回帰
そして、大学生集団失踪事件にはもう関わらない方がいいとの忠告を受け、楠木と蓮口は神社を後にした。
それから数日が経った。仕事と生活の中で日々を消化する、当たり前の生活が戻り、呪いから解放されたという実感を少しずつ抱けるようになった。体調もすっかり良くなり、目の前のことに集中できていた。
ある晩、富杉は夜の礼拝を終え、神社からほど近い場所にある小さな家で温かいお茶をすすっていた。
6畳一間の和室の部屋にはテレビやネットもない。あるのは箪笥や
小棚の上の電話が電子音を鳴らした。富杉は電話に近づくと、ディスプレイには知っている電話番号が表示されていた。神社からだ。富杉は受話器を取った。
「富杉です」
「宮司、お休みのところ申し訳ありません」
巫女は慌てた様子で恐縮する。
「どうしました?」
「巫女が4人ほど倒れて、息をしてないんです」
「救急車は呼ばれましたか?」
富杉は努めて冷静に話す。
「はい。心臓マッサージもしておりますが、これが自然的な発作ではないように思って」
「どういうことですか?」
「倒れた巫女が、全員目から血を流しているんです」
「え?」
「もしかしたら、怨霊の攻撃を受けているんじゃないかと」
富杉の顔から血の気が引いていく。
「まさか……」
富杉は受話器を離し、受話器が小棚の上で大きな音を立てる。重ね着した服の上にガウンコートを羽織り、家を出た。
神社まで徒歩5分。富杉の目には外灯に照らされる神社が見えていた。
神社で巫女から声をかけられても返事をすることなく走った。富杉は靴を脱ぎ棄て、回廊に入る。服の重さなど気にすることなく、この不安から一刻も早く解放されたかった。
富杉は真っ直ぐ伸びる廊下の先にある扉に近づく。南京錠の鍵を開けて外し、扉を開ける。
その先にある扉に貼ってあった星の魔法陣のお札が床に落ちていた。魔法陣は刃物で切ったように斜めに切られていた。
観音扉を押すと、暗がりの中に佇む3段しかない白いひな壇が現れた。
ひな壇の真ん中にある
絵馬は真ん中から縦に割れて倒れていた。愕然する富杉は信じられないといった様子でひな壇に近づいていく。
「そんな……」
後ろから冷たい視線を感じた。富杉は立ち止まり、ゆっくり後ろを向く。泥で汚れた薄手のシャツを着る島川が俯いて立っていた。
島川は赤い目をした顔を上げ、富杉を見つめた。富杉は喉元を押さえ、膝から崩れ落ちる。不規則な呼吸音を出して倒れてしまう。
見つめてくる島川を見上げた形になった。否応なく、赤い目が富杉に注がれた。富杉は首に爪を立て、喉にある異物を取り出そうとするかのように掻き毟る。
数秒後、引きつった声を最後に、富杉の手が止まった。六角形の部屋の真ん中で、目が見開かれたまま富杉は動かなくなってしまった。
蓮口は刑事課のオフィスで1人残業をしていた。不注意でミスをしてしまい、始末書を書いていた。やむなく友達の飲みの誘いを断って、テンションを下げてため息を何度もつきながら始末書を書き上げた。
こういう日は早く帰ってしまうに尽きる。そう言い聞かせ、鞄を手に取った。すると、誰もいないオフィスで物音が聞こえた。
視線を振ると、蓮口から離れたデスクにあったと思われる、ローラーのついた椅子が、不自然に通路の真ん中に出ていた。
蓮口が異様な雰囲気を感じていると、他のデスクの椅子が後ろに動いているのを見た。それは蓮口のデスクのある通路の一番奥にあるデスクだった。蓮口は自分の目を疑った。しかし、またしても椅子が動く。通路を塞ぐかのように椅子は順に隣のデスクの椅子が動いていく。徐々に蓮口の方へ向かっていた。
蓮口は怖くなり、振り向いてオフィスを出ようとした。すると、蓮口の行く先を塞ぐように反対のデスクからも椅子が引かれた。蓮口は強引に椅子を押し、オフィスを飛び出した。
節電により、蛍光灯が一部消えている廊下を走る蓮口。蓮口が後ろを振り返ると、刑事課のオフィスから女性が出てくるのが見えた。動画で見たことのある姿。薄手のシャツを着た黒いショートヘアの女性。
蓮口は顔を強張らせ、「何で……」と呟いた。蓮口はエレベーターのある場所で止まり、ボタンを押した。横を向くと、女性はゆっくり歩いて近づいているようだった。
廊下の天井の真ん中にある蛍光灯が全て消えると、奥から1つついて、次にその前にある蛍光灯がついて、後ろの蛍光灯が消える。それを早いテンポで繰り返していく。
蓮口は下のボタンを連打するが、上部の表示板はずっと1階を光らせたまま動かない。ゆっくり歩いていたはずなのに、島川はおよそ10メートルまで迫っていた。
蓮口は間に合わないと思い、階段へ走った。8階、7階、6階と下りていく。息を荒立て、必死に足を動かす。
1階に下り、外へ出られる透明な自動ドアへ全力疾走する。喉の奥が乾いていき、食道の壁面が貼りつく。髪を振り乱し、無我夢中で駆け抜けた。
ドアが開き、新鮮な冷たい空気が蓮口の口の中に入り込んだ。蓮口はゆっくりと速度を落とし、両膝に手をついた。蓮口は後ろを振り返る。
警察署の建物の窓には、いくつか明かりが見える。帰りにいつも見る夜の風景だ。
蓮口は安堵のため息を落とし、頬に伝った汗を拭った。疲れてるんだなと言い聞かせ、警察署の敷地から出ようと歩き出す。一歩目を踏んだ瞬間、蓮口は強烈な腹痛に襲われた。
蓮口は体をくの字に曲げて、腹を押さえながらよろける。顔だけを前に見据えつつ歩いていくが、体の奥から何かが這い上がってきた。蓮口は口を押さえるが、黒ずんだ血を吹き出した。
咳き込んだ蓮口は目眩を覚え、倒れてしまう。たまたま見ていた違う課の警察職員が、蓮口に駆け寄って声をかける。
仰向けに倒れていた蓮口は、目眩に揺れる視界の中で、明かりのついていない警察署の1つの窓から、島川が覗いているのが見えていた。蓮口は気が遠くなるのを感じ、ゆっくり目を閉じた。
楠木は自宅で晩酌を取っていた。家族で妻の作った料理を食べながら、妻と小学3年の娘の会話を肴にビールを飲む。
娘は周りで流行ってるらしいゲームを妻におねだりしている。妻は頑なに断っているが、娘はいろんな交渉条件を提示して、しょうがないなぁと妻に言わせようと必死だ。
「なに?」
「え?」
妻が急にこちらに話を振ってきた。
「ニヤニヤして。ちょっと気持ち悪かったかも」
妻は笑いながら冗談交じりに言った。
「いやなんか、楽しそうだなと思って」
急に照れ臭くなってボルチーニのバター炒めを口に入れた。
「変なのー」
娘もおかしそうに笑う。2人が笑ってる。ただそれだけなのに、なんだか幸せに感じる。この喜びは、何物にも代えがたい。優しい妻と可愛い娘との至福の時間を思う存分浸った。
テーブルから料理の品数が減っていき、ロールキャベツとビールが残った。キッチンから食器を洗う音が聞こえてくる。久しぶりに聞いた家庭音に癒される。
テレビは今日起きたニュースをずっと流している。ほのぼのした話やリアリティショーが垂れ流されている中、速報が入ってきた。
神社で5人が不審死。中継が繋がり、黄色い規制線の近くでネクタイを締めた眼鏡の男性が、マイクを持って数時間前に起こった状況を説明してくれている。
男性が話してくれていることと、映っている神社。よく見覚えのある神社の入り口と銅板の屋根。
楠木は手を止めて、食い入るように画面に注目する。
死亡した女性たちが画面に映し出された。見覚えのある顔たち。体中の毛穴が開いて、越本が作った動画を観ている時と同じような、全身がかゆくなる前の予兆みたいなものを感知する。
テレビは楠木の願いも虚しく、富杉蓮の名前を告げた。酔いも醒め、グラスの中にあった泡がいくつも消えていった。
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