変わらない未来の居場所
翌日、楠木は蓮口の死を聞いた。潰瘍ができて十二指腸に穴が空き、腸の内容物が腹腔内に漏れて、バクテリアが腹腔内に増殖して炎症を起こす、急性
蓮口の症状は腹膜炎の典型的な例で、潰瘍ができる原因も思い当たる節があった。
不愉快な動画を観るという長期のストレス環境下に晒され、精神的に来ていたことだろう。友人にもストレスで潰瘍ができた奴がいたから珍しくもなんともない。
だが、対応した医師は首を傾げていたようだ。
急性
精神的には多少の無理はあっただろうが、体は健康だったと思う。本来であれば、24時間以内に対応すれば死にはしない病気だった。症状が現れてから死ぬ時間が早過ぎると医師や検死官は口を揃えていた。
注目度の高い神社での死亡事件も、これまた一般の解釈では身に余る出来事だった。
富杉蓮の死因は窒息死。星の魔法陣を書いたお札を喉に詰まらせていたためだった。状況は事件性の高いものに見えるが、お札や遺体、現場にも犯人らしき痕跡は残ってなかった。客観的証拠はないが、自殺という処理がなされるようだ。
富杉もまた、鳥山と同じように目が赤くなっており、これに関しては今のところ原因不明と言うしかないらしい。死亡した他の巫女も目を赤くさせ、血を流していた。
富杉が倒れていたのは
あれほど有名な霊能者でも太刀打ちできない怨霊に、敵う霊能者が存在するのだろうか。そもそも、
楠木は動画のことを思い出す。やはり、アレを観るしかないのかもしれない。
蓮口の物だったノートパソコンは押収され、証拠品保管庫にある。富杉蓮と蓮口たちの死について何か知っていると思われたため、楠木の事情聴取が行われた。楠木は動画の件と大学生集団失踪事件のことを正直に話した。
状況的には病死や自殺ということが分かっているため、ほんの1時間程度で終わった。
それでも、楠木の頭の片隅には、彼女の影がちらついていた。
彼女は自分を殺しにくる。
だが、本当に彼女なのか分からない。他の霊、白川琴葉、火野翔馬、山口春陽、どいつも違う気がする。越本薫だけがあの動画を撮っていたことから、おそらく他の大学生は死んでいると思われた。
しかし、越本は今でも生きているのだろうか。越本がもし生きていたとしたら、全て越本が仕掛けているとも解釈できる。
越本が死んでいたとしても、彼はいつ死んだのか、あるいは殺されたのか?
未来郵便なら死んだ後でも勝手に業者が送ってくれるからできないことはない。動画を作ってマイクロSDに入れて、マイクロSDを封入して未来郵便を運営する会社に送ればいいだけだ。越本もまた怨霊になり、××警察署の刑事たち、いや、××警察署そのものを陥れたいのかもしれない。
では、越本がまだ生きているとしたら、××警察署に送られる時期を見越して、楠木たちの動向を探りながら暗躍しているのか……。事件のほとぼりが冷めていれば、街中に紛れていても気づく人は少ないだろう。自分とは関わりのない他人のことなど、余程のことがない限り一々詮索しない。
赤い目は目に血液が集中しているためだと科捜研で説明があったようだが、そんなことが人間の手で可能なのかも定かではない。目の血管を膨張、出血させる未知のウィルスでもあるのか。
ウィルス。早速赤い目の変死体の話を知った各報道機関は、こぞって変死体の謎について続報を出している。新種のウィルスではないかという噂もある。
ある意味ウィルスと言っても間違いはない。あの動画を観た者が次々と死んでいる。最悪のウィルスだ。
楠木が動画の件を話したことで、同じ所轄の同僚、富杉たちの死体が見つかった警察署の一部の警察関係者は観ていると容易に推測できた。もしかしたら、腕の立つ記者があの動画を入手し、観てしまうことになるかもしれない。その後、その者たちがどうなるのか……想像もしたくない。
ウィルスと言う名の呪いは、必ずしも死んでいる者によって行われているわけじゃない。むしろ生きている人間が呪いを実行することが多いだろう。世界の片隅にある小さな村では、呪術なんてものがまだ存在しているなんて話を何度か聞いたことがある。
はたまたかの有名な宗教団体で昔行われていた禁忌の儀式なんてものもある。書物くらいなら残っているだろうし、過去の記録を掘り起こして、再びやってみようとするならず者が絶対に現れないとも言い切れない。
楠木の頭の中で一日中そんなことが巡り巡って、勤務は終わってしまった。
楠木は失意から立ち直れないまま、自宅のあるファミリー向けマンションに戻った。大きく設けられたマンションの入り口はちょっぴりゴージャス感があり、あのマンションに住んでるなんてさぞかしお給料のいいお仕事をしているのでしょうねと、嫉妬と羨望の目を向けられる。だが、外観がそれっぽいだけで、住もうと思えば福利厚生が手厚い民間の中小企業に勤めている正社員でも住める家賃だ。
××警察署よりも小さいカジュアルなエレベータに乗り、4階の共用通路に降りる。白と灰色で統一されたモノトーンな共用通路だが、清潔感があり、どこかのビジネスホテルのような雰囲気を覚える。楠木はわずかに吹き付ける肌寒い風を受けつつ、408号室のドアを開けた。
玄関のドアを開けた瞬間、少しだけあったかい空気が皮膚に触れて通り抜けた。2人の人が辛うじて通れるくらいの細く伸びる玄関を、天井に埋め込まれた暖色のライトがいつものように照らしてくれている。その細く伸びる通路の奥に、部屋へ上がる場所がある。楠木は小さい歩幅で重い足を運ぶ。
通路の右側の壁には収納スペースがあり、妻の靴と娘の靴で埋め尽くされている。左側の壁はベージュの
部屋の中へ招き入れる四角い廊下が視界に広がって、靴を脱ごうとした時、楠木は思わず手を止めた。
前でお出迎えしてくれているドアは大して珍しくもない十字型の格子で縁取られ、小さなガラスから少しだけリビングを見せてくれている。そのドアの向こうから妻と娘の楽しそうな声が微かに聞こえてくる。ここだけが自分の居場所だと、静かに訴えてくる。
何が何でもこの生活を守りたい。これが俺の全てだ。このひと時が失われぬよう、願って、未来も生きていたい。
楠木は俯き、歯を食いしばって零れそうな涙を瞼で隠した。失われていく視界と音色の一瞬を刻み、折れそうな心を喉の奥へ押し込む。
楠木は瞬きを繰り返し、咳払いをして切り替えようとする。靴を脱いで、玄関の段の上に足を踏み入れた。リビングのドアを開けて、「ただいま」と不安を感じさせない明るい声を出しながら、朗らかな雰囲気に包まれるリビングに入った。
楠木は家族でご飯を食べ、23時を過ぎた頃に寝床についた。それから1時間半が経ったが、眠れるようで眠れない非常に不安定な状態が続いていた。隣で横になっている妻はもう寝息を立てている。
妻は鳥山と蓮口とも面識があり、楠木のことを心配していた。それは流れで気軽に言っただけではないように思えた。本気で楠木の身を心配するように、切なげな表情で言われたのだ。面識のある夫の同僚が2人も不可解な死を遂げていたら、不安になるのもなんとなく分かるが、妻の勘の鋭さに肝を冷やした。楠木は飄々とした態度で大丈夫と取り繕った。
楠木はどうにかして生きることを決めていたが、自分が死んでも困らないよう、あらゆる手筈を整えておくことも心の奥にしまう。
これからやることを整理しているうちに、楠木の視界はぼやけ、瞼が閉じられた。
――――――。
――――。
――。
「こんばんは。越本薫です。あなたに選択権はありません。あの時、僕たちも選択権はなかった。この苦しみを、あなたは受けなければならない」
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