月蝕

 島川彩希のブログの痕跡を調べたが、まったく見つからなかった。おそらく消されているんだろう。死んだのは100年以上前に生きていた人だ。望みは薄いと思っていたが、いざ分かってしまうと純粋に落ち込んだ。

島川彩希の親族なら島川彩希の持ち物を持っているかもしれない。その中にヒントがあればと思っているが、今も保管しているかどうか。これもまた望みは薄いだろうと半ば諦めていた。

楠木は張りのある肩を揉みながら夜道を歩く。図書館の駐車場とは反対の方向へ歩いていた。

近くにコンビニがあり、ビールでも買って帰ろうと思ったのだ。楠木は横断歩道の前で立ち止まる。向こうには目的のコンビニがあった。

楠木は空を見上げた。ぐずついた天気が続くとテレビでは言っていたのに、空には輝く満月と散りばめられた星が見えている。雨や雪が降るよりはいい。おかげで寒さも和らいでいた。

信号が青に変わり、楠木は歩き出す。止まっている車のハイビームに当てられながら横断歩道を渡り、向かい来る人の間を抜けていく。


 その人の間に、微笑みが見えた。それは何度も見たことがある微笑みだった。身の毛もよだつ、不敵な微笑みだった。

楠木は振り返って後ろを見た。フードを被った男を探すが、そんな奴はどこにもいない。1秒もなかったはずなのに、姿が見えなくなるのはおかしい。必死になって探していると、クラクションが響いた。


「ボケっと突っ立ってんじゃねぇよ!!」


脂肪を溜め込んだ丸顔の男は運転席の窓から顔を出し、無精髭を蓄えた口を尖らせて振り払うような仕草をする。楠木はすぐに歩道へ避け、振り返る。男は楠木を睨みつけて走り去った。

横断歩道の信号は赤になっていた。楠木は頭を抱え、顔をなぞる。顔が妙に痒くなる。肌に触れた手は温かくも冷たくも感じなかった。

見間違い。自分はおかしくなっている。戒めるようにそう言い聞かせ、楠木はコンビニに入った。


 楠木はビール2本と鶏肉のささみを入れた袋を持ってコンビニを出た。誰も渡っていない横断歩道の信号は青く光っていた。道路の信号も規則正しく赤く点灯している。車も止まっていないのに。自転車も通っていない。誰も、いない。

人通りが少ない、ここはそんな場所ではないはずだった。幹線道路沿いの2車線道路。病院や塾教室、居酒屋やパチンコ店が近くにある。午後9時でこんなに人がいなくなるわけがなかった。

さっき出たばかりのコンビニに視線を振った。コンビニの中には店員がいる。さっき会計してくれた白髪のおじさんもいる。エロ本を立ち読みしている黒い服を着た眼鏡の若い男もいる。

たまたまだろう。気が立っているだけ。さっきまで自分はおかしいと戒めたばかりなのに。


楠木は横断歩道を渡っていく。たった1人で渡る横断歩道は何も変わらない。何もおかしくないはずだ。街灯だってついている。小さなビルも窓の明かりがある。楠木は足早に横断歩道を渡りながら、周りの景色を確かめていく。

しかし、その確認はすぐに止まった。足も止まる。道路が真っ直ぐ続くアスファルト。真っ黒で不気味な感じがする。それよりも、楠木の目を惹いたのは空だった。燦然さんぜんと輝く星に囲まれた月は、赤く光っていた。

楠木は携帯を取り出し、ネットで検索してみる。今日が月食なんて文字はどこにも見当たらない。月はクレーターのような痕までくっきり見えるほど美しく魅せている。さっきまで普通の月だったのに、ものの10分で激しさを物語るほどの赤に様変わりしている。楠木は目を見開き、もう一度月を見上げる。


 さっきから少しずつ、月が大きくなっている気がした。月は訴えるように赤みを増していく。赤い光は暗闇も奪っていくように周りの黒地も赤みを帯び出す。

冷え切った肌に温もりが伝った。頬に触れた物に手で触れる。しっとりと肌に馴染む指先に目線を落とした。街灯に照らされた指先も赤く光っている。

血。一瞬でそう認識した。固まった体の代わりに思考へ展開しようとしたが、肌色の手にまた赤が触れてきた。肩や頭に小さな衝突を感じた時、全身に降り注ぐように雨が降り注いできた。生温かい雨はひらけた空の上に浮かんでいる赤い月から降り注いでいるように見えた。周りの全てが赤い血で染まっていく。道路の真ん中を塞ぐ樹木も、街灯も、コンクリートの建物も全て。

楠木は走った。雨の届かない屋根のある建物へと急ぐ。すぐに目に入ってきた屋根のある場所で一度足を止める。しかし、軒先では全ての雨を防ぐことはできなかった。地面を打つ雫は弾け、地面の上でまとまって排水溝へ流れて行こうとする。

楠木は屋根の軒先に沿って駐車場へ向かった。


 大降りの赤い雨の中、車へ駆け込んだ。血に濡れた全身の拭う物は助手席の前にあったティッシュくらいしかない。仕方なくティッシュで顔を拭うが、コートやスーツは赤い雨を吸い込んでしまって、ティッシュではもうどうにもならなかった。スーツの下から出たカッターシャツにも侵食し、袖は真っ赤に染まりきっている。

震えた手で顔や両手の血を拭って、助手席の小さなゴミ箱にほけていく。バックミラーで自分の顔を確認する。大分取れたようだが、べたついた感触はまだ残っていて、不快極まりない。

赤い雨は楠木の車にも絶え間なく降り注いでいる。フロントガラスに流れる雨の筋はいくつも作られ、下へ落ちていく。周りに止まっている車も同様に赤い雨の餌食になっているようだ。

にも関わらず、誰も騒いでいる様子がない。静かに白線の中に佇む数台の車は灯りを消し、そこに留まっている。近くの建物の窓も黄色を灯しているだけ。誰も外の様子を窺っていない。


 楠木はバックミラーに映る自分に視線を戻す。この身なりを見られたら、不審に思われる。真っ赤に染まる服。

自分の血くらい誰でも見たことがあるはずだ。血には独特の色味がある。そういう違いを見分けられるのは、決して人の血を見慣れている人間に限ったことではない。

もし、ほぼ全身に赤い物がついているところを誰かに見られ、それを血だと思われたら、警察に通報される可能性が非常に高い。同僚からまた事情聴取を受ける羽目になる。今度は内部の中の話では済まされない。家族の身にも影響が出始めるだろう。

楠木は車のエンジンをかけ、自宅へ急いだ。



非常階段を上り、楠木は自分の部屋に戻った。玄関に腰を下ろし、濡れた靴と靴下を脱いだ。

足早に洗面所へ向かう。上体を倒し、顔全体に冷たい水を浴びせた。ゴシゴシと手のひらで顔を擦り、べたつきを取っていく。プッシュ式のハンドソープを何度も押し、多量の洗剤を手のひらに乗せる。両手で激しく擦り、両手の隅々に洗剤を行き渡らせる。取り切れなかった赤みが洗剤に溶け、黒い穴へ吸い込まれていく。


「どうしたの?」


いきなり洗面所に顔を出した早弥子に思わず固まった。早弥子も驚いた顔で楠木の返事を待っている。楠木は顔を背け、手洗いを再開する。


「いや、帰りに突然呼び出されて、現場に向かったら犯人が血まみれだったんだ。替えの服がなかったからしょうがなくだ」


「ああ……そう」


早弥子は戸惑いつつ相槌を打つ。楠木は両手についた水分をハンガーラックにかけられたタオルで拭い、「着替えてくる」と言って洗面所を出た。

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