より年上になっているはずだった。こんなにも若々しい顔で30年もいられるはずがない。
夢の中にさえ、あの呪いは侵食してしまう。まさに悪夢だ。
「駆けつけた宮橋和徳も、部屋の中に入ってすぐに悔やんだ声色を零しました。
僕の足は、簡単には動いてくれませんでした。また1人、いなくなっていく現実を見たくなかったんです。ですが、みんなの見えていないところで、1人になるのは嫌でした。
事前に撒いていた塩があっても、女性の霊は中に入ってくる。僕は締めつけられる神経に訴え、『juncture』に向かいました」
窓が突然の突風に煽られ、ガタついた音を鳴らした。いきなり鳴り出した窓に体を強張らせ、窓に視線を向けた。
それが霊による物ではないかと勘ぐってしまう自分がいた。これが夢ならば、どんなことが起きてもおかしくはない。霊が現れ、自分に襲いかかってくるかもしれない。そして、自分も鳥山や蓮口のように変死体となってしまう。
予言的妄想に憑りつかれている間も、越本は心ここにあらずといった様子で楠木が背にしている壁を見つめながら話を続ける。
「荒れた部屋の様子は一度入った時と変わらない。そう思いたかった。
部屋の奥の右隅でした。壁についていた古い血ような痕に重なって、綺麗な赤い血が飛び散っていたんです。血は床にも注がれ、茶色のフローリングの床に小さな水たまりを作っていました。
キャンバスのようになった壁の隅に嵌め込まれた被写体は、赤い背景に囲まれて壁に留められていたんです。鎖骨の間から突き出た木片の棒は、先ほど僕らが壊した窓枠の一部でした。四角柱を象っている細い棒は確実に喉の下を貫いていたのです。そこから血が垂れて、青と白のチェック柄のシャツを赤く染めていました。両目を虚ろに開け、口を半開きにしているその様は、呼吸が浅くなっていって、苦しみながら息絶えたのが想像できました」
「三嶌璃菜は死んでいた?」
越本は首肯する。
「白川は安西の腕の中で泣きじゃくって、『私たち、みんな殺されるのよ!』と叫んでいました。僕らの中で、もう一度火をつけようと言い出す人はいませんでした。
そんなことをすれば、また誰かが狙われる。
霊は見せしめのために、三嶌璃菜の死体を僕たちに見せつけたんです。安西も哀しみに暮れた様子で白川を抱きしめていました。ドア枠にもたれる宮橋は死体から目を背けていました。僕も含め、みんな絶望的な状況にどうにもできなくなったんです」
越本は窓に近づいていく。窓の右側に立ち、夜と雪に溶け込む落葉樹林の景色を感傷的な面持ちで見つめる。
「僕らは部屋を後にし、1階へ下りました。誰も話すこともなく、リビングでただ一緒にいるだけでした。そうしていることしか、僕らに安らぎはなかったんです。
僕らは壁にかけられた掛け時計ばかり気にしていました。どんなに時間が過ぎても、状況が好転することはありません。同じ恐怖を味わう者同士、ひたすら励まし、助け合う。気力を使い果たした僕らには、暗闇の中で光が差すのを待つしか術はありませんでした。
すると、ローテーブルの側でカーペットに座っていた宮橋がおもむろに、『腹減ってないか?』と聞いてきました。
正直、僕は食事をする気になれなかった。安西と一緒に革の赤いソファに腰掛ける白川は、『今更食事なんかしても意味ないよ。どうせ、死ぬんだから』と小さな声で吐き捨てました。白川は何度も泣いた目を赤く染めていました」
楠木は鳥山の死体を思い浮かべた。赤い目。巫女もまた、赤い目をして死んでいた。楠木の中で不吉な色となった赤を聞いただけで、後頭部の辺りに不快な痒みを覚える。
「どうせ死ぬなら、最後に何か食って死にたい。少しくらい、ささやかな幸せを感じたっていいだろ? と、宮橋は優しく語りかけました。宮橋は僕と安西にも再び聞いてきました。疲れを滲ませた笑みを向ける宮橋は痛々しいものでしたが、少しだけ空気が軽くなるのを感じたのも事実です。
宮橋の言うことも一理あると思い、僕は何が食えるのか聞きました。宮橋は小さく笑い、『待ってろ』と言ってどこかへ行こうとしました。
ちょっと待って!」
越本がいきなり振り向いて大きな声を出す。
楠木は反射的に体を後ろに引いて顔を背ける。楠木は睨んでいたが、越本はからかえてスッキリしているかのように引き笑いをする。
「安西は宮橋を引き留め、みんなで一緒に行った方がいいと、提案しました。ですが、安西の顔にははっきりと不安がこびりついていました」
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